鶴岡(宗吾神社)楼主の名前

藩政時代から続いた七日町と八間町の下旅籠は、八間町を北曲輪、七日町を南曲輪とよび、不夜城を誇っていましたが、風教上よろしくないという見地から、小眞木田ん圃(双葉町)に移転することになり、期限は昭和7年3月になっていました。*1
ところが、同2年暮れまでに移転を完了したのは、小松楼、松形楼、矢島楼、中村楼など8軒で、一流どころは移転を渋っていました。その経緯は、まず小松楼という三流どころの楼主金野小治が率先し、まるで軍艦のような妓楼をつくり、そして個人的に信仰し自庭に祀っていた宗吾神社を同遊廓の氏神とするよう寄付しました。これに一流どころの楼主たちが反発したため、移転が遅れることになりました。*1
宗吾神社は、現在も双葉町にあります。

鳥居の脇に寄進者の一覧が書かれた碑がたっています。

宗吾神社の由来。これによると、「金野小治が息子の小三郎を佐倉に使いし、下総佐倉の宗吾霊堂の分霊を受け、所有地に境内を整備し崇拝していたが、これを町の願いにより町の守護神として寄贈譲渡し、以後町が管理している。」と書かれています。

寄進者の名前。一番右に、小松楼楼主の金野小治、右から4番目に息子の金野小三郎の名前があります。6番目の若喜楼は、妓楼の名前でしょうか。

【参考文献】
*1 目で見る鶴岡百年中巻(昭和戦前篇)(エビスヤ書店,1977)P.29

鶴岡(双葉町遊廓跡)転業アパートとして当時の面影が残っています。

鶴岡の「双葉町遊廓」は、大正15年から昭和3年までの間にできました。双葉町は近年の住居表示で正式町名となりましたが、それまでは俗称でした。鶴岡市大字日枝字天池が正しい地名なのに、この一角は「フタバチョウ」で通り、それは遊女の里の代名詞でもありました。*1
現在の双葉町に、極端に道幅が広い通りがあります。どうやらこのあたりが遊廓の中心部であったようです。

昔からある建物は、現在は、アパートや民家になっています。

立派な松の木がある建物。

鮮やかな色のペンキで塗り替えられた建物。

【参考文献】
*1 半田岩雄: 鶴岡の今昔(東北出版企画,1975)P.35