吉原(おはぐろどぶ跡)段差が残っています。

とおはぐろどぶ跡(水道尻側)。

おはぐろどぶと旧遊廓域への道が交差する箇所。おはぐろどぶの方が低いので段差になっています。

北西方向へ進むと、おはぐろどぶと旧遊廓域との段差は顕著になります。

駐車場となっている場所。50cmほどの高低差があります。(写真奥はソープランド街)

吉原(おはぐろとぶ跡)黒くなっている石

かつての吉原遊廓は「おはぐろどぶ」という掘で囲まれていましたが、現在も周辺の道路にその名残をみることができます。

おはぐろどぶがあった場所は、遊廓があった場所よりも低い位置にあったため、その高低差を埋めるための階段があちこちにあります。

階段の脇の石垣の下の石が、かつてのおはぐろどぶの名残です。*1

よく見ると、下の石は黒ずんでいます。

【参考文献】
*1 町田忍:東京ディープ散歩(アスペクト,2008)P.33

吉原(おはぐろとぶ跡)黒くなっている石

 かつての吉原遊廓は「おはぐろどぶ」という掘で囲まれていましたが、現在も周辺の道路にその名残をみることができます。

おはぐろどぶがあった場所は、遊廓があった場所よりも低い位置にあったため、その高低差を埋めるための階段があちこちにあります。

階段の脇の石垣の下の石が、かつてのおはぐろどぶの名残です。*1

よく見ると、下の石は黒ずんでいます。

【参考文献】
*1 町田忍:東京ディープ散歩(アスペクト,2008)P.33

吉原(浄閑寺の永井荷風の詩碑)明治の文化また灰となりぬ

今回は、三ノ輪~吉原(台東区)の町並みと風俗を散歩します。
三ノ輪の浄閑寺は、かつての吉原遊廓の近くにあって、遊女の遺体の「投げ込み寺」としても知られる寺です。

ここに永井荷風の詩碑があります。

これは「震災」と題した詩ですが、ここで震災というのは、大正12年9月1日の関東大震災のことです。死者9万9千500人、行方不明4万4千300人、母屋全壊12万8千戸、半壊12万6千500戸。そして消失がなんと44万7千100戸。地震の規模はマグニチュード7.9でした。*1

荷風の詩「震災」に、
或年大地震にゆらめき
火は都を焼きぬ
江戸文化の名残烟(けむり)となりぬ
明治の文化また灰となりぬ
とあるように、関東大震災で立ち上った火はみごとに江戸の都を焼き尽くしてしまいました。吉原は、すでに明治44年の「吉原大火で」江戸伝来の吉原の文化的残照は消滅していましたが、それでもなお、震災までの大正期は、まだわずかに江戸・明治の名残が漂っていましたが、それさえも無残に震災は奪い去りました。*1

その後、吉原は昭和20年の東京大空襲を経て、新しい「廓」として生まれ変わりました。
------永井荷風「震災」------
今の世の若きひとびと
われにな問ひそ今の世と
また来る時代の芸術を
われは明治の児ならずや
その文化 歴史となりて葬られし時
わが青春の夢もまた消えにけり
団菊はしおれて櫻癡は散りにき
一葉落ちて紅葉は枯れ
緑雨の声も亦耐えたりき
圓朝も去れり 紫朝も去れり
わが感激の泉 とくに枯れたり
われは明治の児なりけり
或年大地震にゆらめき
火は都を焼きぬ
柳村先生既になく
鴎外漁史も亦姿をかくしぬ
江戸文化の名残烟となりぬ
明治の文化また灰となりぬ
今の世のわかき人々
われにな語りそ今の世と
また来む次代の芸術を
くもりし眼鏡ふくとても
われ今何をか見得べき
われは明治の児ならずや
去りし明治の世の児ならずや
【参考文献】
*1 渡辺英綱:新編・新宿ゴールデン街(ふゅーじょんぷろだくと,2003)P.227-P.232

山谷~吉原(中江)桜肉料理

吉原土手の通りに面して、桜鍋料理の専門店「中江」があります。

馬肉のスキヤキのことを馬鍋とかサクラ鍋といいます。馬鍋は、明治の文明開化の申し子ともいえる牛鍋に対応したものです。馬肉のことを隠語で「サクラ」ということからサクラ鍋と呼ばれるようになりました。*1

当時、遊廓があり、粋な歓楽街として栄えていた吉原には桜鍋を売る店が二十軒以上も軒を連ね、吉原名物、数少ない東京の郷土料理として、吉原遊廓行き帰りの粋客から朝・夜問わず食されました。「中江」は、その中の一店舗として明治38年に暖簾を掲げました。*2

桜鍋のロース(1700円)とザク(ネギ、しらたき、腑の盛り合わせ、560円)を注文。

【参考文献】
*1 桜肉料理「中江」パンフレット
【参考URL】
*2 桜なべ「中江」:公式ホームページ「中江百年物語」

山谷~吉原(吉原公園)大文字楼があった場所です。

吉原の通りに面して、吉原公園がります。ここは、かつての吉原遊廓の大籬(おおまがき=大店のこと)の大文字楼の跡地です。*1

大文字楼は、「角海老楼」「稲森楼」と共に吉原の三大妓楼で、江戸町1丁目の表通りから裏通りまでつつ抜けでした。その裏通りには、鉄漿溝(おはぐろどぶ)がありましたが、大文字楼の楼内から太い鎖で頭上に橋がつなぎとめてありました。度重なる吉原の災害に、非常の場合内側からこの吊橋を下ろし、遊女を廓外へ逃がすようにしたものです。*1

現在の吉原公園からはソープ街が一望できます。

大文字楼の吊橋はこのあたりにありました。*2

【参考文献】
*1 波木井皓三:大正・吉原私記(青蛙房,1978)P.18-P.19
*2 稲垣史生:江戸の再発見(新潮社,1980)P.316-P.317

入谷~吉原(吉原弁財天の弁天池)金魚が泳いでいます。

吉原弁財天には、弁天池(花園池)が残されています。池にネットが被せられています。

池にネットが被せられているネットは、おそらく、池に泳いでいる金魚が盗まれるのを防止するためのもののようです。

金魚だけでなく、小さな緋鯉も泳いでいます。

日本橋の吉原遊廓(元吉原)が当時湿地だったこの地に移転(新吉原)しましたが、その際、湿地の一部を埋め立てた際、池の一部が残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼主たちの信仰をあつめました。現在は浅草七福神の一社として毎年正月に多くの参拝者が訪れています。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋め立て工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなりました。(案内板より)

入谷~吉原(吉原弁財天)昔の吉原の面影を残す場所

途中、吉原弁財天へ立ち寄りました。ここには数多くの見所があります。

「花吉原名残碑(はなのよしわらなごりのひ)」は、吉原が、江戸唯一の幕府公認の遊郭であり、昭和33年の売春防止法が施行されるまで続いていたことを名残惜しむ碑です。

花吉原名残碑の隣には、幕府の許可を得て元吉原を開業した庄司甚右衛門の碑があります。

案内板があるので、これを読むと吉原の歴史を知ることができます。

----花吉原名残碑(はなのよしわらなごりのひ)----
吉原は、江戸における唯一の公許の遊廓で、元和三年(1617年)、葺屋町東隣(ふきやちょうひがしどなり、現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭(よし)の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良いう文字に改めたことによるという。
明暦三年(1657年)の大火を契機に、幕府による吉原遊廓の郊外移転が実行され、同年8月、浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び、移転前の遊廓を「元吉原」という。
新吉原は、江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和三十三年「買春防止法」の成立によって廃止された。
(後略)