湯河原(芸者屋の「仲乃屋」)五軒町

落合橋を渡り、上り坂を登りきった高台に、芸者屋の「仲乃屋」があります。

湯河原の温泉芸者の船岡なかさんの半生を描いた「温泉芸者一代記」*1 によると、「仲乃屋」は、昭和8年頃に建てられました。
船岡なかさんは、大正13年、17歳のときに「赤ペン」に売られてきました。船岡さんの年季は昭和3年に明けましたが、すでに、そのとき、この土地で生涯、温泉芸者としていきることを決めていたそうです。ペン街は、昭和5,6年頃から遊里らしい賑わいを見せ始め、ぺン店や料亭、待合、旅館などが増えました。*1

現在も「仲乃屋」は、健在です。

「仲乃屋」東側の目の前に、「赤ペン」がありました。*1

【参考文献】
*1 井田真木子:温泉芸者一代記(かのう書房,1989)P.10,P.60,P.126

湯河原(五軒町)赤いペンキの家

今回は、湯河原(神奈川県足柄下郡湯河原町)の町並みと風俗を散歩します。
湯河原駅の西側、千歳川と藤木川が合流する地点に落合橋があります。

この橋の南側の高台には、かつて「五軒町」と呼ばれた花柳街がありました。湯河原温泉の発展は五軒町をぬきにしては語れない程、往時殷賑をきわめていました。*1

五軒町の由来は、次の通りです。
日露戦争後、湯河原駅の西側に陸軍病院ができ、その病院の米を作るため、落合橋のふもとに水車小屋ができました。水車小屋周辺には、傷病兵の散歩場として公園ができ、人家も出来始めました。そのうちの1軒に、高等馬車の別当をしていた岩崎忠次郎という男がいました。その女房のキヌさんは、なかなの美人で、小料理屋を始めました(大正3年)。たまたま主人が馬車に塗った赤いペンキの残りを、その店の塀に塗ったことから、店は「赤いペンキの家」と呼ばれるようになりました。けれどもそれが幸いしたのか急に店は繁盛し、女房だけでは間に合わなくなり、女の子を5、6人置くようになり、増築もし、栄える一方でした。*1

「赤いペンキの家」通称「赤ペン」を真似て、新しい飲み屋も増えてきました。「白ペン」、「黒ペン」、「金ペン」、「銀ペン」といい、ペン街が形づくられました。しかし、町の人は、「ペン街」という呼び名を好まなかったため、料理屋が五軒できたので、「五軒町」と呼びました。*1

【参考文献】
*1 湯河原若葉会:湯河原のはなし 其の二(湯河原温泉観光協会,1978)P.14 「五軒町由来」