古市(麻吉旅館)古市で営業する昔ながらの旅館です。

麻吉(あさきち)旅館は、古市で現在も営業する昔ながらの唯一の旅館です。*1

当時、ここは麻吉料理店といって明治初年において第一級の料亭で、置いている芸者は20人あまりもいました。芸者はみな美人で、ここでの芸者は他の店にはでないほど麻吉は全盛をきわめました。*1

旅館は崖の上にたっていて、石段を下ると旅館の建物の裏側へ降りることができます。

崖下の伊勢自動車道から見た麻吉旅館。

【参考文献】
*1 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.126,P.134


■カテゴリ 旅館 古市

古市(大林寺)お紺の墓

 古市にある大林寺。

ここには、孫福斎(まごふくいつき)と遊女お紺の墓が立てられています。
この墓は「油屋騒動」の芝居を演じた四代目坂東彦三郎が建立したものです。「油屋騒動」は、寛永8年(1759年)、宇治に住む医者の孫福斎が古市の遊廓の油屋にあがって、ふとしたことから怒り出し、数人を死傷させた事件で、この事件は「伊勢音頭恋寝刃」(いせおんどこいのねたば)という芝居に脚色されて上演され、非常な人気を得ました。*1*2

お紺は49才で病死しました。*1

墓石に油屋の文字があります。

【参考URL】
*1 大林寺:公式ホームページ「油屋騒動
【参考文献】
*2 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.119-P.123

古市(間の山)お杉・お玉の碑

今回は古市(三重県伊勢市)の町並みと風俗を散歩します。古市の風俗散歩は、2006年9月に引き続き、今回で2回目です。
古市遊廓跡の入口にあたるのが「間の山」の坂道です。遊廓が全盛だった大正時代の間の山は、今よりも坂が急でしたが、人力車は威勢よく行き来しました。*1

間の山の坂の途中に、「お杉・お玉の碑」があります。
お杉・お玉というのは、二人の女性が三味線を引きながら演技をしているのに対して、お客がほんのすぐ近くから小銭を投げるのですが、それを女たちがたくみにバチで受け止め、これを避けたりして体にあたらないようにする遊び場で、古市の見世物のひとつでした。*1

間の山は、井原西鶴の「西鶴織留」や中山介山の「大菩薩峠」にも登場します。*1

間の山の近くの「まちづくり実行委員会」の民家に、当時の古市の写真が掲載されています。

【参考文献】
*1 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.108 -P.110


■カテゴリ 伝承 古市

古市(牛乳箱)物を大切にする気持ちが伝わってきます。

古市には、牛乳箱も残されています。
森永牛乳の牛乳箱は、普通は縦長ですが、今回見かけたのは横長です。「森永牛乳の4文字があるだけで、「エンゼルマーク」や「ウルトラプロセス」などのロゴはありません。

牛乳箱、ヤクルト、郵便ポストの3点セット。

地元の牛乳メーカーでしょうか。山村牛乳の牛乳箱。コンセプトは、「濃厚牛乳」のようです。

こちらの牛乳箱は、道具箱として2次利用されています。物を大切にする住人の気持ちが伝わってきます。


■カテゴリ 牛乳箱 古市

古市(備前屋跡)古市三大妓楼のうちの一つでした。

長峯の山を登りきったあたりが、古市遊廓の中心部でした。

備前屋、杉本屋、油屋の三楼は古市三大妓楼と呼ばれていました。備前屋があった場所は、現在は駐車場になっています。

備前屋跡の碑。

備前屋は、牛車楼とも呼ばれました。これは、享保年間に名古屋に出店を持ったとき、さる高貴の者が牛車で来遊したことがあったためといわれています。*1

【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.156

古市(両口屋)坂を上りきったところにあります。

坂をを登っていくと、まるで城郭のような立派な石垣が見えてきます。この石垣は、坂道の斜面に立つ古い大きな家の土台を支えるものです。

この古い大きな家は、元旅館の「両口屋」です。明治30年頃の古市には、遊廓30軒(遊女250人)、料理屋6軒、うなぎ屋4軒、菓子屋5軒、旅館14軒がありましたが、「両口屋」は、そのうちの旅館の1軒でした。*1 かつて、この坂道の両側に広がっていた遊里の賑わいぶりを想像させる建物です。

坂を登り切ったところは、三叉路になっていて、この建物が三叉路の分岐点の目印のような存在になっています。この古い建物の玄関に乗用車が突入しているように見えますが、これは単に駐車しているだけです。玄関前の木が生長しすぎていて、建物の全容が窺いにくくなっているのがちょっと残念です。

建物は、かなり老朽化が進んでいます。

【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971) P.159

古市(小田の橋)古市参宮街道の入口

今回は、古市(三重県伊勢市)の町並みと風俗を散歩します。
古市には、かつて古市遊廓があり、お伊勢参りの人々で賑わっていました。近鉄線宇治山田駅から勢田川に向かって10分ほど歩いたところに、「古市参宮街道」の案内板があります。これによると、古市遊廓は日本三大遊廓の一つと紹介されています。

小田橋は、伊勢神宮の外宮と内宮を結ぶ参宮街道の入り口にあたり、江戸時代から勢田川にかかっていました。(「小田橋」の案内板より)

橋の欄干。

小田の橋の案内板。
伊勢といえば、誰もが古市遊廓を連想するほど、この色里は天下にその名が高く、年間数十万人と言われる旅客の落とす巨額の金銭のほとんどが、古市遊廓に吸収されたといわれています。*1

----「古市参宮街道」の案内板(抜粋)----
「伊勢に行きたい伊勢路がみたい、せめて一生に一度でも」と道中伊勢音頭にうたわれたように、江戸時代、伊勢参りは庶民の夢でした。全国津々浦々から胸躍らせて伊勢参りに向かう人々、特に、慶安3年(1650年)、宝永2年(1705年)、明和8年(1771年)、文政13年(1830年)、慶長3年(1867年)の「おかげ参り」には、全盛期を迎え、多いときには、半年間に約458万人に参詣者があったと記録に残されています。
外宮から内宮へ向かう古市街道は、伊勢参りと共に栄えました。その中でも古市は、江戸の吉原、京の島原と並ぶ三大遊廓で、全盛期には、妓楼70軒、遊女1000人を数えました。
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.142