草津(旧遊廓地の地蔵)奉納額に妓楼の名

遊廓の敷地の角にある出世地蔵・水子地蔵

東新地の遊女の信仰を集めていたようです。

奉納額に「草津東新地東樓(楼)」と書かれています。

石柱の裏側に山貞(やまて)楼の文字が彫り込まれています。
山貞楼は、北側の奥から2軒目にあった妓楼です。*1

【参考文献】
*1 草津市史編さん委員会:草津市史(草津市,1986)P.633-P.637

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草津(遊廓跡)当時の妓楼の屋号が残る建物

遊廓跡地には、妓楼の面影を残す建物が残っています。
通りの南側には、吉富楼、月の家、常盤楼、開盛楼、大富楼の順で並んでいました。*1

唯一、当時の妓楼の屋号が残る開盛楼。位置も当時のままと思われます。

南側の中ほどにある建物。

北側に位置する束田タバコ・菓子店は、初期から存在しました。*1

【参考文献】
*1 草津市史編さん委員会:草津市史(草津市,1986)P.633-P.637

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草津(東新地遊廓跡地)藤・しだれ柳の分離帯

草津新地の起源は、明治33年で、東(あづま)新地と呼ばれ、東横町の南、字小二俣の水田の地に形成されました。 草津新地の最盛期は、第一次大戦中の好景気の時期(大正8年前後)でした。当時の東新地の構成は、道路を挟んで貸座敷が合計16軒並んでいました。新地は、売春防止法が施行される昭和33年まで続きました。*1
「大日本職業別明細図」*2 によると、「遊廓」、「東新地遊事ム所」の記載があります。

中央の道路には、藤・しだれ柳の分離帯がありました。*1

吉冨楼があったあたり。

中央の道路がいかに広いかは、新地の周囲の道路の道幅が狭いことにより、実感できます。

【参考文献】
*1 草津市史編さん委員会:草津市史(草津市,1986)P.633-P.637
*2 東京交通社:大日本職業別明細図.大津市他(東京交通社,1937)

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