堀江(新町遊廓跡地)石畳の路地

遊廓があった新町は、1945年(昭和20年)の空襲により壊滅。終戦後、お茶屋さんが建ち新町は復興しましたが、次第にすたれていきました。現在はビル街になっています。*1

新町の遊女にまつわる浄瑠璃などで有名な吉田屋の夕霧太夫ですが、舞台となった吉田屋は17代続きましたが、昭和34年にやめられました。吉田屋の跡の3分の1は、フーセンウサギ本社ビル(新町2丁目2-2)となりました。*2

最後まで残っていたお茶屋の「しづ家」も昭和62年に閉店となり、現在はマンションに建て替わっています(写真右側)。*2

「しづ家」の跡地の近くに、花街だった頃の雰囲気の残る石畳の路地があります。

【参考文献】
*1 中村哲:写真で見る消えた大阪の宝(日本機関紙出版センター,2010)P.84-P.85
*2 鈴木金子:私の見てきた新町(鈴木金子,2000)P.24,P.50,P.63

堀江(新町北公園)「新町九軒桜堤の跡」の碑

江戸時代、幕府から公認された遊廓は、大阪「新町」、京都「島原」、江戸「吉原」の3か所でした。その中でも大阪の新町が最も古いと言われています。単なる遊廓として利用されるだけでなく、武士や商人たちの社交場や商談場という使われ方もしました。*1

新町遊廓は、郊外に置かれたため、遊廓の揚屋の庭園はかなり広い面積を占めていました。庭園をつくって四季の変化を味わえるようにしていた点は、江戸時代らしい余裕でした。また、新町では、客寄せに桜が植えられていました。桜の咲く時分に、太夫と天神が町の中を着飾って練り歩いたので、見物人がそれを見ようと押し寄せました。*2
近松門左衛門の人形浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」は、ここを舞台にした名作で、ここに植えられた桜並木は「九軒桜堤」と呼ばれました。「新町九軒桜堤の跡」という碑が新町北公園の隅に建てられています。*1

近松門左衛門の人形浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」は、新町の遊廓を舞台にした名作で、美しい遊女の「夕霧」に惚れて通いつめてスッテンテンになり、親に勘当されていた伊左衛門の物語です。

新町北公園のすぐ近くに、歌舞伎役者の中村鴈治郎(初代)の碑があります。中村鴈治郎は、新町遊廓の妓楼扇屋に生まれました。

【参考文献】
*1 中村哲:写真で見る消えた大阪の宝(日本機関紙出版センター,2010)P.84-P.85
*2 飛田範夫:グリーン・エージ(2003.9)P.42-P.45「都市における植物文化–江戸時代の大阪(5)新町遊郭の庭園 」

堀江(和光寺)花魁銀杏

今回は、堀江(大阪市西区)の町並みと風俗を散歩します。
堀江の地は、かつては、東を西横堀川(埋立。阪神高速1号環状線北行き)、西を木津川、南を道頓堀川(西道頓堀川)、北を長堀川(埋立。長堀通)に囲まれた島の地域で、中央を東西に堀江川(埋立)が流れていて、「堀江」の地名の通り「水都大阪」を象徴する町でした。
北堀江に和光寺があります。

和光寺は、元禄11年(1698年)、堀江新地が開発されるときに建立されました。
堀江新地には遊廓があって、和光寺には、芸妓がお参りに訪れました。*1

当時、浄光寺にあったた銀杏の木の影が振袖姿の高島田(芸妓や遊女が好んで結った髪型)の髪型をした美女が手を合わせている様に見えたので、「娘銀杏」と呼ばれていました。1843年(天保14年)頃より、その影はあみだ池の方向を拝み、目は堀江の遊廓を見ているようだと人々は騒ぎ始めました。これに対し奉行所が銀杏の上半分を切り落として影が見えないようにしてしまいましたが、そんな頃、和光寺境内にあった銀杏の樹が花魁の頭のように茂ってきたので、「切り落とされた娘銀杏が花魁となって現れた。」と人々は驚き、以来、「花魁銀杏」と呼ばれるようになりました。*1

現在、名物の銀杏は幹を残すのみとなっています。

【参考文献】
*1 中村哲:写真で見る消えた大阪の宝(日本機関紙出版センター,2010)P.108