下関(新地西町の路地)緑色の牛乳箱

路地から脇道に入いります。植木鉢が置かれている軒下に牛乳箱がありました。緑色の牛乳箱は、鉢植えとの相性もばっちりです。

シモラク牛乳の「シモラク」は、「下関酪農」の略でしょうか。

タイプの異なる少し大きめの牛乳箱。こちらには、「山口県酪」と書かれています。

緑色の木の格子と米屋の看板がよく調和しています。

下関 牛乳箱
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下関(新地西町の路地)食堂があります。

新地西町の奥まったところにある路地。理容室や米屋があります。

この路地を進んでいくと、営業中の食堂があります。

路地の雰囲気と調和した風情のある建物です。

コンクリート製の防火水槽でしょうか。凝った装飾がほどこされています。

下関 路地
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下関(新地西町)カフェー調の装飾を残すお宅

新地西町には、古い建物がいくつか残っています。中でも交差点の角にあってひときわ目を引くのが「赤線跡を歩く2」*1 に掲載されているこちらのお宅です。

入口付近。カフェー調の装飾が残っています。

「下関観光社交組合員証」のプレートが残っています。

水色のタイル。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.49

下関 下関新地遊廓 赤線·私娼跡
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下関(新地西町)国道沿いの新地入口付近に旅館があります。

下関駅から国道191号線を北に伸びています。

国道の東側には高杉晋作終焉の地があります。

かつての新地遊廓の入口付近。*1 風情のある旅館があります。

旅館の入口付近。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.48

下関 下関新地遊廓 旅館
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下関(末廣稲荷神社)下関最古の稲荷神社

明治時代、下関には、稲荷町、裏町(2ヶ所)、豊前田、竹崎、今浦、新地の計6ヶ所に遊廓があり、町のほとんどを花街が占めていたと言われるほど、下関は「女郎立国」で、高杉普作ら当時の豪傑先生たちも女郎相手に逸情を弄んだとされます。*1
没落した平家一門の女官たちが色を売って生活を支えたのが遊廓の起こりであるため、それだけに由緒もありました。*1 遊女は年中素足でいるのが一般的でしたが、下関の遊女は格式が高く、足袋をはいていました*2
赤間町の「東京第一ホテル下関」の近くの道路沿いに末廣稲荷神社の鳥居があります。

稲荷町には、この末廣稲荷神社だけが当時を伝えるものとして残されています。

稲荷神社にある案内板。「稲荷町は、日本の廓の発祥の地とも言われております。」と紹介されています。

先帝祭の賑わいから比べると、非常に寂しい感じのする稲荷神社です。

【参考文献】
*1 沢忠宏:先帝祭を支えた「関の廓」盛衰史(沢忠宏,1985)P.26
*2 渡辺憲司:江戸遊里盛衰記(講談社,1994)P.46

下関 稲荷町遊廓 遊廓·遊里跡
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下関(赤間神宮の先帝祭)語り継がれる悲哀の歴史

今回は、下関(山口県下関市)の町並みと風俗を散歩します。
寿永4年(1185年)、壇ノ浦(関門海峡)で平家は源義経を総大将とする源氏に破れ、わずか8歳だった案徳天皇も入水され、平家は滅亡しました。
下関は、遊女発生の地と言われています。壇ノ浦で敗れた平家の女官たちが、自らの生活のために春をひさぐようになったという伝承です。それでも女官たちは、毎年の案徳天皇の命日には帝の御影堂(みえいどう)に参拝しました。*1
江戸時代になって稲荷町に遊廓ができると、廓の主人がこの伝承を後世まで伝えようとお抱えの遊女たちに参拝を続けさせました。これが先帝祭として現在に伝えられています。*2

先帝祭は、毎年5月3日に赤間神宮で行われます。大入り満員の状況で、警察官立会いにより入場制限が行われるほどでした。

先帝祭は、豪華絢爛な衣装をまとった5人の太夫が市中をパレードし、案徳天皇を祭っている赤間神宮を参拝するもので、神宮内の水天門から本殿へかけられた天橋を渡って参拝する「上臈参拝」でクライマックスを向かえます。*2

「上臈参拝」で外八文字を披露する3番太夫。顔の向きはそのまま、胸を反るようにして片手をさっと突き出して肩を引き、前に進んでいきます。観客から拍手が沸き起こります。

【参考文献】
*1 渡辺憲司:江戸遊里盛衰記(講談社,1994)P.47
*2 しものせき海峡まつり実行委員会:「第22回しものせき海峡まつり」パンフレット

下関 伝承 稲荷町遊廓
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