博多(石堂川沿いの風景)バラック群跡地

石堂川沿いには、戦後、大規模なバラック群がありました。*1

「電柱歴史案内」によると、第二次大戦敗戦直後、大陸へ帰ろうとする人々が続々と博多港へ終結してきました。ところが、米国とロシアによって二つの祖国(韓国と北朝鮮)が成立。それに続く朝鮮戦争の混乱によって帰国を諦めた人々は、再び日本各地へ散っていきましが、そのままこの地に残った集団もあって、昭和30年代まで巨大な難民キャンプの様相を呈していました。この石堂川を挟んで、西岸に韓国系、東岸に北朝鮮系と一応のすみわけがありました。

石堂川東岸に隣接して、大津町商店街という日本人商店街がありましたが、商店街の中には、朝鮮系食材を扱う店が数軒ありました。大津町商店街は、その後再開発により「博多せんしょう」という商業施設に移転しましたが、その際、いくつかの店舗は「博多せんしょう」前の道路に面したところに店舗を構えました。*1

闇市時代からある飲食店。*1

【参考文献】
*1 島村恭則:〈生きる方法〉の民俗誌(関西学院大学出版会,2010.3)P.61,P.66,P.125-P.128

博多(名月の墓)遊女

博多の祇園町の万行寺。

ここに、遊女の名月の墓があります。

門をくぐったすぐ右側の奥まった場所。

信仰深かった遊女・明月の初七日に墓から蓮の花が咲いたという伝説が残っています。

博多(須崎問屋街周辺)円柱の柱を持つ建物。

須崎町の須崎問屋街周辺には、古い商業ビルが残っています。その中で、茶色のタイルの円柱を持つ建物は、異彩を放っています。

かなり太い円柱です。問屋を営んでいた建物でしょうか。

こちらは、ゲストハウスを営む店舗。茶色の円柱が見えます。

飲食店の建物の玄関部分の装飾。

博多(大浜の赤線跡)タイルで装飾された建物

今回は、博多(福岡県博多区)の町並みと風俗を散歩します。
前回*1 訪問した「大浜」の赤線跡を再び散歩します。
繊細なタイル使いをとどめるお宅。両隣はマンションです。*2

玄関部分の装飾

タイルで装飾された丸窓。

建物の細部にわたって、タイルの装飾が施されています。

【参考記事】
*1 風俗散歩(博多):大浜の赤線跡(2012.11)
【参考文献】
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.37

中洲(北新地)中洲の歓楽街発祥の地

今回は、中洲(福岡県福岡市)の町並みと風俗を散歩します。
繁華街からは離れた中洲の北端に小さな公園があります。

浜新地(北新地)の碑。かつてのこのあたりは北新地と呼ばれた花街だったところで、中洲の歓楽街発祥の地です。

旧町名を示す電柱の表示。

江戸歌舞伎の宗家7代目市川団十郎が天保5年(1834年)に浜新地で豪華な歌舞伎を興行したことを記念する碑。

博多(築港寄せ場)「タチンボ」

築港寄せ場は、1950年代初頭に形成されはじめました。寄せ場とは、路上労働市場(タチンボ)とそれを取り囲む日雇い労働者相手の簡易宿や食堂などからなる空間のことです。*1

このあたりに、築港寄せ場がありました。*1
現在は、それらしい施設は見あたりません。

信号より手前で港湾労働者の手配が、信号より奥で土木・建設労働者の手配がそれぞれ行われていました。*1

「タチンボ」付近。*1
現在は、コンビニの駐車場になっています。

*1 島村恭則:〈生きる方法〉の民俗誌(関西学院大学出版会,2010)P.227-P.239

博多(大浜の赤線跡)色鮮やかなタイルの装飾

大浜には、タイルで装飾された建物が数多く残っています。

1階部分には、色鮮やかなタイルの装飾が施されています。

建物の角に張り出したオブジェ。*1

玄関前の美しいタイルの装飾。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.36

博多(大浜の赤線跡)タイルの装飾

今回は、博多の町並みと風俗を散歩します。
博多の赤線は、新柳町の他に、海岸寄りの「大浜」にもあって、120軒に450名の女性がいました。*1

現在は、この界隈は、オフィスビルと住宅が混在する町並みになっています。

窓枠がタイルで装飾されています。

小さな窓にも装飾が施されています。*2

【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.187-P.189
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.37

博多(路地の牛乳箱)植木鉢で飾られています。

旧水茶屋の通りにある質屋の脇の路地。この先に緑色の箱が見えます。

みどり牛乳の牛乳箱。箱の色はもちろん緑色です。

植木鉢で飾られた美しい路地が残っていました。ここにも牛乳箱があります(写真右下)。

牛乳箱も植木鉢で飾られています。

博多(水茶屋)博多における花街の一つでした。

博多における花街は、那珂川沿いの中州、博多、石堂川沿いの水茶屋、相生、4花街がありました。このうちの一つ、水茶屋は、石堂橋から南東にのびる道筋(現在の千代3丁目)にありました。
地図を見ると料理屋や銭湯がありますが、町並みに花街の面影はほとんど残っていません。

「赤線跡を歩く2」*1 に掲載されていた写真と同じ場所。料理屋の田中屋があった場所は更地になっていました。

花街だったころの名残でしょうか。「水茶屋」という屋号のお店があります。

旧水茶屋の通りを抜けると、福岡県庁がある通りに出ます。通りの出口にある銭湯跡の建物と近代的なビルの対比が印象的です。

博多(選擇寺)遊女雪友の墓

柳町では、元文5年(1740年)に選擇寺(せんちゃくじ)が旦那寺となり、遊郭でなくなった遊女のなきがらは、この寺に葬られました。*1

戒名もなく、無縁墓地に葬られる遊女が多い中、唯一、角屋の遊女雪友(二十才)は墓が建てられています。博多における唯一の遊女の墓です。*1

雪友は、他の遊女とは異なり、別格の扱いをされていたようです。

雪友は、文久元年(1861年)6月27日にこの世を去りました。*1

【参考文献】
*1 井上精三:博多風俗史遊里編(積文館書店,1968)P.67

博多(柳町遊廓跡地)大浜小学校があった場所

今回は、大浜(福岡市博多区)の町並みと風俗を散歩します。大浜は、旧博多港に近い、現在の下呉服町、大博町付近です。
このあたりには、江戸時代初期から柳町遊郭があり、東京の吉原と同様、元禄期に全盛を迎えました。明治44年に柳町遊廓は廃止となり、代わりに現在の住吉地区に新柳町遊廓が作られ、遊廓廃止後は旧柳町と呼ばれるようになりました。*1
柳町遊郭は、現在の大浜小学校(平成10年、大浜、奈良屋、御供所、冷泉の四つの小学校が統合され、博多小学校が開校*2)があった場所にありました。*1

柳町遊郭は、竪町の北側の下竪町を右に折れ、カギ型にちょっとまわったところに大門がありました。*1

石堂川(現在の御笠川)から見た大浜小学校跡。校舎はそのまま残されています。
石堂川の川べりまでが柳町遊郭でした。*1

柳町遊廓の名残でしょうか。大浜小学校近くの電柱には「柳」と記されています。

【参考文献】
*1 井上精三:博多風俗史遊里編(積文館書店,1968)P.9-P.11,P.193
【参考URL】
*2 博多小学校ホームページ