長崎稲佐(ウィンルキンズの墓)墓碑に刻まれた芸妓の名

江戸時代から日本唯一の対外貿易港であった長崎の居留地には、多数の外国人が押しかけて繁栄しました。
長崎居留地には、外国人男性と遊女や芸妓との間での恋愛もありました。 そのうちの一に、グスターフ・ウィンルキンズと玉菊の恋愛物語があります。稲佐悟真寺の国際墓地にウィンルキンズの墓があります。

アメリカ人のウィンルキンズは、貿易商社「カール・ニクル商会」の共同経営者で、1869年(明治2年)に37歳で死去しました。

花クルスの見事な墓碑。

墓碑には、墓碑を建てた恋人の日本人芸妓「玉菊」のが刻まれています。

【参考文献】
*1 長崎文献社:旅する長崎学 近代化ものがたりⅢ(長崎文献社,2008)P.52-P.53

長崎稲佐(稲佐遊廓跡地)絶好の見晴らし場所

稲佐遊廓の中でも当時からその後も一番大きくて有名な所が、遊廓の中心の十字路の西北角に存在した吉田屋でした。*1

吉田屋支店があった場所には、旧アパート(稲佐荘)の建物があります。*2

タイルで装飾された玄関。

吉田屋は、別に吉田屋本店、吉田屋支店を持ち、その三楼(写真の道路の左側に建ち並んでいました。)からの眺望は、この界隈で一番高所であるため、長崎の街が北から南まで見える絶好の見晴らし場所でした。*1

【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 善隣出版社:長崎市(北部)・浦上・城山・西北・滑石・稲佐・立神・木鉢・神島・福田・式見(善隣出版社,1970)P.124

長崎稲佐(稲佐遊廓跡地)ロシア村

今回は、長崎稲佐(長崎市長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
稲佐は、幕末の「安政の五か国条約」による開国でロシア国の軍艦寄港地となり、いわゆるロシア村が形成されました。ロシア村には、ロシア水兵用休息所があり、稲佐遊廓のはじまりとなりましたが、明治37年に日露戦争が勃発すると、ロシア軍の軍艦は一隻も来なくなりました。*1*2
その後、稲佐遊廓は、明治39年に許可となり、妓楼数14軒、娼妓115名の規模となりました。*3

遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1

東側のメインの通りの南隣の路地。

外国人墓地(写真右側)の境界の塀。路を隔てた反対側(写真左側)には、遊喜楼、湊楼がありました。*1

【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 松竹秀雄:ながさき稲佐ロシア村(長崎文献社,2009)P.108,P.204
*3 博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.158 「全国遊廓案内」