佐世保(花園遊廓跡地)現在は公共施設と道路

日清・日露戦争により、海軍と佐世保市は大きくなり、明治42年頃になると、新たに名切遊廓(花園遊廓ともいった)ができました。1

現在は、公共施設と道路になり、当時の面影はありません。

名切川の川の流れは現在も残っています。川と道路が交差するあたりには、松月楼、吉津楼、本家高砂楼などがありました。
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遊廓の中心部だったと思われる場所には、市民会館の近代的な建物が建っています。

《参考文献》
*1 山口日都志:女性哀史 佐世保遊里考(芸文堂,2017)

P.48
軍港設置と殆ど時を同じくしてできた木風遊廓は、小佐世保に移転してからいよいよ繫昌し、日露戦争頃には妓楼の数三〇余り、娼妓また四百人を数えた。しかし、”戦争によってますます大きくなった海軍と市の人口では、これでもまだ足りぬ”というわけでもなかったろうが、明治42年頃になると、新たに名切遊廓(花園遊廓ともいった)ができた。

佐世保(旧ハウス跡地)外国人相手の貸席

終戦後、佐世保の高天原から祇園町にかけては、外国人相手の貸席(ハウス)が分布していました。1
1954年の住宅地図
2 によると、現在の新公園の北東側には、「〇〇ハウス」と記載されたホテルが密集していました。

現在、ビジネスホテルがあるあたり。この付近にも数軒のハウスがありました。2

割烹店があるあたり。「ホテルヴィナス」などのホテルがありました。
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1本北側の通り。道路沿いにハウスが建ち並んでいました。*2

佐世保(高架下の風景)松浦鉄道西九州線

松浦鉄道西九州線は、始発の佐世保駅から市街を通って平戸方面へ向かいます。途中、佐世保中央駅、中佐世保駅の間は高架になっていて、高架下には、飲食店などが連なっています。

和風の料理店。

高架下の飲食街は奥まで続きます。

松浦鉄道から見た高架部分。

佐世保(割烹旅館)勝富遊廓跡地

勝富遊廓跡地の中心部。坂を上ったところに割烹旅館があります。

壁面全体が黒いタイルで装飾されています。

アーチ型の窓。*1

窓の部分の透かし掘り。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.74-P.75

佐世保(勝富遊廓跡地)遊客の多くは海軍の上級士官でした

小佐世保川沿いの小佐世保、須佐、高天の三町に挟まれた三角地点に、かつて勝富遊廓(別名小佐世保遊廓)がありました。勝富遊廓の前身は、木風遊廓で、明治24年4月、勝富遊廓へ移転しました。全盛期には、部屋数が三十余もあるような豪壮な建物が建ち並んでいました。遊客の多くは海軍の上級士官でした。*1

勝富遊廓の中心部。この付近には、勝富遊廓の事務所や券番がありました。*2

「昭和十年代 佐世保市内地番図」*2 によると、通りに面して、高松楼、幸昇亭がありました。

勝富町は、傾斜地を造成し、半円状に形作られました。*3

【参考文献】
*1 池田和博:させぼの歴史を歩く(ライフ企画社,1996)P.177-P.179
*2 昭和十年代 佐世保市内地番図(佐世保市立図書館蔵)P.29
*3 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.74-P.75