瀬戸内町(青久のムチャカナの碑)ウラトミ伝説(2)

瀬戸内町の嘉徳(歌手の元ちとせさんの出身地)から林道を約10km行ったところに、青久部落への分岐点があります。

林道を約3km下ると、青久部落に到着します。
現在、民家は1戸のみですが、昭和20年代は30戸が生活する村でした。琉球時代に築かれた防風用の石垣が現在も残る原始の世界を思わす場所です。*1

青久部落の石垣の西側の小高い丘に「ムチャカナの碑」があります。

江戸末期、瀬戸内町の生間で派遣役人の現地妻(アンゴ)になることを拒んだ美女ウラトミが舟で流されましたが、幸運にも喜界島に漂着しました。*2
ウラトミは村の青年と結婚。愛娘ムチャカナが生まれ、ムチャカナも母に似る美人で、島の男たちの評判を一身に受けるようになりました。ところが、これが他の娘たちの妬みを買いました。ある日、娘たちはムチャカナを誘って青海苔摘みに行きました。そうして無心に摘むムチャカナを激流に突き落としました。これを知った母ウラトミは娘の後を追って自らも入水自殺を遂げ、悲劇につつまれた運命の幕を閉じました。*1

【参考文献】
*1 名越護:奄美の債務奴隷ヤンチュ(南方新社,2006)P.186-P.191
【参考記事】
*2 風俗散歩(瀬戸内町)生間のウラトミの碑

瀬戸内町(生間のウラトミの碑)ウラトミ伝説(1)

奄美に単身で派遣される役人たちは、必ずといってよいほどアンゴ(現地妻)を持ちました。アンゴとは島での妾のことです。派遣役人たちは村々を回って美しい女を物色し、強引に自分のアンゴにしました。容貌のいい娘を持った島の親たちのなかには、進んで派遣役人に我が子を差し出す親もいました。アンゴを出した家や地区は相当な恩恵を受けることができたためです。*1

しかし、アンゴになるのを拒否して自分の愛娘を舟で流し、数奇な運命を送った「ウラトミ伝説」も伝えられています。ウラトミは、瀬戸内町加計呂麻島の生間の生まれ。村一番の美人との評判が高かったので、代官の目に留まり、「上意」が伝えられましたが、ウラトミはこれを拒絶しました。この代償はあまりに大きく、面目のつぶれた代官は地区全体に重税を課しました。娘の貞操は守りたいし世間への申し訳に困った両親は、愛娘を行きながら葬ることとし、わずかな食糧を載せて、泣きわめくウラトミを小舟にのせて流しました。数日後、幸運にもウラトミの舟は、喜界町小野津に漂着しました。やがてウラトミは村の青年と結婚。愛娘ムチャカナも生まれ人もうらやむ幸福な生活を送りました。*1

生間のはずれの高台のムチャカナ公園にウラトミの碑があります。

ただ代官の欲求を健気に拒否し続けた島娘に思いを致すには十分な静寂が辺りを包んでいます。*1

【参考文献】
*1 名越護:奄美の債務奴隷ヤンチュ(南方新社,2006)P.186-P.191

瀬戸内町(ヤンチュの墓)膝素立之墓

奄美には、「ヤンチュ」と呼ばれる債務奴隷的な身分が存在していました。藩政時代のヤンチュの大量発生は、奄美の植民地的な黒糖専売制が原因でした。台風などによる不作で規定の上納ができない農民は自らの体を豪農に売ってヤンチュになりました。薩摩藩は、砂糖を増産して藩の財政を立て直すには、個別の百姓の尻を叩くよりは転落した農民を豪農に吸収させて大規模農業による増収を期待した方が得策と考えました。ヤンチュは薩摩藩の特異な農奴制でした。*1

ヤンチュ間で生まれた子は、膝素立(ひざすだち)といって、主家としては終生自分のヤンチュとして貴重な労働力にできるので、ヤンチュ同士の出産を奨励しました。瀬戸内町篠川に膝素立の墓があります。場所は、西古見から古仁屋を結ぶ県道と宇検村に通じる県道の「Tの字」の西古見の墓地です。*1

高さ30cmほどの小さな石碑に、「膝素立之墓」と彫られています。

墓石の側面には、「万徳 イシ イシ之子」と親子三人と思われる名前が刻んであります。*1

ヤンチュの性は、刹那的でした。貞操観念は比較的薄く、男女交際は自由で、夫婦と決めて子供がいてもたびたび夫を替え、妻を替えていました。「ただ性的享楽でしか人生の意義を感じられないヤンチュの生活環境は、やがて売春行為へと移行せざるを得ない。」と林蘇喜男さんは著作「奄美拾遺集」で述べています。女ヤンチュのなかには夜になると、百姓の若者や風待ちで滞船している砂糖積み船、密貿易船などの船員相手に春をひさいで米を得ようとする者もいて、春をひさいでいた女ヤンチュは明治になって「ヅレ(遊女)」に転落するものもいました。*1
【参考文献】
*1 名越護:奄美の債務奴隷ヤンチュ(南方新社,2006)P.35,P.67-P.68,P.85,P.98,P.101-P.103,P.198

瀬戸内町(嶽の湯)木製のロッカー

古仁屋の町の中心部にある銭湯。四角い形のビル銭湯です

入口には「嶽の湯」と書かれています。牛乳などの飲み物の保冷庫が見えます。

暖簾にも「嶽の湯」。「嶽」という字は「岳」の旧字です。
木曽の御嶽山などは、この「嶽」が使われることがあります。

脱衣場には木製のロッカー。

瀬戸内町(屋仁川通り)名瀬の「屋仁川」と同名

今回は瀬戸内町(鹿児島県大島郡)の町並みと風俗を散歩します。
瀬戸内町は、奄美大島の南側に位置し、古仁屋は瀬戸内町の中心地です。市街の西側に「屋仁川通り」と呼ばれる通りがあります。*1

「屋仁川(ヤンゴー)」は、名瀬の「屋仁川」と同名です。
「奄美に生きる日本古代文化」*2 に、「ズレ(遊女)に代わるべき存在が、名瀬町と古仁屋町のヤンゴー(屋仁川)なる地域に巣食う酌婦である。」と説明されおり、ヤンゴー(屋仁川)という呼び名は酌婦がいる一帯の呼び名で、名瀬のヤンゴーと同様、古仁屋にもヤンゴーがあったことが解ります。

ヤンゴと呼ばれる一帯は、古仁屋市街の北西部の現在の町田商店の道路向かい側にあって、木造二階建て瓦葺の料亭が17~18軒ほど集まっていました。軍の進出でヤンゴ街は経済振興策となりました。*1*3
経営者には、奄美大島出身者と徳之島出身者が半々くらいであったが、女将は一人を除いて全員徳之島出身でした。料亭のなかで、「喜楽」や「朝日亭」が大きな料亭で、とくに「喜楽」では本店と支店を併せて50人ほどの遊女がいて、野菜、茶、イモなどを自給で賄っていました。*1

「昭和10年代の古仁屋における商店・事業所の分布図」*1 によると、写真の町田商店の奥に、「ミカド」、「暁」、その右側に、「若松」、「奄美屋」、さらにその奥に「喜楽」がありました。

【参考文献】
*1 編纂委員会:瀬戸内町誌歴史編(瀬戸内町,2007)P.559-P.566
*2 金久正 著:奄美に生きる日本古代文化.復刻(南方新社,2011)P.134
*3 富島甫:しまがたれ第6号(1998)「我が街古仁屋青春回想」P.14