指宿(松元温泉の通り)駅前のスナック街

今回は、指宿(鹿児島県指宿市)の町並みと風俗を散歩します。
指宿駅の北側、、指宿枕崎線の線路の近くに銭湯の松元温泉がありますが、その奥に小規模なスナック街があります。

鮮やかな紫色のスナック店。

奥まったあたり(線路に近い側)には、スナックが密集しています。

昭和を思わせる風情のスナックが連なります。

鹿児島(霧島温泉)市街にあるレトロ銭湯

天文館近くの大通り(千石馬場通り)。

切妻の1階建ての霧島温泉があります。妻の部分には、木の湯号がはめこまれていて、屋根付きの湯気抜きなど、銭湯らしい落ち着いた雰囲気を残しています。*1

夜になると、切妻部分に燈が灯り、幻想的な雰囲気です。

創業は大正時代。昭和62年に内部を大改装し、現在に至っています。*1

【参考文献】
*1 鹿児島銭湯めぐり かごしま倶楽部第2巻(ハビタ,2000)P.40

■カテゴリ 銭湯 鹿児島

鹿児島(新宿街)天文館

歓楽街の「天文館」の通りに、思わず立ち止まってしまう、うらぶれた路地があります。

見上げると「新宿街」と書かれた看板が2つ。

奥行50mほどの袋小路の両側に飲み屋が軒を連ねています。*1

密集度の高い路地。

【参考文献】
*1 清水哲男;浜地克徳 絵:天文館物語(シーナ,2009)P.6-P.7

鹿児島(裏町通り共同ビル)トンネル路地

鹿児島の歓楽街「天文館」に古い雑居ビルがあります。

雑居ビルの裏側は、裏町通りと呼ばれています。東南アジアのどこかの通りを思わせるような光景です。*1

雑居ビルの1階を貫くトンネル路地。

別の路地の入口。「ひげ船長」と書かれた看板がいい感じです。

【参考文献】
*1 清水哲男;浜地克徳 絵:天文館物語(シーナ,2009)P.10-P.11

鹿児島(林芙美子文学碑)女流作家

今回は、鹿児島(鹿児島県鹿児島市)の町並みと風俗を散歩します。
鹿児島の象徴と言えば、噴煙あげる桜島です。桜島へは鹿児島港からフェリーで約15分です。

桜島の古里温泉に女流作家の林芙美子文学碑があります。

幼少時代のフミ子像。「幼少の頃、フミ子はここ桜島で過ごした」と刻まれています。
幼少時代の芙美子は、桜島の大噴火に遭遇しています。芙美子は、遅くとも大正3年10月には、鹿児島の叔母や祖母のもとに預けられていましたが、この桜島大噴火は、大正3年1月12日から約2年間も続きました。*1

大正の中ごろから昭和にかけてカフェーというものが大いに発達し、そこで働く女給が芸者に代わって都市インテリたちの新しい魅力の対象となりました。かつて女給をしたことのある女流作家は多く、一流どころでは、宇野千代、林芙美子、平林たい子、佐多稲子などがいます。*2

【参考文献】
*1 廣畑研二:甦る放浪記(論創社,2013)P.48
*2 大宅壮一:週刊読売(1958.2.25)P.26 「女流作家の愛情行路」

■カテゴリ 文学 鹿児島

瀬戸内町(青久のムチャカナの碑)ウラトミ伝説(2)

瀬戸内町の嘉徳(歌手の元ちとせさんの出身地)から林道を約10km行ったところに、青久部落への分岐点があります。

林道を約3km下ると、青久部落に到着します。
現在、民家は1戸のみですが、昭和20年代は30戸が生活する村でした。琉球時代に築かれた防風用の石垣が現在も残る原始の世界を思わす場所です。*1

青久部落の石垣の西側の小高い丘に「ムチャカナの碑」があります。

江戸末期、瀬戸内町の生間で派遣役人の現地妻(アンゴ)になることを拒んだ美女ウラトミが舟で流されましたが、幸運にも喜界島に漂着しました。*2
ウラトミは村の青年と結婚。愛娘ムチャカナが生まれ、ムチャカナも母に似る美人で、島の男たちの評判を一身に受けるようになりました。ところが、これが他の娘たちの妬みを買いました。ある日、娘たちはムチャカナを誘って青海苔摘みに行きました。そうして無心に摘むムチャカナを激流に突き落としました。これを知った母ウラトミは娘の後を追って自らも入水自殺を遂げ、悲劇につつまれた運命の幕を閉じました。*1

【参考文献】
*1 名越護:奄美の債務奴隷ヤンチュ(南方新社,2006)P.186-P.191
【参考記事】
*2 風俗散歩(瀬戸内町)生間のウラトミの碑

瀬戸内町(生間のウラトミの碑)ウラトミ伝説(1)

奄美に単身で派遣される役人たちは、必ずといってよいほどアンゴ(現地妻)を持ちました。アンゴとは島での妾のことです。派遣役人たちは村々を回って美しい女を物色し、強引に自分のアンゴにしました。容貌のいい娘を持った島の親たちのなかには、進んで派遣役人に我が子を差し出す親もいました。アンゴを出した家や地区は相当な恩恵を受けることができたためです。*1

しかし、アンゴになるのを拒否して自分の愛娘を舟で流し、数奇な運命を送った「ウラトミ伝説」も伝えられています。ウラトミは、瀬戸内町加計呂麻島の生間の生まれ。村一番の美人との評判が高かったので、代官の目に留まり、「上意」が伝えられましたが、ウラトミはこれを拒絶しました。この代償はあまりに大きく、面目のつぶれた代官は地区全体に重税を課しました。娘の貞操は守りたいし世間への申し訳に困った両親は、愛娘を行きながら葬ることとし、わずかな食糧を載せて、泣きわめくウラトミを小舟にのせて流しました。数日後、幸運にもウラトミの舟は、喜界町小野津に漂着しました。やがてウラトミは村の青年と結婚。愛娘ムチャカナも生まれ人もうらやむ幸福な生活を送りました。*1

生間のはずれの高台のムチャカナ公園にウラトミの碑があります。

ただ代官の欲求を健気に拒否し続けた島娘に思いを致すには十分な静寂が辺りを包んでいます。*1

【参考文献】
*1 名越護:奄美の債務奴隷ヤンチュ(南方新社,2006)P.186-P.191

瀬戸内町(ヤンチュの墓)膝素立之墓

奄美には、「ヤンチュ」と呼ばれる債務奴隷的な身分が存在していました。藩政時代のヤンチュの大量発生は、奄美の植民地的な黒糖専売制が原因でした。台風などによる不作で規定の上納ができない農民は自らの体を豪農に売ってヤンチュになりました。薩摩藩は、砂糖を増産して藩の財政を立て直すには、個別の百姓の尻を叩くよりは転落した農民を豪農に吸収させて大規模農業による増収を期待した方が得策と考えました。ヤンチュは薩摩藩の特異な農奴制でした。*1

ヤンチュ間で生まれた子は、膝素立(ひざすだち)といって、主家としては終生自分のヤンチュとして貴重な労働力にできるので、ヤンチュ同士の出産を奨励しました。瀬戸内町篠川に膝素立の墓があります。場所は、西古見から古仁屋を結ぶ県道と宇検村に通じる県道の「Tの字」の西古見の墓地です。*1

高さ30cmほどの小さな石碑に、「膝素立之墓」と彫られています。

墓石の側面には、「万徳 イシ イシ之子」と親子三人と思われる名前が刻んであります。*1

ヤンチュの性は、刹那的でした。貞操観念は比較的薄く、男女交際は自由で、夫婦と決めて子供がいてもたびたび夫を替え、妻を替えていました。「ただ性的享楽でしか人生の意義を感じられないヤンチュの生活環境は、やがて売春行為へと移行せざるを得ない。」と林蘇喜男さんは著作「奄美拾遺集」で述べています。女ヤンチュのなかには夜になると、百姓の若者や風待ちで滞船している砂糖積み船、密貿易船などの船員相手に春をひさいで米を得ようとする者もいて、春をひさいでいた女ヤンチュは明治になって「ヅレ(遊女)」に転落するものもいました。*1
【参考文献】
*1 名越護:奄美の債務奴隷ヤンチュ(南方新社,2006)P.35,P.67-P.68,P.85,P.98,P.101-P.103,P.198

瀬戸内町(嶽の湯)木製のロッカー

古仁屋の町の中心部にある銭湯。四角い形のビル銭湯です

入口には「嶽の湯」と書かれています。牛乳などの飲み物の保冷庫が見えます。

暖簾にも「嶽の湯」。「嶽」という字は「岳」の旧字です。
木曽の御嶽山などは、この「嶽」が使われることがあります。

脱衣場には木製のロッカー。

瀬戸内町(屋仁川通り)名瀬の「屋仁川」と同名

今回は瀬戸内町(鹿児島県大島郡)の町並みと風俗を散歩します。
瀬戸内町は、奄美大島の南側に位置し、古仁屋は瀬戸内町の中心地です。市街の西側に「屋仁川通り」と呼ばれる通りがあります。*1

「屋仁川(ヤンゴー)」は、名瀬の「屋仁川」と同名です。
「奄美に生きる日本古代文化」*2 に、「ズレ(遊女)に代わるべき存在が、名瀬町と古仁屋町のヤンゴー(屋仁川)なる地域に巣食う酌婦である。」と説明されおり、ヤンゴー(屋仁川)という呼び名は酌婦がいる一帯の呼び名で、名瀬のヤンゴーと同様、古仁屋にもヤンゴーがあったことが解ります。

ヤンゴと呼ばれる一帯は、古仁屋市街の北西部の現在の町田商店の道路向かい側にあって、木造二階建て瓦葺の料亭が17~18軒ほど集まっていました。軍の進出でヤンゴ街は経済振興策となりました。*1*3
経営者には、奄美大島出身者と徳之島出身者が半々くらいであったが、女将は一人を除いて全員徳之島出身でした。料亭のなかで、「喜楽」や「朝日亭」が大きな料亭で、とくに「喜楽」では本店と支店を併せて50人ほどの遊女がいて、野菜、茶、イモなどを自給で賄っていました。*1

「昭和10年代の古仁屋における商店・事業所の分布図」*1 によると、写真の町田商店の奥に、「ミカド」、「暁」、その右側に、「若松」、「奄美屋」、さらにその奥に「喜楽」がありました。

【参考文献】
*1 編纂委員会:瀬戸内町誌歴史編(瀬戸内町,2007)P.559-P.566
*2 金久正 著:奄美に生きる日本古代文化.復刻(南方新社,2011)P.134
*3 富島甫:しまがたれ第6号(1998)「我が街古仁屋青春回想」P.14

名瀬(ブロック塀)外面境界

名瀬のブロック塀には、この塀が境界面であることを表す表記が彫られているものを多く見かけます。

こちらの塀には、塀が作られた年月が記されています。

幸町の住宅地で見かけたブロック塀。

←が書かれていて、塀のどちらの側が外面であるかが示されています。

名瀬(屋仁川のスナック街)昔の雰囲気を残す建物

昭和33年の売春防止法の施行により、赤線廃止後は屋仁川の料亭料理屋は衰退し、バーが雨後の竹の子のように出現しました。*1

現在の屋仁川通りは、バーやスナックが建ち並ぶ歓楽街になっています。

昔の雰囲気を残すスナックの建物。

看板は取り外されていますが、スナックの建物だったのだと思います。

【参考文献】
*1 草戸寥太郎:ヤンゴ物語(屋仁川通り物語)-三味線(サンシン)と酒(セー)と女(ウナグ)の情景(奄美協同印刷,1997)P.17

名瀬(屋仁川通り)長い間愛されてきた名所

名瀬の「ヤンゴ」は、旅人の憩いの場所として長い間愛されてきた名所です。「ヤンゴ」というのは、「屋仁川」の方言読みで、もとは川の名前でした。名瀬の料理屋は、はじめは町の中心部にありましたが、料理屋が町の中にあるのは風紀上よくないという理由で、明治44年、屋仁川通りへの移転通達が出されました。*1

現在、屋仁川(ヤンゴ)通りには、ピンク色のゲートができていて、「やんご生誕100年記念」*3 と書かれています。
戦前まで名瀬では、料理屋のことを「ヅリヤ」と呼んでいました。「ヤンゴ」は屋仁川全体の名称で、「ヅリヤ」は料理屋そのもを指す言葉でした。男たちは、「ヤンゴに行こう」という言い方をし、女房たちは「ヅリヤウナグのところか」などという言い方をしました。屋仁川の女(ウナグ)のことを「ヅリヤウナグ」と言ったのは、沖縄、奄美に徳川時代からいた「ヅレ(遊女)=沖縄では尾類(じゅり)とも言う」をあとで出現した屋仁川の酌婦に対して呼び名にしたものです。*1
「ヅレ」の本来の能は、歌舞をもって各地を巡り、アソビ(歌三味線の酒宴)の庭に列なることでしたが、大正時代中期に「ヅレ」は姿を消し、彼女たちに代わって、名瀬、古仁屋のヤンゴー地域に巣食う酌婦が出現しました。*2

昭和二十二、三年頃のヤンゴの料理屋は、屋仁川通りの道筋の東側の方に多く散在していました。*1

今の園田商店のところの四辻を右折したあたりが料理屋街の中心地でした。*1

【参考文献】
*1 草戸寥太郎:ヤンゴ物語(屋仁川通り物語)-三味線(サンシン)と酒(セー)と女(ウナグ)の情景(奄美協同印刷,1997)P.7,P.16-P.25,P.56
*2 金久正 著:奄美に生きる日本古代文化.復刻(南方新社,2011)P.134
【参考URL】
*3 観光ネットワーク奄美:奄美便り「やんご生誕100年祭 大やんご祭り