井土ヶ谷(見番周辺)かつての花街の雰囲気

旧見番のある通りに、かつての花街の雰囲気を感じさせる建物が残っています。

奥行のある立派な建築です。

旧見番近くの住宅街。

貸席「ゆたか」の建物。*1

■カテゴリ 井土ヶ谷 井土ヶ谷花街 花街·花街跡

■参考文献
*1経済地図社: 南区明細地図 横浜市 1957年度版 (経済地図社,1957)横浜市経済地図

P.68 貸席ゆたか、住吉寮、貸席千代乃、料亭町田家、などの記載。

井土ヶ谷(見番跡)現在は町内会館

今回は、井土ヶ谷(神奈川県横浜市南区)の町並みを散歩します。
「横浜市史稿(風俗編)」*1 によると、井土ヶ谷町には、芸妓屋組合事務所(見番)がありました。

現在は、閑静な住宅街となっている場所に、かつての見番の建物が残されています。*2

1937年建築の木造2階建て。見番の建物は、横浜市の歴史的建造物に登録されています。*2

現在は、井土ヶ谷上町第一町内会館になっています。

■カテゴリ 井土ヶ谷 井土ヶ谷花街 花街·花街跡

■参考文献
*1横浜市: 横浜市史稿 風俗編 (臨川書店,1985)

芸妓屋組合事務所 所在地

*2タウンニュース社: タウンニュース南区版 (タウンニュース社,2015/11/19)井土ヶ谷上町第一町内会館 市歴史的建造物に登録 芸妓稽古場の雰囲気残す ···外部リンク···

井土ヶ谷上町第一町内会(佐々木哲夫会長)が所有する町内会館=井土ヶ谷上町35の23=がこのほど、横浜市の歴史的 …

蒔田(旅館「松島」)永真遊廓の妓楼「松島」が戦時中に疎開

蒔田の花街の中心だった榎田町の南側(蒔田町)にある旅館「松島」。

旅館の隣には、「料理処・松風苑」が併設されています。

現在も営業中の「松島」は、永真遊廓の妓楼「松島」が戦時中に疎開したものです。*1

旅館脇の庭園。

■カテゴリ 永真町遊廓 花街·花街跡 蒔田 蒔田花街

■参考文献
*1葛城峻: *横浜花街史稿 (葛城峻,2013)制作のための準備資料集

蒔田 この地区最大の料亭「平作」は戦後も長期間営業していた。現在営業中の「松島」は永真遊廓の妓楼「松島」が疎開 …

蒔田(花街跡)戦後も営業

今回は、蒔田(まいた、神奈川県横浜市南区)の町並みを散歩します。
「横浜市史稿(風俗編)」*1 によると、蒔田の花街は、中区(昭和18年より南区)榎町二丁目にありました。この付近にあった料亭「平作」は、この地区最大の料亭で、戦後も長い間営業していました。*2*3
現在は、マンションになっています。

蒔田見番があった場所。*3

料亭「万二菊」があったあたり。*3

寿司店。

■カテゴリ 花街·花街跡 蒔田 蒔田花街

■参考文献
*1横浜市: 横浜市史稿 風俗編 (臨川書店,1985)

芸妓屋組合事務所 所在地

*2葛城峻: *横浜花街史稿 (葛城峻,2013)制作のための準備資料集

蒔田 この地区最大の料亭「平作」は戦後も長期間営業していた。現在営業中の「松島」は永真遊廓の妓楼「松島」が疎開 …

*3葛城峻: *横浜花街史稿 (葛城峻,2013)制作のための準備資料集

蒔田見番、料亭「万二菊」、料亭「平作」、料亭「光楽」、料亭「富久本」、等の記載。

本牧(大丸谷のチャブ屋街跡地)現在のJR石川駅近く

チャブ屋の語源は、軽飲食店を指す「CHOP HOUSE」とされ、港の人力車夫たちの間で転訛していきました。これが明治初年のことで、大正年間、本牧小港*1 と大丸谷(おおまるだに)の2ヶ所に統合され、震災後は日本人の客も出入りするようになりました。*2

大丸谷のチャブ屋街は、現在のJR石川駅からすぐのところにありました。*2
1956年の住宅地図*3 によると、この付近には「バーオリエンタル」がありました。

「HOTEL第一」「HOTEL横浜」があったあたり。*3

この交差点の角には、「旅館ヒーロー」がありました。*3

 

淡谷のり子が歌った「別れのブルース」は、作曲家の服部良一が、私娼窟が密集している本牧のバーで洋酒を傾けていたときに思いつき、藤浦洸が作詞しました。「窓を開ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える....」*4

【参考記事】
*1 風俗散歩(本牧):本牧小港のチャブ屋街跡地(2009.5)
【参考文献】
*2 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.70-P.71
*3 経済地図社:中区明細地図(経済地図社,1956)
*4 吉武輝子:別れのブルース(小学館,2003)P.205-P.206

本牧(本牧町2丁目の飲食店)「横浜ロイヤルホテル」の隣

本牧町2丁目の「横浜ロイヤルホテル」*1の南側。

チャブ屋街だった頃は、「ルビー」という名のホテルがあった場所です。*2
現在は、商業ビルの1階に喫茶店が営業中です。

落ち着いた雰囲気の店内。

ナポリタンとビールを注文。

【参考記事】
*1 風俗散歩(本牧):チャブ屋街の名残(2017.5)
*2 経済地図社:中区明細地図(経済地図社,1956)

■カテゴリ 本牧 食文化

本牧(チャブ屋街の名残)本牧町2丁目

戦後営業を再開していた頃の本牧チャブ屋街。本牧町2丁目に名残があります。*1

横浜ロイヤルホテル。(昭和31年の住宅地図*2 では「ロイヤルパーク」)
この付近は、チャブ屋と思われるホテルが密集していました。*2

ホテルの屋上に設置されている自由の女神像。

自由の女神が立つホテルを見ていると、大正時代のチャブ屋が並ぶ町の姿が想像できます。*3

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.70-P.71
*2 経済地図社:中区明細地図(経済地図社,1956)
*3 川本三郎:我もまた渚を枕(筑摩書房,2009)P.64

本牧(本牧十二天緑地)戦後は米軍が接収

今回は、本牧(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。本牧十二天緑地は、横浜開港以来、外国人が訪れるようになった風光明媚な浜辺です。現在、その場所は公園になっていて、案内板が建っています。

戦後は、米軍に接収され、十二天山の上部には、給水タンクが設置されました。

案内板に掲示されていた「横浜全図(明治3年)」吉原遊廓が描かれています。(写真右上)

十二天山の遠望。
本牧の海は、かつては十二天の海とも呼ばれ、外国人居留民は、この海で海水浴を楽しみました。それが次第に日本人の間にも伝わり、海辺には、茶店や脱衣場が開かれるようになりました。やがては酒と女が入り込むようになり、〇〇屋、△△楼と呼ばれていた屋号が、〇〇ホテル、△△ハウスと洋風に改められ、風俗営業へと移行し、明治の中頃に「チャブ屋」と呼ばれるようになりました。*1

【参考文献】
*1 重富昭夫:横浜「チャブ屋」物語(センチュリー,1995)

福富町(GMビル)メリーさん

福富町のGMビル。外国人専門の高級娼婦だったメリーさんが客を引いていた雑居ビルです。*1

GMビルのエントランス。

夜になると、ピンク色の看板にあかりが灯ります。

クラブなどの店舗が入居しています。

 

【参考文献】

*1 檀原照和:消えた横浜娼婦たち(データハウス,2009)P.153-P.156
*2 中村高寛 (監督) :ヨコハマメリー [DVD]

和田町(楽天地カフエー)町の発展を促進するために建設

今回は、和田町(神奈川県横浜市保土ヶ谷区)の町並みと風俗を散歩します。

和田町の楽天地は、昭和6年に町の発展を促進するためにできました。はじめはカフェー(現在の喫茶店)として許可を受け、その後風俗営業として、嘆願書が提出され同年夏に許可されました。楽天地の設立により和田町の名声と繁栄は浅間町の新天地と趣をかえ、田の中の不夜城となりました。一軒あたりの接客婦は4名程度で客室は3室でした。*1

現在の和田町商店街付近が、楽天地があった場所です。

「楽天地」の電柱番号札。

当時の略図*1 によると、「きらく」「さわ久」「金港」「みかさ」「わか梅」「かとり」「らくゆう」「いろは」「ちどり」等が軒を連ねていました。

【参考文献】

*1 青木正晴:和田町思考(青木正晴,1971)P.42-P.46
*2 経済地図社:保土ヶ谷区明細地図(経済地図社,1960)P.78