富田(住吉町)運河に囲まれた花街

住吉町の花街は、それまで富田一色にあった三業地が住吉町に集められ、出来ました。

「昭和20頃の住吉町」*1 によると、芸者置屋、遊廓、料理屋が建ち並び、三方は運河に囲まれていました。

ひときわ目立つ木造建築の旧朝田家。

木造の建物の脇に洋館の建物が隣接されています。

【参考文献】
*1 四日市市:四日市市史 第5巻 史料編 民俗(四日市市,1995)P.748-P.749

富田(旭新地跡)料理屋の建物

みかえり橋*1 を渡ると、旭新地*2 があったと思われる通りが南北に続いています。
旭新地は、昭和4年(1929年)になって関西線東のこの地を埋め立て、つくられました。*2

昭和45年(1970年)の住宅地図には、料理屋の「あさひ」「いせや」がありました。*3
現在は、通りの西側のみに当時の花街らしさが残っています。

窓の装飾。

料理屋「あさひ」*3 の建物。

【参考記事】
*1 風俗散歩(富田):みかえり橋
【参考文献】
*2 生川益也:富田をさぐる 増補版(中日新聞生川新聞店,1985)P.13
*3 善隣出版社:四日市市(北部)(善隣出版社,1970)P.36

富田(みかえり橋)旭新地に渡る橋

富田市内を流れる豊富川が、関西本線の踏切を超えたあたり。「みかえり橋」と呼ばれる小さな橋が豊富川にかかっています。

昭和4年(1929年)になって関西線東のこの地を埋め立て、まもなく旭新地として遊廓がつくられました。*1
現在の町名の「東富田町20」の表示とは別に、旧地名「旭町」の表示があります。

南北の長い通りを、宮町から旭新地に渡る橋として、花街らしく朱塗りの欄干の太鼓橋が掛けられると、橋のたもとの柳をふりかえるところから「みかえり橋」の名前がつけられました。*1

現在は、コンクリートに鉄の手すりが付けられ、当時の面影はありません。*1

【参考文献】
*1 生川益也:富田をさぐる 増補版(中日新聞生川新聞店,1985)P.136-P.137

富田(豊富川)暗渠から水路へ

豊富は、富田の町の中心部を流れる川です。
「善兵衛の橋」は、明治末期に橋のたもとに開業した川魚料理の「うなぎや善兵衛」にちなんで名付けられました。駅前の富田中央通りの下を暗渠となって流れていた豊富川は、「善兵衛の橋」から暗渠を出ます。*1

市街を流れる豊富川。

鳥出神社の正面の道へつながる「宮橋」。

豊富橋付近で、豊富川は直角に曲がります。
忘れ去られたように、豊富橋の標柱が片側だけ残っています。*1

【参考文献】
*1 生川益也:富田をさぐる 増補版(中日新聞生川新聞店,1985)P.133,P.136-P.137


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■散歩事典 富田

富田(東海道富田宿)女傑「おこと」の店

今回は、富田(三重県四日市市)の町並みと風俗を散歩します。

嘉永年間(1848-53年)頃から、現在の近鉄富田駅前通りと旧東海道が交差する四つ角(現在のマルショウ化粧品)に居酒屋の「おことの店」がありました。おことは、天保8年(1837年)の生まれで、評判の美貌に加えて才知に富み、生来の義侠心強く、侠客肌の女としてその名を知られていました。おことは、「お琴さん」として浪曲「血煙荒神山(蛤屋の喧嘩)」のヒロインとなりました。*1

明治後期になってからは、「おことの店」は現在の寺村薬局の所に移りました。*1

おことが住んでいた頃は、裏通りで芸妓置屋からときおり三味線の音が聞こえていました。*1

【参考文献】
*1 生川益也:富田をさぐる 増補版(中日新聞生川新聞店,1985)P.141-P.145


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■散歩事典 富田

四日市(諏訪公園)周囲に特飲店、屋台

四日市の歓楽街の中心に位置する諏訪公園。

公園内にある「四日市市子どもの家」は、旧四日市市立図書館の建物(国登録有形文化財)で、四日市市の近代建築を代表する建物です。*1

かつて、四日市には、港楽園、春吉園という特飲街がありました。ほかに諏訪公園前に待合という名の特飲店が数軒、その前には教会、図書館、幼稚園があり、図書館の窓から干し物がのぞまれたり、幼稚園の子供が区域へ迷い込んだり、しばしば問題が起こりました。*2

昭和30年代、諏訪公園を背にすらりと屋台が並んでいました。屋台は北側にもあり、公園のまわりは屋台だらけでした。*3
その後、屋台は徐々に減っていったと思われ、昭和40年の住宅地図*4 には、諏訪公園の北側のみに屋台が記されています。現在、公園の北側は駐車場になっています。

【参考URL】
*1 四日市市:公式ホームページ 旧四日市市立図書館
【参考文献】
*2 名古屋タイムズ社:名古屋タイムズ(1953.7.12)P.6「四日市新地図」
*3 樹林舎:四日市の昭和(樹林舎,2011)P.126
*4 善隣出版社:四日市市(南部)(善隣出版社,1970)P.12

四日市(大正館)代表的な料亭

今回は、四日市(三重県四日市市)の町並みと風俗を散歩します。
四日市の歓楽街の中心部。諏訪公園の北側に塀で囲まれた広大な敷地を持つ老舗料亭旅館の「大正館」があります。

四日市の代表的な料亭と言えば大正館と松茂でした。戦前の四日市において、ダンナ衆は、しばしば大正館や松茂に芸妓を呼んで宴会を持ちました。*1

大正館の入口。

夜の様子。

【参考文献】
*1 四日市市:四日市市史 第5巻 史料編 民俗(四日市市,1995)P.747,P.749

四日市(思案橋)徳川家康に由来

JR四日市駅の北側の国道164号を東に向かって、JR関西線の踏み切りを越えた浜町に「思案橋」があります。

日本中に「思案橋」と名づけられた橋は、多々ありますが、どれも遊廓と切っても切れない関係にあります。つまり、江戸吉原の思案橋をはじめとして、一般的には各地の遊里の入口近くに見られる橋を「思案橋」と称しています。それは、「遊廓へ行こうか戻ろうか思案を重ねて、そのあげくに渡らずにおれぬことから、この名がある。」と言われています。ところが、四日市「思案橋」については、遊廓との結びつきで考えると、遊廓があった場所と橋の場所が離れすぎていて、思案して決断する場所としては、不適当と言えます。*1

四日市「思案橋」は徳川家康に由来します。天正10年(1582)6月2日未明、本能寺に滞在していた織田信長が家臣の明智光秀による襲撃を受け50歳の生涯を終えた時、堺に滞在していた徳川家康は伊賀越によって伊勢に入り、海路にて駿河に逃げ帰る折に陸路で駿河に戻るか、もしくは海を渡るか「思案」したことが、その名の由来となっています。

現在は、橋のオブジェと碑があります。

【参考文献】
*1 四日市市港地区連合自治会:思案橋記念誌(四日市市港地区連合自治会,1988)P.16-P.39

四日市(三和商店街)かつてのマーケット

JR四日市駅の北側に、商店が集まる長屋があります。

東側に、商店街の入口があります。

明るい商店街。「三和商店街」と書かれた錆びた看板。地元の方の話によると、三和商店街は、かつてのマーケットで、商店などが集まっていたそうです。

西側の入口。

四日市(西新地の客引き禁止看板)外国語

四日市の歓楽街は、近鉄四日市駅周辺に立地する二番街や西新地がそのの代表です。風俗店や飲食店が密集する通りには、客引き禁止看板が設置されています。

外国語(中国語、韓国語、英語)の客引き禁止看板。

歓楽街の中心的位置にある諏訪公園の前。

歓楽街の北側のはずれ(西新地4丁目)に隣接する住宅街にも客引き禁止看板が設置されています。


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■散歩事典 四日市

四日市(北町の貸座敷跡地)旧東海道の街道筋

今回は、四日市(三重県四日市市)の町並みと風俗を散歩します。
現在の四日市北町は、旧東海道の街道筋であった場所で、遊廓街であり活気がありました。*1

当時からの商店の建物などが、往時の街道筋の雰囲気を伝えています。

貸座敷「いろは」があったあたり。向かい側(写真左手前)には、銭湯の桜湯がありました。*1*2

三滝橋から見た北町。

【参考文献】
*1 旧四日市を語る会:旧四日市を語る第17集(旧四日市を語る会,2006)P.83-P.90
*2 旧四日市を語る会 編. 旧四日市を語る第1集(旧四日市を語る会,1991)附図


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■散歩事典 四日市

一身田(遊廓跡地)旧大勢楼

橋向の旧遊廓地帯の南側(現在の一身田大古曽)。

この付近にも水茶屋だった建物がありました。*1 現在は、駐車場になっています。

この付近には、古い町並みが残っています。

地元の方の話によると、この付近には、旧遊廓の大勢楼があったそうです。

【参考文献】
*1 津市教育委員会:一身田寺内町 町並み調査報告書(津市教育委員会,1989)P.86-P.87,P.102-P.104

一身田(一身田遊廓跡)水茶屋だった建物

寺内町一身田には、伝統的な携帯を保持している民家が割合多く存在しています。

こちらの建物は、明治の初め頃、水茶屋として建築されて営業していたものを明治25年にうなぎ屋に改造したもので、現在は住居として使われています。*1

こちらの建物も元水茶屋で、(写真の奥にもう1軒の小型の家があって、2軒合わせて1棟になっています。

古い建物が連なっています。

【参考文献】
*1 津市教育委員会:一身田寺内町 町並み調査報告書(津市教育委員会,1989)P.86-P.87,P.102-P.104