油津(旅館)素泊まり2500円

旧花街の三間通り沿いにある旅館「日名子」。素泊まり2500円とリーズナブルです。

どっしりとした木造三階建て。

古地図「昭和10年当時の三間通り」*1 によると、この付近には芸者置屋や料亭と思われる「㐂乃家」という屋号の店がありました。

裏側から。

【参考文献】
*1 日南市産業活性化協議会:油津(鉱脈社,1993)P.246-P.247

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油津(三間道路)赤線跡

マグロ景気盛んな昭和初期、三間道路(三絃道路とも書く)では、人力車に乗った芸妓衆が行き交う姿が目をひき、料亭での三味や太鼓の音は、毎夜遅くまでひびいて不夜城のようでした。*1

「昭和10年当時の三間道路」*1 によると、写真のスナックが入るビル(第三丸山ビル)の隣あたりに検番と人力車屋がありました。

戦後は、三間道路に特殊飲食店が軒を並べましたが、昭和33年の売春防止法の成立により、赤線と呼ばれたこの地帯の灯も消えてしまいました。*1

現在は、スナック街になっています。

【参考文献】
*1 日南市産業活性化協議会:油津(鉱脈社,1993)P.246-P.247

油津(東遊廓跡地)花街通り

油津市街には、通りの名が書かれた看板があちらこちらに設置されています。
「花街通り」の看板には、付近に東遊廓があったことが説明されています。

東遊廓は、油津の東海岸にありました。昭和ヒトケタのころは、埋め立ててなかったので、海ぎわにその家並みがありました。海からながめると、向かって左から菊屋、大黒屋、丸山楼、布袋屋、石坂屋と立ちならんでいました。写真は、昭和6年発行の油津町商工会案内に掲載されている「海上ヨリ見タル東遊郭」から転載されたものと思われます。*1

花街通りの看板は、さらに奥へ続きます。

看板の矢印によるとこのあたりまでが花街通りだったようです。

【参考文献】
*1 日南市産業活性化協議会:油津(鉱脈社,1993)P.245-P.248

油津(堀川運河)「男はつらいよ」のロケ地

今回は、油津(宮崎日南市)の町並みと風俗を散歩します。
「堀川運河」は、飫肥藩により1686年につくられ、油津港発展の礎となりました。

運河にかけられている堀川橋はアーチ状の石橋で、地元では親しみを込めて「乙姫橋」と呼ばれています。

1992年(平成4年)秋、渥美清、後藤久美子、風吹ジュンら主演「男はつらいよ」のロケーションが油津堀川を中心に繰り広げられ、同年12月から新春にかけて上映されました。*1

反対側(上流)から見た堀川運河。

【参考文献】
*1 日南市産業活性化協議会:油津(鉱脈社,1993)P.239

延岡(麦原新地遊廓跡地)五ヶ瀬川の北岸

延岡の遊廓は、明治21年に設置が認可され、綿幸、宝来屋、麹屋が最初の妓楼でした。*1
場所は、五ヶ瀬川の北岸で、紺屋町から四・五町(一町は109m)の所にあって、麦原新地と呼ばれていました。*2
大正12年の「延岡市街地圖」*3 を見ると、紺屋町の通りをそのまま東側へ進み、日豊本線の線路を超えた線路脇のとろこに寺院があり、その寺院の東隣の五ヶ瀬川沿いに、「新地遊廓」の記載があります。

「延岡市街地圖」に記載されている線路脇の寺院が来迎寺(写真の右手前)だとすると、遊廓はこの寺院の奥にあったことになります。

寺院の奥の通り。

五ヶ瀬川からの遠望。

【参考文献】
*1 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂, 1929年)P.637-P.638
*2 宮本啓介,塩伝次郎:新撰大延岡案内(平和印刷所,1926)P.167-P.168
*3 延岡市街地圖(1923)延岡市立図書館所蔵

延岡(旅館の建物)紺屋町

今回は、延岡(宮崎県延岡市)の町並みと風俗を散歩します。
延岡の花柳界は、紺屋町、博労町が明治、大正時代の中心でした。*1
戦前の住宅地図*2 によると、この通りにも料亭や置屋が建ち並んでいました。

旅館だったと思われる建物。昭和34年の住宅地図*3 によると、旅館「福龍」と記載されています。

玄関部分にタイルで装飾された円柱があります。

花街時代を彷彿させる鮮やかさです。

【参考文献】
*1 延岡市史編さん委員会:延岡市史(延岡市,1963)P.476-P.480
*2 あがた会:空襲前延岡小学校々区住居地図 あがた会30周年記念制作(あがた会,1996)
*3 住宅地図刊行会:延岡市住宅詳細地図(住宅地図刊行会,1959)P.6

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宮崎(吾妻新地遊廓跡地)石造りの塀と

宮崎の遊廓は、宮崎市吾妻町にありました。*1
昭和5年の古地図*2 には、大淀川に面したあたりに「吾妻新地遊廓」の記載があります。
現在は、道路南側(写真右側)にマンションが建ち並び、北側には観光ホテル(写真左側)があります。*3

「赤線跡を歩く2」*3 で、「妓楼か料亭の通用口だったのだろうか」と紹介されている石造りの塀と門。通用門の部分には、自販機がはめ込まれています。

通用門上部の紋章。

付近の電柱のプレートには、「新地支」と書かれています。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.160
*2 地図資料編纂会:昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)P.120「宮崎市街地図」
*3 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.78-P.79