宮古島(木造のゲストハウス)元連れ込み旅館

宮古島のイーザトの社交街の北側。

水色に塗られた木造2階建てのゲストハウスがあります。

この建物は、元は連れ込み旅館でした。エロ懐かしい雰囲気が漂います。*1

和風の部屋。

【参考文献】
*1 カベルナリア吉田:ひたすら歩いた沖縄みちばた紀行(彩流社,2009)P.218

宮古島(平良のスナック街)昼は野球、夜は酒

平良の旧料亭街の南側は、新興のスナック街です。

カラオケ店などが建ち並びます。

赤瓦屋根のスナック。

夜になると、艶っぽい町並みに変貌します。

宮古島には風俗は無いので、娯楽は、昼は野球、夜は酒です。宮古の人はボーナスをもらったら、那覇のソープランドへ行きます。ただ、夏休みになると、女子大生などが身体を売りに来るという話があり、そういう子たちが、1ヵ月ぐらい遊びながらお金を稼いでいきます。(ダイビングするために島に来て、その費用や滞在費を稼ぐために体を売る女の子がいるらしい)*1
【参考文献】
*1 吉田直人:金なし、コネなし、沖縄暮らし!(イカロス出版,2006)P.249

宮古島(平良の料亭街跡)当時の料亭街は遊廓を兼ねていました。

宮古島の中心街である平良(ひらら)は、戦前から「寄留商人」と呼ばれる島外からの外来商人で賑わい、それに伴い、料亭街を形成していました。料亭はサカナヤーと呼ばれ、遊廓を兼ねている場合が多かったそうです。*1

現在は、スナック街になっています。

料亭が密集していたあたり。*1

旅館だった建物。

【参考文献】
*1 堂前亮平:沖縄の都市空間(古今書院,1997)P.107-120

宮古島(慰安所跡地)島内の各地にありました。

日本軍司令部があった野原(現在、航空自衛隊宮古島分屯基地第53警戒隊)の近くには、長屋のかやぶき屋根の慰安所がありました。*1

宮原に、朝鮮人が掘った井戸(伊良部ガー)が今でも残っています。慰安所は、写真の建物がある方向にありました。*1

花切部落の慰安所跡地。*1

写真の建物は、比嘉の保育所ですが、ここから比嘉に入る道沿いに慰安所がありました。*1

【参考文献】
*1 日韓共同「日本軍慰安所」宮古島調査団:戦場の宮古島と「慰安所」(なんよう文庫, 2009)P.79,P.128,P.165,P.171

宮古島(アリランの碑)旧日本軍司令部近く

今回は、宮古島(沖縄県宮古島市)の町並みと風俗を散歩します。
1943年、沖縄戦必須の情勢のもと日本軍が宮古島にも移駐してきました。約3万人の将兵が展開し、全島を要塞化しました。1944年10月から翌年8月まで、連日の空襲、艦砲射撃などでほとんどの集落は焦土と化し、輸送路を絶たれて、飢えとマラリアで多くの命が失われました。戦時中、日本軍の基地が置かれた野原(のばる)岳には、現在は航空自衛隊の通信施設(写真奥)があります。*1

自衛隊の正門前の道を西へ行ったところに、日本軍「慰安婦」の碑(アリランの碑)があります。*2
陸軍における慰安所の制度は、1932年(昭和7年)の上海事変の折に、長崎県から「慰安婦団」を招いたのがはじまりですが、その後の中国戦線の拡大に伴い日本軍隊の必需品となりました。はじめは九州の業者から売春婦を連れてきていましたが、性病経験者が多く、年をくいすぎていたので、当時日本の植民地支配下にあった朝鮮から慰安婦を集めるようになりました。*3

戦場となった沖縄県には、宮古島の11ヶ所を含む130ヶ所に「慰安所」があったことが確認されています。宮古島の慰安所のほとんどは集落近くにあったので、多くの住民が慰安婦と何らかの接触をしていました。特に共同井戸(ツガガー)での洗濯のときなど朝鮮の民謡「アリランの歌」を口ずさむのをたびたび耳にしたことが伝えられています。*4

「女たちへ・平和を愛する人たちへ」の碑は、2008年に建てられました。*4

【参考文献】
*1 新崎盛暉、他:観光コースでない沖縄-第4版(高文研,2008)P.265-P.275
*2 高教祖教育資料センター:沖縄の戦跡ブック・ガマ(沖縄時事出版,2009)P.137
*3 山谷哲夫:沖縄のハルモニ(晩声社,1979)P.19-P.20
*4 日韓共同「日本軍慰安所」宮古島調査団:戦場の宮古島と「慰安所」(なんよう文庫, 2009)P.10-P.14,P.56-P.61

辺野古(社交街跡)バーの看板が残る店

辺野古の社交街には、「Club」、「Bar」と書かれたコンクリートの建物が数多く残っていています。

「バー」と「ホテル」の両方の名前が残る看板。どちらかに転業したのだと思います。

バーの後は、電気店に転業したようです。

派手な色のコンクリート製のバー跡。入口のドアは木製です。

辺野古(社交街組合)各国の国旗

今回は、辺野古(沖縄県名護市)の町並みと風俗を散歩します。
普天間飛行場の移転先の候補地として揺れる辺野古ですが、ベトナム戦争当時は、キャンプシュワブ近くのバー街として、賑わいました。*1
現在もスナックが営業中です。

バー街の入口近くに社交業組合の建物があります。

「地域と共に歩むが我らがねがい」と書かれています。

入口の壁の各国の国旗がデザインされています。

*1 高嶺朝一:知られざる沖縄の米兵(高文研,1984)P.185-P.190

うるま(基地の前の理容室)BARBERの文字

うるま市の北側に、海兵隊基地のキャンプコートニーがあります。(写真右側)。
キャンプコートニーは、沖縄戦で戦死し、最高級の栄誉勲章を受けたコートニー少佐の名を基地名にとっています。*1

正門の前にコンクリート製の小さな建物が数軒並んでいます。

店名の「コートニー」の右側にうっすらと「BARBER」と書かれています。米兵向けの理容室だったようです。

現在は物置として使われているようです。

【参考文献】
*1 新崎盛暉、他:観光コースでない沖縄-第4版(高文研,2008)P.160

うるま(勝連半島のバー街)英文字の店名

勝連半島の県道10号線沿いにバー跡と思われる建物が並ぶ一画があります。

米軍施設「ホワイトビーチ」からは距離が離れていますが、店名は英文字で書かれているので、かつては米人向けの飲食街だったのかもしれません。

「RESTAURAN」の文字。

判読できませんが、店名が英文字で書かれています。

 

うるま(石川社交街)かつての米人相手の特飲店跡?

今回はうるま(沖縄県うるま市)の町並みと風俗を散歩します。
琉映前バス停の近くに「石川社交街」と書かれたゲートがあります。
1956年の沖縄タイムスに、石川の盛り場についての次のような紹介記事があります。*1 「市場通りが大衆マーケットで庶民的なのにひきかえ13号線(現在の国道329号線)はいわゆる米人相手の特飲店が集まっている。バー、カフェーが約20軒、具志川村川崎、登川のマリン隊と金武駐屯のGIをねらっているが、コザ方面の盛り場とは趣が違い、一見落ち着いた遊廓である。」

現在、この付近はバーやスナックが立ち並ぶ飲食街となっています。

四つ角にあるスナック。

沖縄らしい穴あきブロックで装飾された建物。

【参考文献】
*1 沖縄タイムス(1956.10.3 夕刊)P.2

真栄原(青丘の塔)慰安所跡地

嘉数高台は、沖縄戦において最初の激戦地の一角で、20日間にわたって激しい戦闘がありました。*1

青丘之塔は、沖縄戦で軍夫などとして動員されて亡くなった朝鮮人の慰霊碑です。この場所には、朝鮮人女性が慰安婦として働く慰安所がありました。*2

青丘之塔の碑文。

「この塔にねむれる人は とつくにの えにしぞ深き 霊なりけり」と書かれています。

-----青丘之塔の碑文----

嗚呼 ここ沖縄の地に太平洋戦争の末期、かつて日本軍たりし韓民族出身の軍人、軍属386柱が散華(さんげ)し侘(わび)しく眠っておられます ここに思いをいたし日本民主同志会は38度線板門店の小石38ヶを写経と共に碑礎に鎮め、イデオロギーと国境と民族を超越し人道主義を遵奉し、哀(かな)しき歴史を秘めたこれらの御霊(みたま)を慰霊顕彰するために、最も激烈なる戦闘を展開した戦跡嘉数の高地に志を同じくする諸賢、あわせて関係機関並びに地元嘉数地区の御協力を得て、韓民族出身沖縄戦没者慰霊碑「青丘の塔」を建立し永久に英勲を讃えます
昭和46年5月吉日
【参考文献】
*1 高教祖教育資料センター:沖縄の戦跡ブック・ガマ(沖縄時事出版,2009)P.55
*2 福地曠昭:オキナワ戦の女たち(海風社,1992)P.103-P.106

真栄原(嘉数高台公園)市街地のど真ん中の普天間飛行場

真栄原の高台にある嘉数高台(かかずたかだい)公園に、地球をデザインした展望台があります。沖縄本土が大き目に描かれて強調されています。

展望台からは、普天間基地が見わたせます。普天間航空基地は、第二次大戦の米軍の沖縄占領のとき、日本本土攻撃のためのB29爆撃機専用の滑走路を建設し、終戦後も海兵隊航空基地として整備されました。*1

宜野湾市のど真ん中を普天間基地が占め、周囲の土地に日本人の住宅がひしめいているのがよくわかります。米海軍・海兵隊の航空基地の設置基準に照らすと、「滑走路両端の延長線上4500メートルの範囲には住宅、学校、病院があってはならない。」定まられているので、普天間基地は、米本国ならば使用が禁じられる不適格が軍事施設です。*1

滑走路から飛び立った軍用機が轟音をたてて旋回しながら上昇していきます。

【参考文献】
*1 新崎盛暉、他:観光コースでない沖縄-第4版(高文研,2008)P.138-P.142

真栄原(社交街)現在は休業状態です。

真栄原の社交街は、県警と宜野湾市などが取り組んでいる浄化作戦により、現在は休業状態となっています。*1

軍普天間飛行場に隣接する真栄原は戦後、米兵相手の売買春が横行したため、1950年ごろ、当時は集落から離れていた現在の場所に作られました。*1

営業している店は1店舗もありません。

夜になっても営業している様子はありませんでした。

【参考文献】
*1 沖縄タイムス:沖縄タイムスニュース(2010.7.2)「売春根絶 なお課題 真栄原社交街

真栄原(アダルトショップ)社交街の看板がとりはずされていました。

真栄原社交街の入口付近。以前はこの道の入口(写真右側)に「真栄原社交街」と書かれた看板*1 がありましたが、現在は撤去されています。

社交街へ向かう道の途中にビデオ店があります。

ビデオ販売の看板

消えかかった「アダルトビデオ」「アダルトグッズ」の文字。

【参考記事】
風俗散歩(真栄原):真栄原社交街(2009.2)

■カテゴリ 売店 真栄原

真栄原(おもしろ看板)公民館前が発祥の地

今回は、真栄原(沖縄県宜野湾市)の町並みと風俗を散歩します。
全国各地に「×××発祥の地」というのは数多くありますが、真栄原は、「おもしろ看板発祥の地」です。

おもしろ看板というのは、このような「ダジャレ看板」のことで、防犯や交通安全の標語が書かれています。

こちらは「夜遊びはダメデス」の看板。

「キスに注意」の看板。