下ノ江(遊廓「栄楽屋」跡地)現在は「久楽」

旅館「栄楽屋」は、遊廓当時のままに残されていた建物で、強者共の夢のあとを偲ばせていました。*1

平成16年、佐志生の老舗旅館「川口屋」が、「栄楽屋」を建て替え「川口屋別亭久楽」をオープンしました。*2

「久楽」の名は、創業者の「久吉」と「永楽屋」から取って名付けられました。*2

旅館からは、下ノ江の風光明媚な景色が見渡せます。

【参考文献】
*1 高橋長一:臼杵物語 (1978)P.588
*2 臼杵商工会議所ニュース(2015.3.25)P.4「臼杵の老舗企業」

下ノ江(妓楼寄進の百度石)綿津見神社

下ノ江の旧遊廓街にある綿津見神社。

百度石があります。

下ノ江の遊廓は6軒あって、娼妓は30人。妓楼は、花屋、永楽屋等が有名でした。*1

京屋小兵衛は、「下ノ江出店の始」*2 に記載のある名です。

【参考文献】
*1 全国遊廓案内(日本遊覧社, 1930)P.448
*2 臼杵史談会:臼杵史談 第45号 (臼杵史談会,1956)P.26

下ノ江(遊廓跡地)風待ちの港

今回は、下ノ江(したのえ、大分県臼杵市)の町並みと風俗を散歩します。
帆船時代、下ノ江港は風待ちの港として賑わいました。船乗りたちは、船から下りると酒を飲み各地の港で風待ちしている間に覚えた歌や踊りで時を過ごしました。店では、そんな客の要望にこたえて酌をする女を置き、やがてこの女たちが遊女になり、”下ノ江女郎衆”と呼ばれようになりました。*1

下ノ江の妓楼「花屋」には、「潮来汐去」「花屋楼にて雨情」の横額が保存されていました。*2

古い町並みが残っています。

「和」という屋号の店。

【参考文献】
*1 高橋長一:臼杵の話37(大分合同新聞,1980.7.27朝刊)「下ノ江今昔」
*2 高橋長一:臼杵物語 (1978)P.588

佐賀関(元妓楼「新枡屋」の建物)上浦遊廓跡

古い町並みが残る佐賀関の上浦地区。

元妓楼「新枡屋」の建物が残っています。*1*2

現在は、商店(プロパン販売)になっています。新枡屋の向かい側は、元旅館の今津屋(写真左側手前)です。*2
今津屋は、文久4年(1864年)に、勝海舟と坂本龍馬の一行が来た折に、町をあげて接待し、「賄い方(まかないかた)」として活躍した屋号です。(案内板より)

建物脇の路地。

【参考記事】
*1 風俗散歩(佐賀関):100年以前の屋号の建物(2016.6)
【参考文献】
*2 佐賀関郷土史研究会:佐賀関郷土史 2,3合併号(佐賀関郷土史研究会)P.2-P.8

佐賀関(100年以前の屋号の建物)江戸時代の屋号が建ち並ぶ町並み

今回は、佐賀関(さがのせき、大分県大分市)の町並みと風俗を散歩します。

現在の地図に重ねて、100年以前の屋号の建物の位置が赤枠で記されています。

佐賀関の中心街。

建物の前には、看板が設置されているので、解りやすいです。
写真の平野屋元呉服店で、現在は佐賀関郵便局です。郵便局の道を挟んだ反対側(現在の井口天真堂薬局のあたり)には、妓楼(遊廓)の「今利」がありました。*1
佐賀関では、遊廓のことをカッセキ(貸席)といい、昔は100人ぐらいの女性がそこで働いていました。その関係から、佐賀関には呉服屋さんが多くありました。*2

【参考文献】
*1 佐賀関郷土史研究会:佐賀関郷土史 2,3合併号(佐賀関郷土史研究会)P.2-P.8
*2 大分市教育委員会:佐賀関地区 大分市伝統文化調査報告書4(大分市教育委員会,2011)P.71

別府(梅園温泉)路地裏温泉

別府市元町の繁華街「梅園通り」に梅園温泉の入口があります。繁華街のど真ん中という独特な立地の路地裏温泉です。

人ひとりがやっと通れるほどの狭い路地を進みます。

スナックのママさんがはいるため、夜0時まであいています。(案内看板より)

脱衣所と円型の浴槽が隣合わせになっていて、浴槽の隅には湯槽があって源泉がボコボコと音を立てて出ています。浴槽のお湯は熱めですので、体が温まります。

■カテゴリ 別府 銭湯

別府(裏銀座)居酒屋、スナックと風俗店が混在

別府の栄町の銀座裏通り。緩やかなカーブを描いて幅の狭い路地が続きます。

昭和30年代、別府温泉には、7,000人のホステスがいて、情こまやかな接客ぶりは評判でした。中でも意にかなったホステスを自由に選択できる「セレクト喫茶」なるバーが人気で、銀座裏通りや柳町のバー街にありました。*1

現在は、居酒屋やスナックとファッションヘルスなどの風俗店が混在する通りになっています。

新宮通りに近いあたり。

【参考文献】
*1 J.F.モンゴメリ:夜のニッポン探検(東都書房,1967)P.108-P.119

別府(すずめ旅館)北部旅館街

今回は、別府(大分県別府市)の町並みと風俗を散歩します。別府駅の北東側に位置する北部旅館街(仲間通り)は古くからの旅館が現在も営業中です。

そのうちの1軒、すずめ旅館は、宿泊(素泊まり)2500円です。看板には、「御泊り」の他に「御休憩」もあります。昔は、休憩のみの利用もできたのだと思います。

豪華なソファーと大きなダブルベッド。艶っぽい雰囲気の調度品など歴史を感じさせる旅館です。

夜になると、別府タワーのネオンが望めます。

■カテゴリ 別府 旅館

西大分(かんたん遊廓跡)”蓮の花”を意味する「菡萏」

今回は、西大分(大分県大分市)の町並みと風俗を散歩します。
近代大分の発展の基礎となった菡萏(かんたん)港は、明治12年から築港工事が始まり、明治17年に完成しました。港が完成してからは、船員や出船を待つ客を相手にする遊廓が軒をつらね始め、紅灯の歴史が始まりました。菡萏(かんたん)、とは華やかな様、蓮花(はすの花)を意味するもので、明の阮林という人がこの地を見物に来たとき、地形が蓮花に似ているところからこの名が生まれたといわれています。*1
現在も、戦前からの町並みが保たれています。*2

遊廓の中央部に位置する建物。

玄関付近のタイルの装飾。

裏通りにもかすかに廓の雰囲気が残っています。*2

【参考文献】
*1 甲斐光:生石風聞録(甲斐光,1991)P.4,P.306,P345
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.80-P.81

長洲(川岸の花街跡)通称「十二軒長屋」と呼ばれていました。

今回は、長洲(大分県宇佐市)の町並みと風俗を散歩します。
駅館川の川岸。日豊本線(写真右奥)の鉄橋の近くの長洲には、通称「十二軒長屋」と呼ばれた花街がありました。*1

現在は、数えるほどの飲食店が残るのみです。

料理屋(飲食店)だったと思われる建物。

現在は、スナック店が数店舗営業中です。

【参考文献】
*1 郷土出版社:中津・宇佐・豊後高田今昔写真帖(郷土出版社,2009)P.62-P.63

木浦(女郎の墓)四角く石を並べて残っています。

バス終点の木浦鉱山バス停から林道を6.9km。徒歩で約3時間かけて女郎の墓までたどり着きました。

雑木林の中に石塚が20基あまり散見されます。

木浦山は鉱山の発達に伴い成立した鉱山町で、人口は、最も多かった元禄12年(1699年)のときで568人でした。良鉱が発見されたとき、周辺の村々からの出稼ぎもあったと思われるので、こうした人の集まるときには、赤提灯や木賃宿が繁盛し、「女郎」もいました。女郎が死去したときは、葬式や埋葬など論外で、このような雑木林の中に打ち捨てられました。このように埋葬された場所には申し訳程度に簡単に川石で墓碑などが作られていることが多く、人間の末路としては極めて悲哀を感じるものです。(案内板より)

普通の人でも墓が何百年も残るのは極少ないのに、女郎の墓と言われているものが四角く石を並べて残っているのは、不思議と言われています。*1

【参考文献】
*1 米田寿美:木浦鉱山むかし物語(梅路,2003)P.155

木浦(遊廓跡地)鉱山跡「千人間府」の近くにありました。

木浦鉱山バス停から林道を登り、横岳をまくあたりまでくると、正面に天神原山(995m)が見えてきます。

しばらく行くと、「千人間府(せんにんまぶ)」と書かれた看板があります。

天神原には遊廓があり、場所は「千人間府 」の右側の谷で竹藪になっているところと伝えられています。*1

千人間府。木浦鉱山最大の坑道でした。

【参考文献】
*1 米田寿美:木浦鉱山むかし物語(梅路,2003)P.156