小作(無料案内所)飲み屋ビルの1階

小作駅前の飲食店ビル。このビルの1階に無料案内所が入っています。
かつての小作は、奥多摩方面では、数少ない風俗店のある町でした。*1

ビルには空き店舗もあるようです。

無料案内所。

派手な看板が乱立しています。

■参考文献
*1陳黒轟太郎: 俺の旅 vol.30 (ミリオン出版,2008.3.20)自然と風俗を楽しむ旅 東京都奥多摩編

P.96 奥多摩風俗ルポ1 小作と書いて「おざく」と読む。

福生(スナック街)旧赤線街の東隣の通り

福生の旧赤線街のメインの通り*1※1 の東隣の通り。道幅の狭い通りにスナックが密集しています。

通りの奥まったところ。

趣のあるの和風スナック。

南端は、メインの通りと繋がっています。

■参考文献
*1新居直人: ゴーゴー福生 (クレイン,2002)アメリカのフェンスのある東京の街から

P.8-P.10 福生で通称「赤線」と呼ばれているのは、福生駅の東口駅前ロータリーからわずか100m(原著では …

■参考記事

今回は、福生の町並みと風俗を散歩します。JR福生駅東口から通りを5分ほど歩くと通称「赤線」の入り口の十字路です …

福生(ホテル徳川跡)近代的なホテルに生まれ変わっています。

福生のスナック街の東側。古いホテルが建っています。神社が隣にある不思議な空間です。

「ホテル徳川入口」の看板。

神社から逆方向を見たところ。ホテルの裏側は段丘になっていて、建物は連続しています。

丘の上のホテルは、近代的なホテルに生まれ変わっています。

福生(横田トルコ跡地)東福生駅への五差路

福生駅から東福生駅へ向かう五差路。

交差点の角には、かつて横田トルコがありました。現在は駐車場になっています。

1970年の住宅地図*1 によると、横田トルコには、「トルコレストラン」が併設されていました。

横田トルコの西隣には、横田ニューゲストホテルがありました。*1

■参考文献
*1公共施設地図航空: 福生市 1970年度版 (公共施設地図航空,1970)

武蔵野台二丁目の交差点(五差路)に、「横田トルコ」「トルコレストラン」「横田ニューゲストホテル」の記載。

福生(福生アメリカンハウス)当時を再現

牛浜駅の東側にある「福生アメリカンハウス」は、1958年に建てられたアメリカンハウスを使ったコミュニティスペースです。*1

内装も50年代当時の雰囲気が再現されています。*1

当時の珍しい写真も展示されています。

外人バー街には、空地があり、そこにはいつもアメリカ人の車が駐車していた。(解説文より)

■参考文献
*1福生市観光案内所: 福生アメリカンハウスのご案内 (福生市観光案内所,) ···外部リンク···

1958年に建てられ、当時のオリジナルに近い型で残されている珍しい米軍ハウスを利用したコミュニティースペース「 …

福生(アメリカンハウス)朝鮮戦争の頃の米軍人家族用住宅

今回は、福生(東京都福生市)の町並みを散歩します。
朝鮮戦争の頃の米国本土からの米軍人家族移住策により、基地内における米軍人家族用の新規居住が困難となったため、1951年、当時の基地の司令官が、米軍人家族用の一戸建て賃家である「ハウス」の建設を福生市に要請しました。これが、アメリカンハウスです。*1

ハウスは、米軍によって規格化された平屋の一軒家で、全室が洋間であることと、平均10畳のリビングと庭があることを特徴としていました。*1

外壁は、水色やピンク色に塗装されています。

最近は、店舗に転用されている事例もあるようです。

■参考文献
*1新井智一: 地学雑誌 114(5) (通号1002) (東京地学協会,2005)東京都福生市における在日米軍横田基地をめぐる「場所の政治」

P.774 ハウス地区の形成 米国本土からの米軍人家族移住策と、朝鮮戦争に伴う横田基地への軍事力終結のため、基 …

武蔵小金井(看板建築展)江戸東京たてもの園

江戸東京たてもの園には、展示室があって、「看板建築展」開催中です。
看板建築は、関東大震災後、人々は、自力でバラックを建て始めましたが、このとき、バラック美しくする活動(今和次郎など)や建築家のデザインにりょう仮設商店などが建ち始め、これが後の看板建築につながったそうです。*1

本来、2階建てであるべきところ、少しでも広く使うために屋根裏部屋を設けた事例の模型が展示されています。*1

こちらは、ほぼ完全に3階建ての建物。

中央区月島の旧玩具店の建物に飾られていた、だるまの部分が移設、展示されています。

■参考文献
*1江戸東京たてもの園: 看板建築展 説明資料 (江戸東京たてもの園,2018)

バラックの街並み 被災者の多くは、焼け跡に自力で資材を集めて建てたバラックに暮らした。

武蔵小金井(木製ゴミ箱)江戸東京たてもの園

江戸東京たてもの園の丸二商店の建物。
銅板で装飾された看板建築の建物です。*1

建物脇の路地も当時の情景が再現されています。

防火用水とゴミ箱。

木製ゴミ箱。コンクリ製ゴミ箱と形状は同じです。

■参考文献
*1東京都歴史文化財団: *江戸東京たてもの園 解説本 (東京都歴史文化財団,2003)

P.56-P.57 丸二商店は、現在の千代田区神田神保町に昭和初期に建てられた看板建築と呼ばれる形式を持つ建物 …

武蔵小金井(子宝湯)江戸東京たてもの園

JR中央線武蔵小金井駅北口からバスで5分。小金井公園の敷地の中に、江戸東京たてもの園があります。
江戸東京たてもの園は、1993年、現地保存が不可能な文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、復元・保存・展示するとともに、貴重な文化遺産として次代に継承することを目的に開園しました。*1

商店などの建物が建ち並ぶ東ゾーンの奥にある銭湯の子宝湯。1929年(昭和4年)に足立区千住元町に建てられました。*2

格天井(ごうてんじょう)など、脱衣場は日本の伝統建築の空間。浴室はタイル張りなど、洋風の雰囲気が強い、いわゆる「東京型銭湯」の特徴*2 を持ち合わせています。

ガラス戸を介した縁側。*2

■参考文献
*1東京都歴史文化財団: *江戸東京たてもの園 解説本 (東京都歴史文化財団,2003)
*1: 子宝湯 (,)

P.44 子宝湯は、1929年(昭和4年)に足立区千住元町に建てられた。

*2東京都江戸東京博物館: 江戸東京たてもの園 概要・沿革・条例など (東京都江戸東京博物館,) ···外部リンク···

たてもの園について

武蔵小金井(名画座跡地)1970年代はポルノ映画を上映

今回は、武蔵小金井(東京都小金井市)の町並みを散歩します。
JR中央線武蔵小金井駅北口を出て約300m。けいやき通りに映画館の名画座がありました。*1

名画座は、ふとん店の東隣の敷地にありました。

1970年代は、主にポルノ映画が上映されていました。
1977年の雑誌「ぴあ」を見ると《田中絹代さんを偲んで》と題し「サンダカン八番娼館・望郷」が上映されている他、《日活ロマンポルノ決定版》では、宮下順子さんや谷ナオミさんの作品が上映されています。*2

現在は、駐車場になっています。

■参考文献
*1ゼンリン: 小金井市 (ゼンリン,1972)

P.19 小金井市本町2-19に、「小金井名画座」の記載。

*2ぴあ: ぴあ No.58 (ぴあ,1977.6.1)映画の街角

P.24 武蔵小金井 「小金井名画座」(北口4分ヒグチ薬局角右へ)

立川(ビラ禁止看板)泉体育館駅近く

多摩モノレール泉体育館駅近くの青柳公園へ向かう道の途中。

「青少年に有害なビラ・チラシお断り」の看板があります。

場所は、閑静な住宅街。

かつて、住宅街や商店街に貼られたピンクビラやチラシに反対する運動や禁止看板の設置が行われましたが*1、立川でも類似の運動があったのだと思われます。

■参考文献
*1風きよし: *古今東西風俗散歩 (トランスワールドジャパン,2012)歩いて知る日本の大衆文化史 ···外部リンク···

著者(風きよし)が独自の目線で書いた散歩本。

P.120-P.121 ピンクピラとは、繁華街やラブホテルの電柱や標識柱に貼られているデリヘルなどの無店舗型性 …

立川(米軍用キャバレー跡地)黒人専用

戦後の進駐軍の性処理問題へ対応は、米軍の人種差別のため、白人兵士用の羽衣町特飲街と、富士見町(西立川駅前)の黒人兵士専用のバーに2分されていました。*1
白人用の特飲街と黒人用特飲街が2分されるのは、かつての沖縄でも同様の状況が見られました。※1
立川の場合は、東の方は白人が、西立川寄りは黒人街にと変わりました。そして黒人専用のバーとして西立川駅の入口に「玉川」が誕生しました。*1

1970年の住宅地図*2 を見ると、駅近くに同じ屋号の「ホテル玉川」の記載があります。

「ホテル玉川」があった場所は、現在は、食品スーパーの建物が建っています。

屋上からの遠望。
昭和記念公園(戦後米軍が旧立川飛行場を接収した立川基地跡地)の緑が見えます。

■参考文献
*1公共施設地図航空: 立川市 1970年度版 (全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳) (公共施設地図航空,1970)

P.7521 羽衣町一丁目に、荻原荘、稲生荘、千秋荘、大橋寮、横田寮、石田寮、羽衣荘、東松寮、栄荘、萬年寮、の …

*2三田鶴吉: 立川飛行場物語 (,1987)

P.245 進駐軍の性処理問題については、GHQの要請によって立川パラダイスがあって旧日本陸軍の将校宿舎がそれ …

■参考記事

コザ十字路から美越通り(国道329号線)を300mほど進むとバス停の「吉原入口」があります。このバス停の南東側 …

立川(羽衣特飲食街跡)

今回は、立川(東京都立川市)の町並みを散歩します。
立川の赤線は、錦町※1 と羽衣町の2ヶ所にありました。*1*2
戦後は、旧日本陸軍の将校宿舎に立川パラダイスが作られましたが、やがて閉鎖されると、兵隊達は羽衣町の特飲街へと流れ、戦前からの飲食店街までバーへと一変しました。*3
現在も格子状の道路の形状が残っています。

1970年の住宅地図*4 見ると、この付近には、荻原荘、稲生荘、千秋荘などの屋号の記載があります。転業アパートと思われる屋号の記載があります。

錦町はいわゆるカフェー調、羽衣町は平屋一戸建てが並ぶ都営住宅のような景観でした。*5*6
写真は、旧特飲街の東端。

旧特飲街の南端は、商店街と接しています。

■参考文献
*1渡辺寛: *全国女性街・ガイド (季節風書店,1955)
*1: 立川 (,)

P.66 中央線立川駅を降りると、黄色を尻目に米パンがバイキンのように泳いでいる。

*2木村聡: *赤線跡を歩く (自由国民社,1998)消えゆく夢の街を訪ねて
*2: 立川 (,)

記録映画「赤線」を見ると、錦町はいわゆるカフェー調、羽衣町は平屋一戸建てが並ぶ都営住宅のような景観だったようだ …

*3公共施設地図航空: 立川市 1970年度版 (全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳) (公共施設地図航空,1970)

P.7521 羽衣町一丁目に、荻原荘、稲生荘、千秋荘、大橋寮、横田寮、石田寮、羽衣荘、東松寮、栄荘、萬年寮、の …

*4上村敏彦: *花街・色街・艶な街 色街編 (街と暮らし社,2008)

P.123 昭和23年当時の立川市の地図(観光の日本社発行)。2ヶ所の指定地がわかる。

*5三田鶴吉: 立川飛行場物語 (,1987)

P.245 進駐軍の性処理問題については、GHQの要請によって立川パラダイスがあって旧日本陸軍の将校宿舎がそれ …

*6睦書房: *人情講談 昭和27年9月号 (睦書房,1952)

P.162 羽衣町から、国電立川駅へ行く途中の錦町。羽衣町はうっかりすると住宅街と間違える。

■参考記事

立川には、羽衣町と錦町の二ヶ所に赤線地帯がありました。1 錦町は、JR立川駅から東側に歩いて10分ほどの所にあ …

東伏見(伏見ホテル)広大な庭園

東伏見4丁目交差点の看板※1 に導かれて、青梅街道を西へ進み、東伏見稲荷神社近くが、ホテルへの入口です。

広大な庭園を持つホテル。
かつては、モーテルだったようです。*1

レトロな電飾看板。

「旅荘」と書かれています。

■参考文献
*1住宅地図出版社: 保谷市 (住宅地図出版社,1972)

P.39 西東京市柳沢2丁目7−7に「モーテル伏見」の記載

■参考記事

都道4号線(青梅街道)と都道7号線(五日市街道)が分岐する東伏見4丁目交差点から、南側の7号線へ入ります。 道 …

東伏見(ホテル看板)十字路の矢印

都道4号線(青梅街道)と都道7号線(五日市街道)が分岐する東伏見4丁目交差点から、南側の7号線へ入ります。

道路沿いに、伏見ホテルの看板が建っていますが、付近にホテルは見当たりません。

看板に記載された十字のマーク。「この先の十字路を右へ曲がる」ことを示しているようです。

看板の裏側を見ると納得できました。誤って7号線へ入ってしまったドライバー向けの看板のようです。

東伏見(ちかん看板)北口ロータリー

今回は、東伏見(東京都西東京市)の町並みを散歩します。
西武新宿線東伏見駅北口。この付近は、西東京市が合併する前は、保谷市だった地域です。

ロータリーには、バスが発着します。

ロータリーの向こう側からも見える「ちかん禁止」看板。

重要な部分は、赤文字です。

三鷹(喫茶店「ブルボン」)50年以上の歴史を持つ店

三鷹駅北口の中町新道沿いにある喫茶店の「ブルボン」。昭和39年の住宅地図*1 にも掲載されている店です。

レトロな外観。

非常に落ち着きます。

ナポリタンとビールを注文。ボリューム満点です。

■参考文献
*1東都地図社: 武蔵野市商工住宅名鑑 (東都地図社,1964)

P.31 八丁特飲街があった場所(武蔵野市中町1-19-9)に、下記屋号の記載。

三鷹(八丁稲荷)ビル街の稲荷

八丁通り(武蔵の警察署の前の通り)から三鷹駅北口に至る一画は、スナックや飲食店が集まる八丁商和会*1 のエリアで、かつての特飲街があった場所※1 もこのエリアに含まれます。
周囲は、高層マンションや居酒屋チェーンの本社ビルなどが建ち並びます。

駐車場脇に、ひっそりと佇む八丁稲荷。

八丁の名が残る稲荷神社です。

特飲街の女性たちも信仰したのかもしれません。

■参考文献
*1武蔵野市中央地区商店連合会: 商店会会員一覧 (,) ···外部リンク···

八丁商和会の会員とエリア(地図)

■参考記事

今回は、三鷹(東京都武蔵野市)の町並みを散歩します。 三鷹駅の北側、現在の横川電機の工場へ向かう途中に、かつて …

三鷹(八丁通りの飲食店跡)腰廻りの石材

八丁特飲食街の北側。この通りを進むと横河電機の工場です。

古いアパートの建物。

ここには、飲食店「バークロンボ」「はしご」「紅鶴」がありました。*1

腰廻りの石材。

■参考文献
*1東都地図社: 武蔵野市商工住宅名鑑 (東都地図社,1964)

P.31 八丁特飲街があった場所(武蔵野市中町1-19-9)に、下記屋号の記載。

三鷹(料亭らしき建物)八丁通り

八丁特飲街※1 があった飲み屋街の東側の交差点。交差点の角に、古い和風の建物が建っています。

八丁通り沿いにあります。

1972年の住宅地図*1 には、屋号と思われる「与名本」の記載があります。

2階部分。料亭らしき佇まいです。

■参考文献
*1ゼンリン: 三鷹市 '72 (ゼンリン,1972)

P.5 武蔵野市中町1丁目11-13に、「与名本」の記載。

■参考記事

今回は、三鷹(東京都武蔵野市)の町並みを散歩します。 三鷹駅の北側、現在の横川電機の工場へ向かう途中に、かつて …

三鷹(八丁特飲街跡)中町一丁目

今回は、三鷹(東京都武蔵野市)の町並みを散歩します。
三鷹駅の北側、現在の横川電機の工場へ向かう途中に、かつて「八丁特飲街」として賑わった飲み屋街があり、「松月」「ぼたん」「ひばり」「花月」「末広」「ふたば」などの店がありました。*1

南側の路地に入ると、現在もその雰囲気が残っています。

昭和39年(1964年)の住宅*2 には、「花月」「ふたば」など、特飲街時代の屋号を引き継いだ店が確認できます。

電柱番号札に残る「八丁」の名。

1956年5月、売春防止法が国会を通過し、全国各地の草の根からの廃娼運動の結果、1957年12月19日、業者側は遂に廃業声明を発表するに至った。*3

■参考文献
*1東都地図社: 武蔵野市商工住宅名鑑 (東都地図社,1964)

P.31 八丁特飲街があった場所(武蔵野市中町1-19-9)に、下記屋号の記載。

*2上村敏彦: *花街・色街・艶な街 色街編 (街と暮らし社,2008)

P.120-P.121 戦後の混乱期がやや落ち着き始めた昭和24年(1949年)、中町二丁目の一画に八軒の木造 …

*3武村民郎: 朝日ジャーナル 2月10日号 (朝日新聞社,1984.2.10)女の戦後史-45-売春防止法--婦人相談員の献身的努力に支えられて

P.33 1950年秋、東京都武蔵野市八丁(中央線三鷹駅北口)に、8軒の「青線」が出現した。業者たちは、5,2 …

吉祥寺(弁天湯)磨りガラスで描かれた裸婦

東急百貨店の西側。商店やブティックもまばらになり、住宅街になるあたり。吉祥寺では、よろづ湯※1 と並ぶレトロ銭湯の弁天湯があります。

弁天湯の煙突。

脱衣場の窓には、裸婦が磨りガラスで描かれています。

レトロなかさ入れ。

■参考記事

近鉄百貨店(現在のヨドバシカメラ)の東側は、いわゆる「近鉄裏」と呼ばれるピンク街でした。 現在、近鉄裏のピンク …

吉祥寺(駅前のホテル)コリント式オーダー

今回は、吉祥寺(東京都武蔵野市)の町並みを散歩します。
吉祥寺駅北東側の繁華街の狭い通り。「ニューヨーク」と書かれたラブホテルの看板が確認できます。

交差点の角に面した大きな建物です。

JR中央線の高架を挟んだ南側。ギリシャのコリント式オーダー(建築様式)の円柱を持つ建物が現れます。

以前は、駐車場でしたが、ホテルが出来たことにより、通り抜けできなくなっています。

西荻窪(老舗喫茶)DANTE

西荻窪駅前の呑み屋街※1 の南側にある純喫茶。

レンガ造りのノスタルジックな喫茶店です。

店内もは木とレンガ。クラッシク(バロック音楽)が流れ、まるで名曲喫茶のようです。

クロックムッシュ(ホットサンド)とカフェオレを注文。

■参考記事

今回は、西荻窪(東京都杉並区)の町並みを散歩します。 JR西荻窪駅南口を下車し、すぎ西側。ディープな呑み屋街が …

吉原(土手の伊勢屋)明治22年、吉原大門に創業

「土手の伊勢屋」は、明治22年、吉原遊廓の出入口「吉原大門」に創業。当時、店の前に「土手」があったことから「土手の伊勢屋」と呼ばれました。創業より、吉原を訪れるお客様、吉原に努める牛太郎(客引き)などで、吉原遊廓への出前などで、お店は繁盛しました。*1

登録有形文化財にも指定された建物は、東京大空襲で焼け残った木造建築です。*1

天丼(イ)と日本酒を注文。

柱時計。

【参考文献】
*1 土手の伊勢屋:パンフレット

吉原(「土手」の屋号)昔の名残が看板に息づいています。

江戸時代、吉原へ通じる道は、土手になっていて、その土手は日本堤と呼ばれていました。*1
現在の「土手通り」沿いには、屋号に「土手」とつく店が多くあり、日本堤の土手はなくなっても、昔の名残が看板に息づいていると言えます。*2
天丼が有名な「土手の伊勢屋」は、行列ができる人気店です。

馬肉の店。

土手の薬屋。

「堤」と書いて「どて」と読みます。

【参考記事】
*1 風俗散歩(吉原):土手通り(2011.4)
【参考文献】
*2 洋泉社:図説江戸吉原の本(洋泉社,2012)P.99

吉原(旅館「白菊」跡)公娼廃止時は貸座敷

吉原の江戸一通り。

旅館「白菊」の建物が残っています。

窓に残る「白菊」の文字。

「吉原今昔図」*1*2 によると、「白菊」は、昭和33年の公娼廃止時は、貸座敷(赤線)でした。

【参考文献】
*1 荒井一鬼:吉原今昔図 吉原現勢譜(葭之葉会,1993)
【参考記事】
*2 風俗散歩(吉原):吉原神社(2005.9)

吉原(おはぐろどぶ跡)段差が残っています。

とおはぐろどぶ跡(水道尻側)。

おはぐろどぶと旧遊廓域への道が交差する箇所。おはぐろどぶの方が低いので段差になっています。

北西方向へ進むと、おはぐろどぶと旧遊廓域との段差は顕著になります。

駐車場となっている場所。50cmほどの高低差があります。(写真奥はソープランド街)

吉原(鶴の湯)ラドン風呂

今回は、吉原(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
土手通りを紙洗橋交差点から南西方向に折れ、100mほどのところに銭湯の鶴の湯があります。

レトロな雰囲気の残る銭湯です。

入口。

ラドン風呂の装置と傘入れ。

新川(於岩稲荷田宮神社)花柳界や歌舞伎関係者が参詣

新川二丁目にある「於岩稲荷田宮神社」は、四ツ谷の 「於岩稲荷田宮神社」同様、「東海道四谷怪談」の主人公「お岩」の伝承を持つ神社です。新川二丁目の田宮神社は、歌舞伎俳優の初代市川左団次が明治の中頃、芝居小屋の近くに置きたいと希望して生まれました。*1

花柳界や歌舞伎関係などの人々の参詣で賑わいました。

明治座寄進の賽銭箱。

鳥居。この参道の奥にはお百度石と稲荷社があります。

【参考文献】
*1 塩見鮮一郎:四谷怪談地誌(河出書房新社,2008)P.13-P.14

新川(新川大神宮)酒問屋が信仰

新川1丁目8付近は、最も待合と芸妓屋が集中していた場所でした。*1
周囲のビルに囲まれて新川大神宮があります。

新川大神宮は、寛永2年創建の古社で、明暦の大火後、現在地に移転し、酒問屋に信仰されました。*1

新川は、隅田川に通じる水路を有することから、酒問屋が櫛比(しっぴ)し、殷賑を極め今日に至るまで酒類の一大市場となりました。(案内板より)
新川の花街は、船問屋、酒問屋が接待で繁昌した花街でした。*1

寄進者のほとんどは、酒問屋です。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.117-P.118

新川(料理屋「増田や」跡)現在は居酒屋チェーンの店舗

今回は、新川(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
新川の花街は、昭和10年頃が最も活気がありました。日本橋川に架かる湊橋を霊岸橋の間の河岸沿い(新川1-1,1-2)に料理屋の「大和屋」と待合「大国屋」「おつね」など14軒が、永代通り南側の新川1-3には「増田ヤ」と待合1軒がありました。*1
写真は、霊岸橋から亀島川を南西方向(下流)に見たところで、この写真の左側が、新川1-3のあたりです。

川沿いに面した和を感じる1軒屋。1953年の住宅地図*2 によると、この場所には、料理屋の「増田や」がありました。

和風の佇まい。

現在は、居酒屋チェーンの店舗になっています。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.118
*2 都市製図社:火災保険特殊地図 中央区越前堀方面(1953年, 都市製図社)

青梅(赤塚不二夫記念館)ギャグゲリラ

昭和レトロ商品博物館に隣接する赤塚不二夫記念館。

赤塚不二夫、手塚治虫ら著名な漫画家が居住していたことで有名なトキワ荘のジオラマが展示されています。

トキワ荘の赤塚不二夫の部屋をイメージした展示。漫画本の上に板を置いて机の代わりにしていました(案内板より)。

2階の漫画本コーナー。
「ギャグゲリラ」は、1982年に最終回を迎えるまで、10年間「週刊文春」に連載された時事漫画です。*1
母親の過保護のすさまじさを描いた「あるときは ….」という作品(多羅尾伴内のもじり)では、あるときは清掃員のおばさん、あるときは、タクシーの運転手に変装して息子を誘惑から守ります。また、あるときは、片目の売春おばさん!!。息子を守るために街娼婦になります。*2

【参考文献】
*1 名和広:赤塚不二夫というメディア(社会評論社,2014)P.229,P.232
*2 関井光男:國文學 解釈と教材の研究(學燈社,1981.04)P.162「現代マンガの手帖 赤塚不二夫」

青梅(雪女の展示)昭和レトロ商品博物館

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、怪談「雪女」の中で紹介している雪女伝説は、青梅が舞台であったとされ、昭和レトロ商品博物館には、「雪女」に関する展示コーナー「雪女の部屋」があります。

「雪女」のストーリーの展示。
「雪女」は、男に冷たい息を吹きかけて、男の精を吸いつくして殺してしまいます。

「雪女の部屋」への階段。階段脇には、小泉今日子さんの等身大パネル(ラフカディオ・ハーン=小泉八雲→小泉今日子という意味?)が展示されています。

「雪おんなサイダー」を購入。

青梅(旧花街)現在も残る建物

旧青梅街道から北へ続く北山公園通り。
この通りの左先にかつての見番がありました。*1

青梅線の線路を渡ったあたり。

旧料亭の「魚久」。現在はレストランになっています。*1

和洋折衷の建物の料亭「和田市」。右手に和風木造建築が続きます。*1

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.242-P.243

青梅(映画看板の街)永遠の処女

青梅・映画看板の街。町のあちこちに映画看板が飾られています。

原節子主演の「晩春」。原節子は、生涯独身を通し、「永遠の処女」と呼ばれました。

美容室に掲げられたオードリー・ヘプバーンの看板。

祇園囃子(ぎおんばやし)は、1953年に公開された祇園のお茶屋舞台の映画です。若尾文子が、舞妓を演じています。

青梅(根岸横丁)ビルを通り抜ける横丁

今回は、青梅(東京都青梅市)の町並みと風俗を散歩します。
JR青梅駅前の駅ビル「青梅中央ビル」は昭和レトロな商業ビルです。1階部分の「ニューミスターラーメン」に沿って歩道が続き、そのまま横丁のようなトンネルにつながっています。

駅前の看板によると、この通路は、「根岸横丁」と呼ばれています。

横丁のそば屋さん。

横丁の反対側から。近くに根岸歯科医院があるので、根岸横丁と呼ばれるようになったのでしょうか。

府中(ふるさと府中歴史館)進駐軍の展示

大国魂神社の参道の右側に「ふるさと府中歴史館」があります。建物の2階の公文書史料展示室に、「戦後70 年府中と戦争の記録~戦中・戦後の市民のくらし~」の展示があります。

「進駐軍が来た」の展示。

米軍府中基地正面ゲートの写真。1945年9月、連合国軍が陸軍燃料廠(現在は航空自衛隊府中基地)を接収して設置しました。(説明文より)
連合軍のMPは、民間の住宅までも家宅捜査し、靴をはいた土足のままで畳の室を歩きまわりました。*1

当時の府中警察署が各家庭に配布した「家庭ノ皆様ヘ御注意」のビラ。
婦女はモンペまたはズボンを着用すること、婦女の一人歩きや外出はしないこと、婦女は進駐軍兵士や駐屯地には近寄らないこと、などの注意事項が書かれています。

【参考文献】
*1 黒田要:終戦後の府中町と私(黒田要,1972)P.20

府中(称名寺の遊女の墓)水子の悲話

府中市宮西町にある称名寺にある飯盛旅籠の杉嶋屋の墓。

杉嶋屋の墓域内に、店にいた飯盛女の墓が残っています。*1

地蔵尊を浮き彫りにした供養塔には、「法岸童女・文久元年四月五日きぬ」と刻まれています。「童女」ということは、遊女ではなく、遊客相手に遊女は身ごもり、きぬを生んだと考えられます。*2

俗名きぬ。

【参考文献】
*1 府中文化振興財団府中市郷土の森博物館:甲州街道府中宿 府中宿再訪展図録 改訂(府中文化振興財団府中市郷土の森博物館,2008)P.45
*2 樋口豊治:江戸時代の八王子宿(揺籃社,1990)P.173-P.1752016

府中(飯盛旅籠寄進の天水桶)大国魂神社

大国魂神社の拝殿前。

飯盛旅籠だった杉嶋屋が寄進した天水桶が残されています。*1*2

大国魂神社の末社の巽神社。

神灯の右側の一基に、「福本屋内喜以」とあり、田中屋、杉島屋の抱女と連名になっています。寄進者の福本屋源太郎は、安政年間より幕末まで飯盛旅籠をやっていました。*2
福本屋源太郎は、旅籠「福本屋」を開業した八九三(やくざ)でした。府中宿は、大国魂神社の祭礼と飯盛旅籠があったことが、八九三(やくざ)の発生を促進しました。*3

【参考文献】
*1 府中文化振興財団府中市郷土の森博物館:甲州街道府中宿 府中宿再訪展図録 改訂(府中文化振興財団府中市郷土の森博物館,2008)P.45
*2 比留間一郎:府中市立郷土館紀要 第2号 P.20-P.29「府中宿の飯盛旅籠ノート」
*3 比留間一郎:府中史談第10号(府中市史談会,1983)P.34-P.45「府中宿の八九三」

府中(貸座敷跡地)府中宿の飯盛旅籠

府中宿の飯盛旅籠のはじまりは、安永6年(1777年)にできた2軒の飯盛旅籠で、安政6年(1859年)には、東屋、杉島屋、富岡屋、津田屋、金本屋、増田屋、田中屋、冨久本屋の8軒となりました。明治5年の娼妓解放令により、飯盛旅籠は貸座敷に変わり、府中の貸座敷は、飯盛旅籠の面影を残したまま、街道の随所に散在して昭和初期に至りました。*1
甲州街道沿いに、昭和初期まで残っていた貸座敷「新松本楼」の跡地。その後は内田屋家具店となりました。(現在は駐車場になっています。)*2*3

明治末期まで残っていた貸座敷「杉島」があった場所。大正期以降は佐藤医院となりました。*2*3
現在はマンションに建て替わっています。

貸座敷「いろは」跡地。戦前まで残り、その後は東芝の寮になりました。*2*3

貸座敷「田中屋」跡地。戦後は村上医院となり、現在に至っています。*2*3
田中屋の建物は、明治5年に建てられ、昭和47年頃まで現存した堂々たる木造建築でした。*4*5

【参考文献】
*1 比留間一郎:府中市立郷土館紀要 第2号 P.20-P.29「府中宿の飯盛旅籠ノート」
*2 府中市立郷土館:府中市中心部街道ぞい家並変遷図(府中市教育委員会,1983)
*3 府中市史談会,府中市郷土の森:府中の家並地図(府中市教育委員会,1991)P.13-P.15,P.22
*4 府中市企画調整部広報課:むかしの府中(府中市,1980)P.15
*5 府中市史編さん委員会:府中市史 下巻(府中市,1974)P.935-P.936

府中(商店街裏のラブホテル)隠れ家的な雰囲気の路地

宮西国際通り商店街近くの細道。

細道を抜けると、商店街の裏側に出ます。

いっそりと佇むラブホテル。昭和50年の住宅地図*1 によると、この場所には「旅館玉栄」がありました。

隠れ家的な雰囲気の路地です。

【参考文献】
*1 日本住宅地図出版:府中市(日本住宅地図出版,1975)P.51

荒木町(津の守弁財天)「荒木町三業地」に発展

荒木公園から坂を下ったところにある津の守弁財天。

弁財天の祠の脇には、策(むち)の池があります。

津の守とは、江戸時代、このあたり一帯に松平摂津守(美濃高須三万石)の屋敷があり、邸内に滝があったことから、摂津守の一字を略して「津の守の滝」と呼びました。また、この池の付近に「策(むち)の井」と呼ばれる井戸があり、滝壺の池を「策の池」と呼びました。*1

明治になってこの庭園が庶民に公開されると、天然の滝があることが評判になり、池の周辺に茶屋が開店し、明治6年、この滝の上に「桐座」という芝居小屋ができたのをきっかけに、料理店が次々と開店し、これが後年の「荒木町三業地」に発展しました。このようにして周辺地が市街地化されたためか、滝の水量が減り、池の周辺は急速に寂れていきました。*1

【参考文献】
*1 安本直弘:四谷散歩(みくに書房,1989)P.32-P.33

荒木町(車力門通り)荒木町三業地の入口

今回は、荒木町(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
車力門通りは、江戸時代、松平摂津守屋敷の裏門に通じる通路で、物資が荷車で運び込まれていたことから、名付けられました。明治になって荒木町三業地の入口になり、賑わった通りで、今でも飲食街になっています。*1

車力門通りは、新宿通り(下記地図の右側)から荒木公園(金丸稲荷神社付近)を経て、外苑東通り(地図の左側)へつながっています。

車力門通りの飲食街。

荒木町の中心部の荒木公園付近。

【参考文献】
*1 安本直弘:四谷散歩(みくに書房,1989)P.57-P.58

浅草(飯田屋)どぜう

永井荷風は、飯田屋の暖簾をよくくぐりました。夜、芝居がはねてから踊り子たちと来ることもありました。*1

どじょうは、うなぎと比べてビタミンが豊富で精がつきます。*1

ひとりで来店したときの荷風は、ぬたとお銚子一本を注文し、最後は柳川で締めました。*1

まぐろの赤身と独活(ウド)を赤味噌で和えた「ぬた」。くらげが添えられて、異なる食感を楽しめます。*1

【参考文献】
*1 永井永光,水野恵美子,坂本真典:永井荷風ひとり暮らしの贅沢(新潮社,2006)P.68

浅草(ラブホテル)隠れ家的ホテル

浅草には、ラブホテルが散在しています。ひさご通りの商店街から脇道に入ると、ピンク色の光を放つラブホテルがあります。

さらに進むと、花やしきの裏手に出ます。ここにもラブホテル。

言問通りからの遠望。

浅草寺の東側にある隠れ家的ラブホテル。

浅草(アリゾナキッチン)永井荷風に愛された洋食屋

浅草の洋食屋の「アリゾナキッチン」。

永井荷風に愛された洋食屋です。
荷風は、昼の12時頃に来店し、入口に向かってすぐ左横の席に腰をおろし、水がわりにビールを飲みました。*1

店内には荷風先生の写真が飾られています。

荷風先生が好んで食べていたチキンレバークレオール(若鶏とレバーの煮込み)。*1

【参考文献】
*1 永井永光,水野恵美子,坂本真典:永井荷風ひとり暮らしの贅沢(新潮社,2006)P.67

浅草(花やしき)日本最古の遊園地

浅草五区にある遊園地の「花やしき」。
花やしき(花屋敷)は、150年以上も前に、楽しむための植物園として誕生したものでした。*1

「Beeタワー」「ヘリコプター」「スカイシップ」など、レトロな雰囲気を味わえる遊園地として存続しています。

花屋敷は、嘉永6年(1853年)に向島百花園の例にならって開園し、園内には「新登亭」という料理屋もありました。広重もこの花屋敷を画材としてとりあげています。*2

明治時代、花屋敷の新たな経営者となった山本金蔵は、明治20年、本所の材木商が所有する木造瓦葺き五階屋を一棟買収し、花やしきへ移築、「奥山閣」として公開し、凌雲閣(浅草十二階)*4 と人気を二分する浅草の新名所となりました。*1
明治30年刊行の「新撰東京名所図会」*3 によれば、「室内には、唐草模様を染めなせし紅の毛氈 (もうせん)一面に敷詰め、左右紫壇の床柱には、巖に瀧、松に雲を彫刻...」とあり、外観だけでなく内部も壮麗だったようです。

【参考文献】
*1 小沢詠美子:江戸ッ子と浅草花屋敷(小学館,2006)口絵,P.170-P.173
*2 内山正雄,蓑茂寿太郎:東京の遊園地(郷学舎,1981)P.3-P.5
*3 宮尾しげを:新撰東京名所図会 浅草公園・新吉原之部(睦書房,1968)P.83
【参考記事】
*4 風俗散歩(浅草):凌雲閣(浅草十二階)

浅草(ロック座)ROCKZA

浅草六区の「ROCKZA」ビル。

昭和20年代に次々と造られた浅草のストリップ劇場は、浅草座や美人座などストリップ専門の小屋もありましたが、ロック座は、ストリップショー1時間半に軽演劇1時間という時間割を定めて演劇に力を入れていました。ロック座の初代軽演劇部門の初代座長は伴淳三郎でした。*1

ロック座の入口。

入口横の看板。

【参考文献】
*1 堀切直人:浅草 戦後篇(右文書院,2005)P.207

浅草(フランス座)元ストリップ劇場

今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
浅草六区の交差点の角に「浅草東洋館」と「浅草演芸ホール」が併設された建物(写真左側)が建ちます。

渥美清やビートたけしなど、数多くの役者や芸人を輩出した「浅草フランス座」が平成12年より「浅草東洋館」として生まれ変わりました。(案内板より)
フランス座は、昭和26年にオープン。昭和34年に東洋劇場として、軽演劇とショーとストリップとなりましたが、昭和39年、寄席とストリップとなりました。*1

浅草フランス座出身の芸人。

昭和23年以来、浅草ロック座の楽屋へ通い続けた永井荷風は、昭和28年にフランス座の楽屋を初めて訪れています。*2

【参考文献】
*1 佐藤洋一:あの日の浅草(武揚堂,2007)附図
*2 堀切直人:浅草 戦後篇(右文書院,2005)P.232

蒲田(ホテル末広)天然の黒湯温泉

蒲田駅南口の「ホテル末広」は、昭和27年開業で、当時は「温泉旅館」でした。開業時は「玉屋」という旅館でしたが、手相占いに見てもらったところ「末広」が良いというのですぐに名前を、「末広旅館」変えました。当時、隣には「白蘭」というキャバレー(後のキャバレー「モンテカルロ」)があって、バンドの生演奏が旅館にも聞こえ、華やかな雰囲気でした。*1

日帰り温泉(90分1100円)は、銭湯のように黒湯温泉を味わえます。

待合室には、小沢昭一さんが少年だった頃のふるさと蒲田の地図などが展示されています。

待合室では、冷たい麦茶がサービスです。

参考文献】
*1 交通新聞社:散歩の達人(2012.6)P.9 「ホテル末広が語るあの頃の活気と風情」

蒲田(ビジネスホテル?)多摩堤通り

西蒲田6丁目。通りの向こう側にホテルの看板が見えます。

多摩堤通り。ホテルへの入口を示す多数の看板。

趣のある路地。隠れ家的な雰囲気のラブホテルです。

屋上の看板には、ビジネスホテルと書かれていますが、「ビジネス」の部分が白く塗られて消された跡があります。

蒲田(蒲田撮影所跡」の木柱)蒲田東映劇場跡

現在のアスレチッタ1階のエレベーターホールに「蒲田撮影所跡」の木柱が建てられています。

川崎映画街を作った(株)美須商事(旧チネチッタ)は、昭和25年、この場所に「蒲田東映劇場」をオープンさせました(案内板より)。

アスレチッタの裏口(写真左側手前)。ここから、ニッセイアロマスクエア隣りのビル壁面に描かれている「松竹キネマ蒲田撮影所」の絵が遠望できます(写真右奥)。

蒲田の歴史を物語っています。

蒲田(松竹蒲田撮影所跡)二つの松竹橋

今回は、蒲田(東京都大田区)の町並みと風俗を散歩します。
大正2年(1920年4)、松竹キネマ合名社が設立され、敷地として、蒲田の中村化学研究所跡に蒲田撮影所が整備されました。男女俳優の募集も行われ、その頃の日本映画では女性の役をほとんど”女形”が演じていましたが、松竹では”女は女優”の方針でした。*1
撮影所があった敷地に建てられた大田区民ホール「アプリコ」(写真奥)前の植え込みには、撮影所の入口にあった松竹橋が再現されています。*2

松竹橋の親柱は、もう一つ、「アプリコ」の1階の入口付近に設置されています。

もはや現存しないものとされていた実際の親柱で、鎌倉在住の方から寄贈の申し出があり、70数年ぶりに、当地への里帰りが実現したものです(案内板より)。

「アプリコ」の地階には、全盛時の蒲田撮影所を再現したジオラマがあります。
正門前を逆川(さかさがわ)が流れ、そこに松竹橋がかかっていました。

【参考文献】
*1 永山武臣:松竹百十年史(松竹,2006)P.364-P.367
*2 大田観光協会:大田区観光ガイド(ハーツ&マインズ,2007)P.74

大森(ダイシン百官店展望食堂)名物はナポリタン

JR大森駅西口を出て、池上通りを南下すると、ダイシン百貨店があります。昭和の地方百貨店の雰囲気を今でも残している百貨店です。

4階には、展望食堂「ダイシンファミリーレストラン」があります。最近リニューアルされたばかりなので、花巻のマルカン百貨店*1 のようなレトロ感はありませんが、入口で食券を買って自分で好きな席に座るところまでは、同じです。

名物のナポリタン(大盛り)と生ビールを注文。

食堂からの眺め。商店街の看板建築を上から見ることができます。

【参考記事】
*1 風俗散歩(花巻)マルカン百貨店の展望大食堂

大森(かつての料亭街)現在はラブホテル街

大森海岸駅(写真右奥)の南西側の一画(大森北2丁目14~17)は、現在はラブホテル街になっていますが、かつては、料理屋街でした。京急線沿いのこのあたりには、料亭の「三平」「鈴木」などがありました。*1

料亭「梅の家」があったあたり。*1

西側には、料亭の「久の家」「福田家」「松川」などがありました。*1

そば屋の「松登久」。この付近が料理屋街だった頃から営業していました。*1

【参考文献】
*1 都市整図社:火災保険特殊地図(戦後分) 大田区[2]大森方面 2(都市整図社 ,2003)

大森(磐井神社)玉垣に料亭や芸妓置屋の名

京浜急行の大森海岸駅から第一京浜国道沿いに南下すると、磐井神社があり、社殿の右側に稲荷社があります。玉垣の積石に朱入りで名前が刻まれています。昭和44年に明治百年事業として寄進されたものですが、この地の花柳界を支えてきた料亭や芸妓置屋の名があって、かつての繁栄が偲ばれます。*1

芸妓屋が開業した当時隆盛した伊勢原、魚栄、八幡楼はその後廃業し、松浅がひとり繁栄をつづけました。*2
松浅の主人で、当時大森海岸料理屋組合長であった松木浅次は、花柳界の振興策として「大森海岸小唄」を流行らすことを仕掛け、大森の名は一気に広まりました。*1

日露戦争後の好況に伴って開業したのが、鯉屋、日の出屋、初鯉屋、立花家などであり、鯉屋は、常に芸妓40名を下ることなく、全国各都市を通じ、常に第一流の地位を占めていました。*2

「松登久」は、現在の大森北2丁目14に当時からあった、そば屋の「松登久(まつとく)」*3 でしょうか。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.217,P.219
*2 東京市大森区:大森区史(東京市大森区,1939)P.1138-P.1140
*3 都市整図社:火災保険特殊地図(戦後分) 大田区[2]大森方面 2(都市整図社 ,2003)

大森(料亭「梅元」)大森海岸三業地

今回は、大森(東京都品川区)の町並みと風俗を散歩します。
大森海岸の芸妓屋は、明治26年5月に八幡橋際に開業した料理屋の伊勢原が隆盛し、魚栄、松浅、八幡楼等引き続き開店し、間もなく芸妓屋が開業したのが始まりでした。*1
現在八幡橋は無く、八幡橋があった場所は「八幡橋児童公園」になっています。

八幡橋の東側には、競艇場の「ボートレース平和島」が見えます。

八幡橋近くには、待合だった「梅元」の建物が現在も残っています。*2

現在は、オフィスビルが乱立するエリアになっています。

【参考文献】
*1 東京市大森区:大森区史(東京市大森区,1939)P.1138-P.1139
*2 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.220

武蔵小山(鳥勇)立呑みスペース

武蔵小山駅前のやきとりの「鳥勇」。

大量の焼き鳥が、お皿に孤を描いて並べられています。

店の側面は、立呑みスペースになっています。

立呑みの場合は、お皿を渡され、焼き鳥を自由にとることができます。ぬる燗を注文。暖められた「高清水」のワンカップが出てきました。
焼きたてが優先的に置かれますので、好みで自分でタレにつけて食べます。お会計は、最後に串の本数を数えて清算です。

武蔵小山(晩杯屋)立ち飲み屋

武蔵小山飲食街「りゅえる」にある立ち呑み屋の「晩杯屋」さん。小規模な店舗で、いつも賑わっています。

チューハイ類の品ぞろえが豊富です。チュウハイの元祖とされる幻の酒「ホイス」、こだま飲料のバイスなど希少なお酒も味わえます。
「ホイス」は、昭和24年、ホッピー同様、終戦直後の物資不足の時代に、洋酒屋の後藤商店が、ウイスキーの代用品を造ろうと内外の様々な原料を調合し、試行錯誤の末に出来上がりました。*1
「バイス」は、株式会社コダマ飲料が販売する清涼飲料水を焼酎を割った飲み物です。

バイス(セット)370円とおでん(5種)150円 を注文。料金は、あらかじめ小銭を置いておく(写真左上)のが暗黙のルールです。

「晩杯屋」さんの最大の特徴は、つまみの安さです。煮込み130円、マグロ刺し200円、アジフライ(ダブル)180円などほとんどが130円~200円です。

【参考文献】
*1 弘済出版社:散歩の達人(1998.7)P.87 「ホッピー大研究」

武蔵小山(飲食店街「りゅえる」)昭和の雰囲気が残る建物

飲食店街「りゅえる」の中心部。昭和の雰囲気が残る建物が残っています。十字路の「スナック喫茶アモール」の看板に導かれて進むと、...

「喫茶アモール」の隣の赤色の建物。1階は、スナックと立ち飲み中華です。

その向かいにある和風のスナック店。

奥まった場所にあるスナックが建ち並ぶ一画。

武蔵小山(飲食店街「りゅえる」)来年から取り壊し予定

今回は、武蔵小山(東京都品川区)の町並みと風俗を散歩します。武蔵小山飲食店街「りゅえる」は、再開発計画により、今年から取り壊しが予定されている商店街です。

スナックや居酒屋が軒を連ねる昭和レトロ感満載の飲食店街です。

北側の通り。片側は駐車場になっています。

道幅の狭い路地にスナックが密集しています。

四ツ谷(新宿歴史博物館)文化住宅

JR四ツ谷駅から徒歩10分の場所にある新宿歴史博物館。

館内に入り、まず目を引くのが、「内藤新宿」の模型です。

新宿の赤線街を再現した展示。

文化住宅を再現した展示。大正の末から昭和の初めにかけて流行したサラリーマン住宅で、小規模な和風住宅の玄関脇に、洋風の応接間がついていました(案内板より)。

四ツ谷(せきとめ神)鮫が橋地名発祥の地

JR四ツ谷駅から大通りを迎賓館を左手に見ながら南へ。まもなく赤坂御所の鮫が橋御門があり、その反対側が南元町公園です。公園に沿って右折すると、「せきとめ神」の祠があります。*1

鮫が橋地名発祥の地の碑

玉垣には、料理屋と思われる寄付の痕跡が確認できます。

江戸時代(宝暦以降、寛政改革で取り払いになるまで)鮫が橋は夜鷹の巣窟でした。江戸における出張売春婦としての夜鷹は、本所吉田町から出る女と、この鮫が橋の本拠を置く者に大別され、吉田町の私娼は手拭をかぶり、鮫が橋の女は手拭を用いませんでした。*1

【参考文献】
*1 花咲一男:江戸あらかると(三樹書房,1986)P.99-P.108

四ツ谷(麹町4丁目)元吉原以前

今回は、四ツ谷(東京都千代田区、新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
吉原遊廓の成立を書いた最古の資料「異本洞房語園」には、「慶長の頃迄、御城下定りたる遊女町なし、傾城屋所々にありし中にも、軒をならべ集り居たる場所、三四ケ所あり、麹町八丁目に十四五軒、鎌倉河岸に同断、大橋の内柳町に廿余軒...」と書かれています。麹町八丁目とは、現在の麹町四丁目付近です。*1

現在、この付近には、千代田区 町名由来板ガイドがあります。

遊廓は、元和3年に日本橋(元吉原へ)移転しました。*1

名由来板ガイドが設置されているのは、麹町4丁目と五丁目の境界付近です。

【参考文献】
*1 石崎芳男:よしわら「吉原」(早稲田出版,2003)

池袋(三社稲荷神社)三業組合の関係者によって奉られた神社

池袋の三業地の中心部。写真の右側が料亭「寿々代」です。通りの奥に三社稲荷神社の鳥居が見えます。

三社稲荷神社は、三業組合の関係者によって奉られています。*1

稲荷神社の灯籠。

寄進者と思われる料亭の屋号が確認できます。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.189-P.193

池袋(三業通り)昭和3年から始まった花柳界

JR池袋駅西口から北へ向かって進み、トキワ通りを超えて北へ進むと、「三業通り」と呼ばれる北西へ向かう通りがあります。この通りの西側に昭和3年から始まった花柳界がありました。
町会の名前に「三業」の名前が見られます。

三業通りというのは、この通りに面して池袋三業会館(見番)の建物があったからです。(写真のビルが旧池袋三業組合があった場所)

当時の面影を残す割烹料理店の建物。

「三業支」の電柱のプレート。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.189-P.193

池袋(18禁マーク)紹介所

ロサ会館の裏側の通り。

池袋では、風俗紹介所と思われる18禁マークだけが看板に描かれた事務所を見かけます。

大きな看板。

紹介所ですが、派手な装飾は無く、18禁マークの看板だけが取り付けられています。

門前仲町(深川江戸資料館)天保の終わり頃の深川の町再現

江東区深川江戸資料館。江戸深川の町が再現されています。

土蔵が町並みから突出してたち、その右手前二棟は長屋、奥に火の見櫓が見えます。*1

船宿の猪牙舟(ちょきぶね)。

天保の終わり頃の深川の町が再現されています。*1

【参考文献】
*1 藤沢周平:深川江戸散歩(新潮社,1990)P.58-P.67