洲本(謎のバラダイス)ちんちん音頭発祥の地

謎のバラダイスは、淡路島の観光名所水仙郷の一角にある秘宝館です。*1*2
道路から急な坂道を下ったところのくぼ地が、秘宝館の敷地です。

チンチン音頭発祥の地。*3

テレビで有名になった経緯が書かれています。

入口には、「おしべとめしべのことをまなぶところ」と書かれています。

【参考文献】
*1 酒井竜次:I love秘宝館(八画,2009)P.186-P187
*2 都築響一:珍日本紀行西日本編(筑摩書房,2000)P.816-P.819
*3 宝島社:VOW王国ニッポンお笑い世界遺産(宝島社,2004)P.48-P.49

石和温泉(芸妓置屋)コンパニオン募集看板

温泉街と言えばコンパニオンですが、石和温泉ではコンパニオンを派遣する置屋があります。国道411号線(大菩薩ライン)沿いに「芸妓置屋」の看板があります。

こちらの案内板には、2軒の置屋の名前が確認できますが、実際に歩いてみたところ、それらしい置屋は発見できませんでした。ひと昔前と比べると置屋の数は減っているようです。

鵜飼橋近くにある置屋のコンパニオン募集看板。

シングルマザー、お子様連れ大歓迎。

石和温泉(ストリップ劇場跡)看板の支柱だけが残っていました。

湯けむり通り沿いにストリップ劇場の「石和温泉劇場」がありましたが、現在は無くなって更地になっています。
当時の写真*1 を見ると、建物の右下に、「生板」、「外人」、「花電車」と書かれた大きな看板が貼り付けられていて、道路脇には、「特出し」と書かれた立て看板が置かれていたようです。また、建物の右側には、「ヌード」と書かれた大看板がそびえ立っていました。

現在、「ヌード」の大看板の支柱だけが、遺構として残っています。この支柱の上に「ヌード」とデカデカと赤色の文字で書かれた大看板が乗っかっていました。

交差点の対角線上にある旅館「森仙」の駐車場の場所を示す看板に「ヌード」と書かれています。「ヌード」の大看板はかなり目立つ存在だったようです。

古い案内板。文字がかすれて読み取りにくいですが、ヌード石和温泉....と書かれています。

【参考文献】
原芳市:ストリップのある街(自由国民社,1999)P.47

石和温泉(葡萄畑)葡萄畑から温泉が噴出したのが始まりでした。

今回は石和温泉(山梨県笛吹市)の町並みと風俗を散歩します。
石和温泉は、1961年1月、石和町八田の葡萄畑の中から突然温泉が噴出し、あふれ出たお湯が近くの川 に流れ込んでできた即席の露天風呂が石和温泉の始まりです。
ホテル新光の北側の空き地に、石和温泉発祥の地の碑があります。

温泉街のメインの通りである湯けむり通り沿いには、現在も葡萄畑があります。

湯けむり通りから一本南側の通りに入ると、広大な葡萄畑が広がっています。(葡萄畑の向こう側に見える建物は、湯けむり通りの旅館です。)

美味しそうな葡萄です。

甲府(玄法院の手水石)新柳町遊廓の関係者が奉納

天神町にある玄法院。立派な本堂があります。

入口を入ったところに、神社などに置かれている手水石が忘れ去れたように置かれています。

水盤の裏側に「新柳町 発起人」と書かれています。新新柳町遊廓の関係者が奉納したものと思われます。新柳町遊廓があった場所は、ここから徒歩3分ぐらいの場所です。
明治3年(1870年)甲府役所からの命令で、旧来の柳町にあった旅籠屋が移り「新柳町遊廓」ができました。*1*2
新柳町遊廓は、明治40年の大火をきっかけに穴切に移転しました。*1

手水石は、明治14年に奉納されたものです。

【参考文献】
*1 山梨県立図書館:甲州文庫史料第1巻(山梨県立図書館、1973) P.283-P.284
*2 青柳詢一郎:粋鏡花あやめ 附・新柳町明細地図(青柳詢一郎,明28)

甲府(天神町の雑誌屋)古びた自販機が4台並んでいます。

天神町で見かけた古びた雑誌屋さん。

店の前に、古びた自販機が4台も並んでいます。

このボタンを押して雑誌を選ぶ仕組みだったようです。

現在でも、成人向け雑誌の自販機を地方都市なでで見かけることがありますが、この自販機では、プレイボーイなどの週刊誌が販売されていたようです。

■カテゴリ 甲府 自販機

甲府(穴切遊廓跡地)現在は住宅地となっています。

甲府の遊廓は、明治時代、増山町にあり、「新柳町遊廓」と呼ばれていました。明治40年、廓内から出火した大火により、22の妓楼のほとんどが焼けたため、まもなく穴切(現在の宝1丁目)に移転しました。*1
穴切遊廓は、穴切神社の北側。現在の宝1丁目にありました。「甲府市街全図」*2 に、整然と区画された穴切遊廓が記されています。

遊廓があったと思われる一画。

旧地名である「アナギリ」のプレート。

南側には、黒板壁が美しいお屋敷がありました。

【参考文献】
*1 山梨県立図書館:甲州文庫史料第1巻(山梨県立図書館,1973)P.284
*2 甲府商業会議所:甲府案内(甲府商業会議所,1918)「甲府市街全図」

甲府(ビル街の飲み屋街跡)入口のアーチが残っています。

今回は、甲府(山梨県甲府市)の町並みと風俗を散歩します。
甲府駅前の「電化ビル」に飲食街だったと思われる一画が残っています。入口のアーチに今でも残る蛍光灯が印象的です。

角が丸みをおびた建物。

飲み屋街だった建物は、現在は、片側に残っていませんが、かつては両側にあったのかもしれません。

周辺は、近代的なビル街です。

丹波山(女郎ゴー)金山杭夫慰安の遊女を置いた場所がありました。

黒川金山は、武田信玄の軍資金を賄った金山として知られています。黒川金山へは、丹波山から青梅街道沿いに多摩川をさかのぼり、「おいらん渕」近くの三条新橋から水源林管理のための道を行くと、黒川谷に入ります。ここで道は二手に分かれます。一つは谷沿いに上る道、もう一つは「黒川金山循環歩道」です。

「黒川金山循環歩道」は、戦国時代、「黒川千軒」と呼ばれた鉱山町跡を巡る歩道です。この歩道を登りきったあたりに、近代のものと思われる坑道の入口があります。*1

黒川山の頂上の東端は、その岩峰から、黒川鶏冠山と呼ばれています。黒川鶏冠山の山頂には、鶏冠権現社奥宮があります。*1

「黒川千軒」の近くには、金山杭夫慰安の遊女を置いた場所(女郎ゴー)がありました。場所は、黒川谷の北川の尾根を越えた黒川山の中腹とされています。*1

【参考文献】
*1 今村啓爾:戦国金山伝説を掘る(平凡社,1997)P.18

丹波山(おいらん渕)戦国時代の伝説です。

丹波山のバス停から、青梅街道を柳沢峠方面へ向かいます。このあたりは、丹波渓谷と呼ばれ、青梅街道が開通するまでは未開の地でしたが、今では、道路沿いの渓谷美と紅葉を楽しむことができます。
この橋を渡ったところに、おいらん渕があります。

道路がカーブしたところの小さな空き地に、案内板が立てられ、おいらん渕の由来が書かれています。おいらん渕は、戦国武将の武田家が滅亡する際、黒川金山の遊女たちがまとめて始末されたという悲しい伝説が残る場所です。
おいらん渕という名前は、明治時代、現場でこの話を聞いた東京都市議会議員の坪谷水哉議員が命名したという説があります。*1

付近は交通事故の多発地帯として知られていますが、おいらんの亡霊の呪によるものとも言われています。そのため、鎮魂供養の木柱が立てられています。*2

案内板は、どの場所がおいらん渕であるかを明確に示していません*3が、滝の下の極端に狭くなった深い暗いゴルジュがおいらん渕であったのではないでしょうか。

【参考文献】
*1 田島勝太郎:奥多摩・それを繞る山と渓と(山と渓谷社,1935)P.255
*2 今村啓爾:戦国金山伝説を掘る(平凡社,1997)P.25
*3 大藪宏:戦国武田の黒川金山(山日ライブラリー,1995)P.158

■カテゴリ 丹波山 伝承

丹波山(おいらん堂)昭和63年に再建されました。

丹波山のバス停から15分ほど歩いた奥秋テント村の近くに、「おいらん堂」と呼ばれているお堂があります。

案内板によると、おいらん堂の由来は次の通りです。
戦国時代、甲斐の武田氏を支えた甲州金は、ここから西方約9Kmのところにある黒川金山から産出されたものといわれ、黒川金山には採掘坑夫の慰安のために遊女がいました。
金山閉山のとき、遊女たちから金山の秘密が漏れるのを防ぐため、柳沢川の渓谷に宴台を作り、慰安と称してその上で舞を舞わせました。舞の最中、ころをはかり宴台を吊っていた藤づるを切って、宴台もろとも遊女たちを淵へ沈めました。このことから「おいらん淵」の伝説が生まれました。
下流にある奥秋部落には遊女の死体が多く流れつきました。哀れに思った村人たちは、遊女たちの亡骸を引き上げ、お堂を建てて手厚く葬りました。
現在のお堂は昭和63年に再建されたものです。

お堂には、花魁と書かれた位牌があります。

お堂には、「デク」と呼ばれる木で彫った人形が供えられています。

■カテゴリ 丹波山 伝承

丹波山(飲食店)二十才未満の者おことわりの鑑札があります。

今回は、丹波山(山梨県)の町並みと風俗を散歩します。JR奥多摩線の終点の奥多摩駅で下車し、そこから、丹波行きの西東京バスを乗りついで約1時間で丹波山に到着します。
蚊取り線香のホーロー看板が出迎えてくれました。

バス停の近くにかつて飲食店だったと思われる建物があります。

2階の窓の部分に竹や鳥などの図案が彫り抜かれています。

1階の柱に残っていた鑑札。「二十才未満の者はおことわりします。上野原警察署」「営業時間は午後11時までなので、ご協力ください。」「山梨県公安委員会」と書かれています。
同様の鑑札は、旧カフエー街の古河水戸で見かけたことがありますが、こちらのお店でも女性による接客サービスがあったのではないでしょうか。

富士吉田(富士山)コナミルクの木製ベンチ

富士吉田は、唯一、富士山を一合目から上れる登山道の登山口です。まずは、遊歩道を歩いて、一合目を目指します。

三合目まで来ました。案内板によると、ここには、江戸時代から茶屋(山小屋)が2軒あり、ここからの見晴らしが良かったので、多くの登山者がここで休憩したそうです。現在は、2軒の廃屋があります。

廃屋に「ルミナコ治明」...ではなく、「明治コナミルク」(右から読みます)と書かれた木製ベンチが放置されていました。
明治コナミルクは、1923年に開発された歴史のある乳製品です。*1

五合目にから見る富士吉田市街。市街を南北に貫く本通り(写真中央)が見えます。

【参考URL】
*1 明治乳業(株):明治コナミルクの歴史

富士吉田(タイルの浴槽)償却炉の隣

本通りの坂道を南へどんどん登っていくと、国道139号線(横町バイパス)へ出て、やがて富士浅間(せんげん)神社へ着きます。富士浅間神社の杉の巨木が神秘的です。

歩道に、償却炉があります。個人のお宅のものと思われます。左側のコンクリートブロック製の償却炉の脇にタイルでできたもう一つの償却炉?が置かれています。

全面タイル貼りで、懐かしい感じがします。

側面には、穴が二つあいています。おそらく、かつて浴槽として使われていたものを捨てずに何かの目的で使っているのだと思います。

富士吉田(武田牛乳)牛乳箱と牛乳店

下吉田の西裏通りで、武田牛乳の牛乳箱を見つけました。白色の牛乳箱に赤色の象のマークが印刷されています。
武田牛乳は、戦国大名の武田信虎(武田信玄の親)の末裔が、明治5年(1872年)にしょうゆ醸造業(テンヨ武田)を創業したのが、始まりで、 その後、テンヨ武田の姉妹会社の武田食品株式会社が昭和23年より市乳部門を設置し、象のマークの武田牛乳として販売しています。*1

牛乳箱の側面には、「ミネビタ牛乳」、「ホモゲ牛乳」と書かれています。「ミネビタ」は、ミネラル+ビタミンだと思われます。「ホモゲ」は、ホモジナイズのことだと思います。
牛乳箱の朽ち具合が絶妙です。

富士吉田は、町全体が斜面です。町を南北に縦断する本通りの坂道を登り、金鳥居を過ぎて、上吉田に入ります。
武田牛乳の販売店がありました。下吉田で見かけた牛乳箱の側面に書いてあった販売店です。建物に象のマークがあります。

牛乳の小売も行っています。もちろん、象のマークの武田牛乳も販売されています。「牛のマークの牛乳石鹸」というのがありますが、象のマークの牛乳は、象乳とでも呼んだらよいのでしょうか。

【参考URL】
テンヨ武田:「テンヨ武田の商標

富士吉田(制服専門店)制服屋が乱立する市街。

富士吉田には、制服専門店、ユニフォームショップ等の店舗が多数あります。
下吉田にある制服専門店。店の側面に、「制服専門」と大きく書かれた看板があります。制服を着たマネキンがずらりと並んでいますが、なぜか男子のマネキンはひとつもありません。

同じく下吉田にある別の制服専門店。高校名も書かれているので非常に判りやすい展示です。吉田高校の女子制服は、奇抜なデザインです。

富士吉田駅前の通りにあるユニフォームショップ。高校の制服だけでなく、業務用の制服も品揃えされています。看板の「女子事務服」だけが赤字で示されています。

女子事務服の品揃えが充実しています。