幸手市史編さん室幸手歴史物語 川と道 : 幸手市史特別版幸手市教育委員会
権現堂堤史

今でこそ桜の名所として広く知られ幸手のシンボルとなっている権現堂堤ですが、現在の堤は明治の洪水とのたたかいから生まれたものです。

権現堂堤の誕生
かつて、権現堂川は、豊かに水をたてた河川で、いったん洪水で決壊しようものなら、すぐさま首都・東京に洪水をもたらすおそれがありました。そこで明治政府は明治8(1875)年ここに新たに堅固な堤防を築かせたのです。翌年、明治天皇が立ち寄って視察したことから、「行幸堤(みゆきづつみ」とも呼ばれるようになりました。

桜の名称地へ
たび重なる洪水に悩まされた政府は、明治末期になって利根川流域の改修計画を見直し、権現堂川を廃川とすることにしました。この計画を知った地元の人々は、聖蹟地を廃墟にしてしまうのはしのびないと大正9年(1920)に行幸堤保存会を組織し、堤に桜の樹を植え始めました。その後、桜は順調に成長し、権現堂堤は生まれ変わったのです。

写真:芸者衆による観桜会流し踊り(昭和10年)
桜の名所として有名となったこのころには、花見のときには、東武鉄道の臨時電車がでた。

幸手町のにぎわい

宿場町として栄えた幸手宿は、近代に入って宿場としての役割を終えた後は、商工業地として発展していきました。旧日光道中の表通りは、米穀商や肥料商、呉服商などが軒を連ねる「商業のまち」で、近隣からそれらの物資を集荷し東京方面を中心に販売する問屋的性格をもっていました。