JR藤野駅から北へ陣馬山方面へ向かう道の途中に、江戸時代からの住宅の建物が残っています。
遠藤家住宅は、国登録有形文化財に指定されています(案内板より)。
佐々木家住宅。
森川家住宅。慶応年間の頃の建築と伝えられています(案内板より)。
石井家住宅。宝永4年(1707)年に建てられた大型の民家で、国の重要文化財に指定されています(案内板より)。
JR藤野駅から北へ陣馬山方面へ向かう道の途中に、江戸時代からの住宅の建物が残っています。
遠藤家住宅は、国登録有形文化財に指定されています(案内板より)。
佐々木家住宅。
森川家住宅。慶応年間の頃の建築と伝えられています(案内板より)。
石井家住宅。宝永4年(1707)年に建てられた大型の民家で、国の重要文化財に指定されています(案内板より)。
今回は、藤野(神奈川県相模原市緑区)の町並みを散歩します。
JR相模湖駅から続く国道20号線のトンネルの入口脇に残る「相模湖A館ローヤル」の看板。
その先には、休業中の巨大ホテルの建物がそびえたっています。
西側から見た「ホテルローヤル」。
相模湖からの遠望。
相模湖にかかる勝瀬端橋を渡った向こう側に、リゾートホテルが建っています。
建物の側面には丸窓が並んでいて、船の雰囲気を醸し出しています。
船の船首部分。
6~7階建てはありそうな建築です。
JR相模湖駅から相模湖沿いに西へ進みまます。
「昔ながらの中華そば」の「見晴らしドライブイン」。
窓から外を眺めていると落ち着きます。
タンメン(大盛)を注文。
相模湖駅から南へ徒歩で約10分。
相模川に面した相模湖公園があります。
ボート乗り場。
ボート乗り場の建物は、レトロなゲームセンターになっています。
メロディショット。
今回は相模湖(神奈川県相模原市緑区)の町並みを散歩します。
相模湖駅を下車すると、目の前に「ようこそ相模湖」と書かれた大きなゲートが建っています。
そのゲートの隣。いかりやレストン「デミタス」。
2階の窓際の席から。
オムライスを注文¥。
甲府市中央4丁目にある魚そう本店。
甲府の寿司屋は師弟関係でいくつかの系統があり、魚そう本店の初代小澤創吉は、大黒すし(創業明治11年、平成27年閉店(城東一丁目))で修業を積みました。*1
魚そう本店の創業は明治30年。現在では魚そう北口分店 ※1 など、多くの分店があります。
店内はテーブル席が中心ですが、小上がりもあります。
にぎりを注文。魚そう北口分店のほぼ同じくらいのビッグサイズでです。甘めのタレが塗られている点は「甲州にぎり」の特徴を備えています。が、本店の場合は一貫の握りが食べやすいように半分の大きさに切り揃えられています。
明治30年創業の魚そうの寿司は大きな握りや太巻きの形に江戸時代の雰囲気を伝え…
甲府駅の北口。
明治30年創業の魚そうの寿司は大きな握りや太巻きの形に江戸時代の雰囲気を伝えていることでよく知られています。*1
カウンター席とテーブル席、両方あります。
握りを注文。伝統の「甲州にぎり」です。通常の2貫分ある大きなサイズ(一口で頬張るのがやっと)で、少し甘めのたれが塗られています。
明治30年創業の魚そうの寿司は大きな握りや太巻きの形に江戸時代の雰囲気を伝え…
甲府駅の北側の山の手通り沿い。山彦旅館の看板。
路地を一本入ったところにある山彦旅館。
現在は休業しているようです。
東側から見ると、規模の大きな旅館であることが解ります。
裏春日通りと銀座通りのアーケードが交差するあたり。
ビデオ・パートナー ムサシ。
ムサシ建物の裏側は駐車場になっています。
その左側は、銀座通りのアーケードの裏側です。
甲府市の朝日5丁目にある銭湯の喜久之湯温泉。
太宰治も通った名湯です。
「太宰がいた町を歩く」と題した記事が掲載されています。
「毎日午後三時頃まで机に向かい、それから近くの喜久之湯に行く。その間に支度しておいて、夕方から飲み始め、夜九時頃までに、六、七合飲んで。。。ぶっ倒れてしまう。。。」
甲府駅北側の朝日5丁目。
大きなコンクリートの塊。
四つ足の箱が横倒しになっている状態です。
上側には蓋が付いています。ゴミ箱が横倒しの状態で置かれていることが解ります。
今回は、甲府(山梨県甲府市)の町並みを散歩します。
甲府駅の北側にある玄法院には、新柳町遊廓の遺構が残されています。そのうちの一つが手水石※1 ですが、もうひとつ、本堂前の石灯籠に芸妓が寄進したと思われる石の台座が残されています。
台座には、「芸妓中」と刻まれています。
新柳町の芸妓屋と芸者と思われる名前が刻まれています。
新柳町は、遊廓と芸者屋が混在していました。明治28年(1895年)の「新柳町明細地図」には芸者屋「森田」の名が記されています。*1
石灯籠の上部には、昭和廿八年と記されています。台座部分と灯籠部分は、石の風化の具合が異なって見えるので、別の時代のものかもしれません。
1774(安政3)年以降、徳川幕府は期間を限って甲府柳町一丁目(中央四丁目)の…
仲通りをぬけた角に建つスミレ写真館。
スミレ写真館に寿々喜家※1 所蔵の写真が展示されています。
花街があった頃の写真が展示されています。(仲通りレトロギャラリー。)
昭和50年代頃までの青梅駅周辺は、西多摩きっての商業都市として活気にあふれ、三業通りと仲通りの2本の通りは、ひと味もふた味も違った特色を持つ、青梅で一番の商店街でした(案内文より)。
当時の写真。
今回は、青梅(東京都青梅市)の町並みを散歩します。
旧青梅街道から1本北へ入った仲通りは、花街だった頃の名残のある寿々喜家があります。
寿々喜家は、「全国花街めぐり」で、「三層楼で洋食を兼ねている。」と紹介されています。*1
店内には、昔のアルバムなどの貴重な資料も置かれていて、花街だった頃の様子を知ることができます。
うな重の竹(ハーフサイズ)と日本酒を注文。
吉野橋の東側の国道20号線沿い。
中華料理の「福龍」。藤野周辺は、食堂が比較的少ないので、貴重な存在です。
出前もやっています。
天津丼とビールを注文。
旧吉野宿の北側の斜面を登ったところ。
「戸田医師の碑」が建っています。
医療関係では無医に苦しむ地方が多いにもかかわらず、明治の時代に、戸田医師、倉田医師の二名の医者が開業して吉野宿並びに近隣の保健の維持にあたっていました。吉野という宿場がいかに隆盛を極めていたかを立証するものです。*1
「明治三十一年」と読めます。
吉野宿の盛大さを物語る一面として、遊廓があったことが挙げられます。揚屋が2軒あり、交娼の検疫所が設けられ、週一度ずつの検疫が義務付けられていて、与瀬の吉川という医師が出張してこれに当たりました。*1
P.7
警備と医療関係の業
「吉野宿町並復元模型」で復元されていた小猿橋※1 は、現存せず、現在、沢井川には、吉野橋が架かっています。
橋の東詰には、案内板が建っています。
小猿橋は、現在の吉野橋よりやや南寄りにあって、山梨県大月市の猿橋と工法が同じで、それよりも少し小さいことから小猿橋と呼ばれました。宿場の遊廓や飯盛り女からの刎銭(はねせん)等を財源として掛替工事を行っていました(案内板より)。
小猿橋があったと思われるあたり。
博物館「吉野宿ふじや」に、「吉野宿町並復元模型」が展示されています。
江戸時代に甲州街道の宿場町として栄えた吉野宿の明治10年頃のたたずまいを模型にしたものです(案内板より)。*1
本陣、脇本陣、旅館(藤屋、若松屋、吉本、吉田屋)
遊廓(栃木楼、中屋、源楼、福本楼、紅葉(かえで?)楼)、商店などの家並みが復元されています。
江戸時代、宿場吉野宿の街道筋に、かいで、常磐、中島、とちぎ、という4軒の飯盛旅籠が点在していましたが、明治29年に大火事があり、その後、飯盛旅籠は新地に集められました。吉野遊廓は、3軒の妓楼(柴田楼、中島楼、常磐楼)と3軒の茶屋(揚屋)があり、交通が発達するにつれ、遠く東京方面からの遊客もみえ、明治、大正、昭和の初期にかけて繁栄しました。*2
模型の左側(吉野宿の西側)には、沢井川を渡るための橋がかけられています。
吉野宿の場合は川に橋を架けるために(ということを名目に)飯盛旅籠の設置を願い出ました。*3
吉野宿本陣五層楼の復元模型。
本陣
脇本陣
旅館(藤屋、若松屋、吉本、吉田屋)
遊廓(栃木楼、中屋…
もともと、宿場女郎(飯盛女)は、宿場を旅人に素通りされたのでは、土地に金が…
慶応元年(1865)5月、幕府は長州征伐の費用として5000両の御用金を布田五宿(…
今回は、藤野(神奈川県相模原市緑区)の町並みを散歩します。
JR藤野駅から東へ1km。沢井川をの向こう側は、吉野宿があった場所です。
ここに、かつてのの旅館「藤屋」の建物を活用した郷土資料館「吉野宿ふじや」が建っています。
「藤屋」は、明治29年12月29日の吉野大火まで、旅館業に従事していましたが、再建後は旅館業でなく農業に専念しました。2階は当初から蚕室としての使用目的につられました。
館内には、当時の街道の写真が展示されています。
吉野宿の街道の様子を記した古文書。
大房家は明治29年12月29日の吉野大火まで「藤屋」の屋号で旅館業に従事していた…
石和温泉にある「石和温泉」という名の銭湯。銭湯と食堂が合体した店舗です。
入口には「ラーメン」の暖簾。
「ラーメン」の暖簾の向こう側は、店の厨房になっています。
食堂というよりは、居酒屋に近いメニューです。
風呂上りに、ビールを頂きます。
石和温泉の中心街にある「かどや食堂」。ラーメンを中心に、丼、カレー、定食など。
店内には、大きな柱時計。
ラーメンとビールを注文。
ラーメンコショー。
「さくら温泉通り」を東へ進んだところ。
1階に飲食店やスナック店が入る建物。
壁面に、「石和秘宝館」「石和ロマンの館」の文字。
かつての秘宝館だったのでしょうか。
居酒屋やスナックなどが建ち並ぶ「湯けむり通り」。
「ニュー八田街」の看板。
コの字型の飲食街の建物。
八田会館。
今回は、石和温泉(山梨県笛吹市)の町並みを散歩します。
さくら温泉通り沿いにある「石和源泉足湯ひろば」。
足湯の奥に、石碑が建っています。
「高熱温泉発祥之地」の碑
石和の温泉は、大蔵経寺山(現在の石和温泉駅の北側)のふもとに明治時代から湧いていましたが、昭和36年、山梨交通保養所の敷地内で井戸を採掘していたところ、摂氏60度以上もある温泉が噴き出しました(案内板より)。
湯村温泉の温泉街から坂を登ったところにある「竹中英太郎記念館」。
昭和初期、探偵・怪奇小説で有名な江戸川乱歩、横溝正史、夢野久作などの挿絵画家として一世を風靡した竹中英太郎の挿絵原画などが展示されています。*1
大正六年に創刊された雑誌「主婦之友」に連載された「銀座事件」は、竹中英太郎の挿絵に導かれて物語の深みに入っていきます。
「銀座事件」の復刻版を購入。
甲斐の山並みを一望できる湯村山の高台に「湯村の杜 竹中英太郎記念館」があり…
P.344
三上於菟吉は、大正から昭和の初めにかけて、時代を駆け抜けた大衆小…
湯村温泉街の中心部。温泉旅館やスナックなどが建ち並ぶ一角に、らーめん店の湯村食堂があります。建物の右側半分は、ヘーアサロンです。
ラーメン中心のメニュー。
チャーシューワンタンメンとビールを注文。
建物の側面。
今回は、湯村(山梨県甲府市)の町並みを散歩します。
バス停の「湯村温泉通り」の近く。
ここには、「1羽の鷲が日に何度も草むらに降り立つ場所に湯気が立っているのを見つけて、掘り当てた温泉。」との伝説を持つ鷲の湯がありました。長年公衆浴場でした。*1
公衆浴場があった場所には、旧技芸組合練習場の建物が建っていました。*2
現在、この付近は再開発中です。
かつて、中央高速道の手前に質素な鳥居と一寸した境内もつ鷲神社(おおとりじんじゃ)がありました。かつて、この附近一帯に、遊廓が設置され、新地と言われました。*1
鷲神社はこのあたりにありました。*2
明治の中ごろ、上野原宿は一六市が開かれ、絹問屋や仲買い商人のだんな衆で賑わいましたが、夜の遊興は隣の吉野遊廓(神奈川県藤野町)に流れてしまい、上野原町の繁栄の妨げとなっていました。そのため、遊廓が建設されることになりましたが、「風紀上よくないから宿から遠ざけろ」といった声があがり、明治33年12月、関山遊廓が建設されました。翌年8月、遊廓から歩いて5分の場所に中央線上野原駅が開通し、交通の便を得た関山遊廓はその後全盛を極めました。*3
昭和21年(1946)年の公証廃止令によって遊廓は表面上消滅しましたが、その後は特殊飲食店(赤線地帯)として存続。終戦直後はもっぱら米兵の慰安所として利用され、昭和27年頃から米兵に代わり町内や周辺の人がちで少し賑わいを増しましたが、昭和33年3月に「買春防止法」の施行によって全面的に解消されました。
遊廓跡地に建つ旅館の建物。
P.94
図16 路傍文化の探訪 新田地区
・No.8:鷲神社
P.65
大鷲神社の記載。:
関山遊廓
明治の中ごろ…
甲州街道から北へ向かう、通称、赤井戸横丁沿いに、日立の名を冠した店があります。
日立チーェンストール(日立のお店)。
店の前には、日立の乾電池の自販機。
日立ビデオ「マスタックス」。VHSビデオ隆盛の頃です。
甲州街道から上野駅方面へ向かう通りにある3階建ての商業ビル。
明日も来てね。
1階、2階は飲食店。3階は舞踊稽古場と曜日によって変わるスペース。
ラーメン専門店。
上野原の市街地は、駅から坂を上った台地にあります。かつての現在の商店街は、かつて甲州街道の宿場町だった場所です。
古い商店の建物が多く残っています。
街道沿いにある薬局の「天野順進堂」。
マンダムの看板※1※2が残っています。
看板の中に蛍光灯が仕込まれて、点灯させることができたようです。
上野原駅前。
大看板を有する大衆食堂の「一福」
店内は最近改装されたらしく、綺麗です。
牡蠣バターラーメンを注文。
今回は、上野原(山梨県上野原市)の町並みを散歩します。
上野原駅北口に降り立つと、眼前に石垣が迫ります。
上野原駅は、台地の市街地より離れた場所につくられたため、駅の北側は急傾斜地になっています。
割烹旅禍が連なっています。
駅舎と相模湖を見渡せます。
甲府市駅を流れる貢川(くがわ)をわたる荒川橋の近くに建つ銭湯の草津温泉。
入口は緑色です。
入口に、椅子があって、のんびりできます。
国道52号線から脇道を入ったところにあります。
甲府市の繁華街の南側の中央5丁目。
銭湯の都温泉があります。かつてはここが入口だったのかもしれません。
創業は明治時代だそうです。無駄な装飾を省いたシンプルな建物です。
南側からの遠望。
純喫茶の「六曜館」。
蔦のからまるレトロ旅館「萬集閣」の建物の1階にあります。
レトロな店内。
美しいステンドグラス。
コーヒーを注文。
紅梅通りと交差するオリオン通り。
昭和21年、映画館の「オリオンパレス」が開館した際、用地確保に関わった商店が移転され商店街となり、「オリオン通り」と呼ばれるようになりました。*1
オリオン通りから北を見ると、ビルの屋上に地球儀のようなモニェントが置かれています。
地元の方の話によると。昔この場所には地球堂という店があって、開店のお祝いにシチズンから貰ったもので、その後店は閉店となり、そのままになっているそうです。
紅梅通りから。
甲府市の紅梅通り沿いにある田原屋本店。
創業明治36年、創業の時と味は変化していないそうです。*1
歴史を感じる重厚な木造建築です。
店内。
とんかつ定食とビールを注文。
裏春日通りに面したニュー銀座街。
カラフルな看板が並びます。
内部はロの字になっています。反対側は「たき通り」※1とつながっています。
奥まったところに、風俗店へつながる階段があります。
今回は、甲府(山梨県甲府市)の町並みを散歩します。
甲府の中心街にある浅草飲食店街。
甲府なのに浅草。
突き当りの先は、クランク状に折れ、反対側へ抜けていきます。
反対側の入口。
走水神社の近くにある「味美食堂」。
隣は、釣り船「高司丸」。
アジ(フライ、刺身)、アナゴ天ぷら(定食、丼)などが人気メニューですが、その日の入荷する魚種によっておすすめメニューが変わります。
アジフライ定食とビールを注文。
京急線馬堀海岸駅からバスで約10分。走水神社があります。
走水神社は、日本武尊と御后の弟橘媛命二柱の神を祀っています。*1
日本武尊の東征の軍は、走水の地から船出しましたが、海は荒れ狂い軍船は転覆するかの危機に、弟橘媛命が、海の神の怒りを鎮めるために、身を投じたところ、たちまちに波はしずまり、武尊一行の軍船は上総国に到着しました。*1※1※2
弟橘媛命の辞詠「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」(明治43年建)。*1
神社の境内からは、東京湾が見渡せます。
由緒
走水神社は、十二代景行天皇の皇子、日本武尊と御后の弟橘媛命二柱の神…
浦賀5丁目の路地。
木造家屋の質店。
入口。
「18才未満の方立ち入りおことわり」のホーロー看板。
浦賀は干鰯(ほしか)を始め多くの品物を全国に売りさばく町として賑わい、今でも東西の浦賀に残っている15棟前後の蔵に昔の名残を見ることができます。*1
浦賀には江戸後期に造られた漆喰塗り土蔵と幕末・明治期に造られた石蔵(房州石を使用)が混在しています。*1
同じ通りにある別の蔵。
鏝絵(こてえ)があります。
鏝絵は、左官職人が、土蔵などの壁の仕上げに鏝(こて)と漆喰(しっくい)で作り上げたレリーフです。*2
浦賀は干鰯を始め多くの品物を全国に売りさばく町として賑わい、今でも東西の浦…
左官職人が、土蔵などの壁の仕上げに鏝(こて)と漆喰(しっくい)で作り上げた…
西浦賀1丁目にある愛宕山公園は市内で一番古い公園で、太平洋横断に成功した最初の日本船である「咸臨丸出港の碑」も建てられていて、歴史を感じさせます。*1
登り口のゲートには、浦賀園と書かれたプレートが残されています。
安政七年(1860)11月浦賀から、太平洋を越えてアメリカへ向かう船がありました。咸臨丸です。品川で出航式がありましたので、浦賀は日本の最終寄港地として水や野菜などを積み込むために3日間留まりました。*2
福澤諭吉の「福翁自伝」に、「茶屋みたいない処に行って、さんざん酒を飲んで、船に帰るときに廊下の棚の上にうがい茶碗が一つあって、それを私が盗んできた。」というくだりがあります。諭吉は、その茶碗を日本まで持ち帰ったのですが、しばらくして、うがい茶碗は遊女のビデ(膣洗浄器)だったことを知り、「思えば、穢い(きたない)ようだが、航海中は調法し、唯一の宝物であったのが可笑おかしい。」と締めくくっています。*2*3
市内で一番古い公園で、ペリーの浦賀来航の際に交渉にあたった浦賀奉行所与力・…
P.49
安政七年(1860)11月浦賀から、太平洋を越えてアメリカへ向かう船があ…
咸臨丸の出帆は万延元年の正月で、品川沖を…
「大乗妙典六十六部供養」の碑(常福寺)※1、六字念仏塔(東林寺)※2、などを残している江戸屋半五郎ですが、西叶神社には「手洗い石」を残しています。
前面に隷書体で大きく「漱盤」と刻まれています。*1
前面左下に「江戸屋半五郎」。*1
寛政元(1789)年。
今回は、浦賀(神奈川県横須賀市)の町並みを散歩します。
西浦賀にある西叶神社。
みどころの一つに、遊女屋の関係者が寄進した一対の銅製の灯籠があります。
浦賀の遊女屋は、洗濯屋と呼ばれ、その歴史も古く、元禄のころには、2軒が営業していました。*1
「新地」と刻まれています。
福本太平治・江戸屋久三郎、亀屋新吉・靏屋弥(彌)七・玉泉屋佐吉等の名が刻まれており、天保4年の年号があることから、この時代が最も繁昌した頃と思われます。明治維新後は規則が変わり、往還道路においては営業ができなくなり、明治34年、荒巻(現在の浦賀5~6丁目)に移転しました。*1
昔ながらの銭湯です。
鹿島湯と書かれた煙突。
鬼瓦にも「鹿島湯」。
脱衣場の天井は、格式の高い折り上げ格天井。天井が高く、開放感があります。
飲食店などが軒をつらねる仲町2丁目。
理容室「いしい」。
前面が黒いタイルで装飾されたレトロな外観です。
サインポールもガス灯のような形状で、お洒落です。
浦和の中心街にある「さくら草通り」。歩行者専用道路です。
ビルの谷間に建つ「フランス屋」。
下着、靴下専門店です。
ワコール、ハダギ。
浦和駅西口の高砂2丁目に建つ「いこい食堂」。
昔ながらの定食屋です。
ラーメン、定食、丼ものなど、600~700円のメニューが中心です。
ラーメンとビールを注文。極細麺です。
さいたま市役所の交差点に建つ、創業明治37年の足立屋菓子舗。
昭和3年発行の大日本明細地図にも記載があります。*1
店内でかき氷を食べることもできます。
いちごのかき氷を注文。高級感があります。
「初雪氷削機」の名のある氷旗。
氷削機は、昭和に入ってから普及し、「初雪」「白雪」「ペンギン」などのメーカーがありました ※1が、このうち、「初雪」は現在も
埼京線中浦和駅近くの大戸1丁目。
ナショナルの電気店があります。
2階部分には、ナショナルのロゴ。
ナショナルのカラーテレビ「エバートロン」の看板。
「エバートロン」は、1973年頃、「美しい自然色」をキャッチコピーとしたブラウン管テレビです。*1
今回は浦和(埼玉県さいたま市浦和区)の町並みを散歩します。
埼京線中浦和駅近くの大戸1丁目。新六間道路沿いに、指定文化財の「大戸のお聖さま」があります。
御身体は、男性の生殖器を形どった石棒です。現在の御身体は江戸時代後末期のものです(案内板より)。
脇には、多数の木製の男根が安置されています。
周辺の地からは縄文時代の石棒、石剣、土偶などが出土しており、お聖さまが生まれた理由もこの土地がらにあります。(案内板より)
渋川から国道17号線を沼田に向かって、しばらく行くと、子持村に出ます。谷間を利根川が通り抜け、少し開けた所に国道と利根川に挟まれたところに小川原部落があります。この小川原部落に、昔から「べべ観音」として有名な観音堂建立されています。*1
境内入口の門柱にあたる部分の向かって右側に、自然石の巨大な女陰石が建立されています。*1
そして左側には、同じく自然石の巨大な男根石が建立されています。
また堂のすぐ南脇に建立されている高さ2mの石造観世音の立像。
今回は、赤城(群馬県渋川市)の町並みを散歩します。
敷島駅近く。「福増寺庭園」が有名な福増寺の門前に、焼きまんじゅうの「福増寺屋」があります。
こじんまりとして店舗です。
店内はテーブル席が2席程度。
名物の焼きまんじゅう(2串)を注文。大きいので食べごたえがあります。
競進社模範蚕室の南側の通り。
肥料の販売店。
飼料・肥料の琺瑯看板。
逆方向から。
児玉駅近くにある競進社模範蚕室。
競進社を創始した木村九蔵は、高山社(富岡製糸場と絹産業遺産群)を創始した高山長五郎の弟で、「一派温暖育」という蚕の飼育法を考案し、近代日本の養蚕業の進展に大きな役割を果たしました。*1
当時の木造建築がそのまま保存されています。
かいこだな。
回転蔟(かいてんまぶし)。
今回は、児玉(埼玉県本庄市)の町並みを散歩します。
本庄駅から児玉駅方面へ向かう国道463号線の途中。
古びたホテルがあります。
モーテルのような造りです。
裏側の入口。
群馬県立歴史博物館の常設展示。
原始時代から近現代に至るまでの通史展示が行われています。
戦時下において戦況が悪化すると、物資が不足しました。
恤兵金(じゅっぺいきん)献納箱。
スバル360。
昭和の茶の間の復元。
倉賀野駅の東。日光例幣使街道から住宅街を入ったところにある「すかや岩鼻分店」。
「すかや」は、高崎市を中心として店舗展開してきたそば店で、最盛期には28店舗を有していました。ただし、いわゆるチェーン店ではなく、のれん分けで独立し店舗を増やしました。「すかや」の創業は1830(天保元)年と伝承されています。*1
メニューは、そば類が中心ですが、丼ものも少しあります。
天ざるとビールを注文。
P.18
(2)すかや
高崎市を中心として店舗展開してきたそば店である「す…
倉賀野神社は、江戸時代、中山道倉賀野宿と近隣七ヶ郷の総鎮守として崇敬を集めました。*1
境内の入口には飯盛女の名を刻んだ石玉垣が配置されています。*2※1
倉賀野宿と倉賀野神社の玉垣、常夜灯など石造文化財のことを説明した案内板。
本社前の常夜灯は、文久3年(1863年)三国屋つねが寄進したものです(案内板より)。
常夜灯には、文久三年と刻まれています。
江戸時代は中山道倉賀野宿と近隣七ヶ郷の総鎮守として崇敬を集めた。旧社名は飯…
石の玉垣(たまがき)に「金沢屋内 りつ ひろ きん」などと女性の名が刻まれ…
かつて倉賀野宿の仲町と下町の境に、大名行列も通過したという石造りの「太鼓橋」が架かっていました。※1
その欄干石といわれる部材が今から十年以上も前に、民家の庭から発掘され、当座の保管場所として倉賀野神社に置かれていました。*1
この石柱が「倉賀野古商家おもてなし館」の中庭に組み立てられました。*2
寳蔵橋(ほうぞうばし、太鼓橋の正式名称)と刻まれた石柱。
手前の列には、遊女たちの名が刻まれています。*3
奥の列の刻まれているのは、高崎の商家などと思われます。
倉賀野神社境内南側の一画に、大小二十数本の古い石柱が並べ寝かせてある。江戸…
かつて倉賀野宿の往還の仲町と下町の境に石造りの「太鼓橋」が架かっていました…
p.106
太鼓橋が当時板橋で地盤が低く、夕立雨の大きいのが来ただけでも五間…
太鼓橋の近くにある「倉賀野古商家おもてなし館」。
倉賀野町の旧17号線沿いに建つ古商家・大山邸を、高崎市が所有者から寄付を受け、中山道を散策する観光客の憩いの場「倉賀野古商家おもてなし館」として復元し、平成27年7月1日に開館しました。*1
倉賀野宿に関する展示もあります。
当時の古商家がそのまま保存されています。
階段箪笥。
倉賀野町の旧17号線沿いに建つ古商家・大山邸を、高崎市が所有者から寄付を受け…
今回は倉賀野(群馬県高崎市)の町並みを散歩します。
倉賀野駅前の旧中山道(国道121号線)を倉賀野追分方面を向かう途中。道が緩やかに下っていった谷の部分は五貫堀川と交差する場所で、かつてのここには、「太鼓橋」という呼ばれた橋が架かっていました。
太鼓橋は、倉賀野宿の遊女屋の女郎が200両を出してつくられました。享保3(1718)年に大水のために橋が流出したとき、幕府の道中奉行に願い出て作ったもので、そのとき寄進した女郎の名がこの橋桁に彫られていました。*1
一方で、倉賀野の旅籠屋が、いちばん賑わう表舞台に掲げた広告塔だった、という説もあります。*2
案内板によると、そとのきの石が現在は、おもてなし館の中庭に復元されているそうです。
案内板に、「寳蔵橋」と彫られた柱が掲載されています。太鼓橋の正式名称は寳蔵橋(ほうぞうばし。寳と寶は同じ。寶は宝の旧字体)です。*2
現在の太鼓橋の下は、遊歩道となった五貫堀川跡※1※2です。
P.76
倉賀野宿の遊女屋の女郎が倉賀野宿のあった中山道に太鼓橋を作ったこと…
倉賀野神社境内南側の一画に、大小二十数本の古い石柱が並べ寝かせてある。江戸…
前橋市街の国道50号線を南東へ進むと、道路沿いに銭湯の「松の湯」があります。
張り紙によると、現在は休業中とのことです。
1軒屋の銭湯。
銭湯の脇を水量の多い川が横切っています。
千代田町4丁目にある寿司の「万両」。
一枚板の銘木の香るカウンター席。高級感があります。
同業者や取引先の名前が刻まれた額。歴史を感じさせます。
万両丼(海鮮丼)を注文。
前橋市街の繭市場通りの四つ角に建つ中華料理の「風雷」。外壁に蔦が絡まり、風格を感じます。
年季の入った看板。
カウンター席とテーブル席。
チャーシューメンを注文。
前橋の中心街にあるオリオン通り。繭市場通りと交差するあたりには、映画館のオリオン座がありました。
ダンスホール。
同じビルの1階の飲食店。
「明るく楽しいオリオン通り」。
前橋市街を流れる広瀬川沿いに、小さな緑地帯があります。長い円柱状の棒が突き出しています。
円柱状の棒の先に物体が安置されています。
このオブジェは、岡本太郎が制作した「太陽の鐘」です。
オブジェは、鐘と鐘をつくための鐘突き棒(鐘木=しゅもく)が一体となっています。
1970年大阪万国博覧会のときに、制作された「太陽の塔」と同じデザインの顔が鐘に描かれています。
「太陽の鐘」は、静岡県の「日通伊豆富士見ランド」で1966年に制作され、1999年まで設置されていましたが、その後、前橋市が寄贈を受け、中心市街地を流れる広瀬川河畔に設置されました。設置場所は約1.5m隆起した丘の上。鐘を撞く撞木(しゅもく)は約24m。周辺は樹木や地被植物に覆われています。*1*2
1966年に日本通運株式会社が静岡県内に開設したレジャー施設「日通伊豆富士見ラ…
伊豆長岡駅で下車タクシーで10分ばかり走って、日通富士パークウエイに入る。走…
前橋中央駅の西側。萱町通りから袋町通りへ向かう通りの一つ。
スナックが連なる一画。
フィリピンパブもあります。
店の入口に、フィリピンの国旗。
中央前橋駅前の中央ビル※1 のある「上電横丁」。
アサヒビールの看板が掲げられた「月之友酒店」。
3階建ての特徴のある建物です。
高く積まれたビールケース。
今回は前橋(群馬県前橋市)の町並みを散歩します。
上毛電鉄の中央前橋駅前に建つ中央ビル。
3階建ての建物の最上階の雀荘。麻雀牌が描かれています。
1階の店舗の入口。
建物の北西側。1階に「美やこ食堂」※1。
林屋食堂※1の裏側(北側)。
かつて、渋川の寄居町にあった大規模なスナック街※2※3 は、再開発により、住宅地になりましたが、クラブ「ふじ」は、その頃からあったスナックです。
クラブふじのホステス募集の張り紙。
反対側(西側)から。
渋川の寄居町の東の坂下町。商店が連なっています。
御食事処の「はやしや」。
店内は店内は庶民的な雰囲気。ラーメン450円など、とにかく安いです。
オムライスの大盛を注文。ものすごい量です。
平沢川沿いの右岸に建つスナック街。左岸のスナック※1 は無くなってしまいましたが、こちら側は健在です。
スナック「モナミ」。
入口が奥まった場所にあるスナック。
対岸から見ると、スナック街は長屋ではなく、1軒1軒が独立し建屋であることが解ります。
今回は、渋川(群馬県渋川市)の町並みを散歩します。
白ポストは、以前は駅の南側に重厚感のある箱が設置されていましたが※1、駅の北側に移動となり、箱もスリムなものに変更されています。
「有害図書回収箱」という名称は以前のままです。※1
屋根部分に傾斜がつけられた独特の形状です。
JR本庄駅から線路沿いを北西に約200mのところに、中華料理「みんみん」があります。
店のオープンは1964(昭和39)年です。*1
お薦めは酢豚。メディアで取り上げられるほどの一品です。
昭和の雰囲気を残す店内。
酢豚とビールを注文。
昔ながらの甘酸っぱい味で、ボリューム充分です。日本酒やビールのつまみにしても合うぜいたくな一品で、50年くらい前から変わらない味だそうです。*1
P.11
「中華料理みんみん」のお薦めは酢豚。見習いの頃からの料理だから50年…
本庄市中央に、密教の聖地として知られる普寛霊場があります。
本庄普賢様の玉垣には、江戸の昔から公家や大名に始まり、町火消し、日本橋、築地、神田の市場関係者、吉原遊廓の遊女に至るまで上下の別なく名前が刻まれています。*1
普寛様は、京保16年(1731)に生まれ、享和元年(1801)に本庄の地で亡くなりました。*1
新吉原の楼名が刻まれています。
稲荷横丁の十字路※1 から東へ下る緩やかな坂道。
スナックだったと思われるピンク色の建物。
1階部分は石材で装飾されています。
反対方向から。
銀座2丁目の通称「稲荷横丁」の十字路。
交差点の向こう側(写真右奥)には、「はじめや」食堂がありましたが※1、現在は駐車場になっています。
クラブ「東京」
奥行きのある木造母屋。前面部分は看板建築になっています。
三交通りを少し進んだところにある「食堂モンキー」。
ボリュームがあることで有名な店です。
カウンター席とテーブル席があります。
とんかつ定食を注文。大きな肉が無くなってしまったとのことで、小さなかつが2段重ねです。
本庄駅から三交通りへ入る入口。
「スナック天国」の看板。
蕎麦屋とスナックの併設店です。
蕎麦屋の右側がスナック天国の入口です。
かつての盛り場の三交通り※1。
三交通りの東寄りの城立寺の向かい側のあたりに、「三交通り呼稱(こしょう)記念碑」が建っています。
碑の裏面には、三交通りの由来について書かれています。
ーーーーーーーー碑の裏面ーーーーーーーー
現在、昼夜の別なく人車の往来繁(しげ)き此の通りも大正時代にありては沿道の店舗も疎にして、市街地としての形態未だ備(そな)はらざりし為め、大正十年三月有志相寄り至急沿道を整備を町理事者に陳情すると共に活発なる運動を展開。漸(ようや)くその目的を達成したるを以て沿道の繁栄と住民の福祉増進を目的として会を結成し会長に飯島弥平氏を推薦した。茲(ここ)に於いて氏は本町、七軒町、仲町、三ヶ町の交叉せる地点を以て会名を三交会とし通りを三交通りと呼び、橋名を三交橋と呼ぶ事に定めて町理事者の承認を得て以来四十有余年、年と共に殷賑を極め今日に至った 有志計り由来を略記して茲に三交通り呼称記念碑を建立した。
昭和三十九年四月二十二日
「三交会」のマークでしょうか。
今回は、本庄(埼玉県本庄市)の町並みを散歩します。
本庄駅北口交差点から北西へ伸びる通称「三交通り」。
三交通りを西へ進むと紅葉屋通りにぶつかります。
紅葉屋通りと交差する地点に、道路面にモニュメントが埋め込まれています。
三交通りの由来が説明されています。昔は「親不孝通り」の俗称もあった盛り場でしたが、地元で結成された三交会の活動もあり、現在は、健全な飲食街となりました。
御岳神社は古くから子孫繁栄、夫婦和合の神様として敬われている。創立は南北朝時代と言われ、ご神体は石棒で、神社南側の民家に安置されていて、長さ57cm太さ47cm(周長)、重さは23kgあり、普通の石棒より丸みが太く石質もよく、破損もしていない貴重な品です。その型にならってか、大小さまざまな石棒が人知れず奉納され、あまりの多さに氏子が時折片付けることもある。このあたりでは秋山の大魔羅(まら)様と呼ばれ親しまれています(案内板より)。
祠いは、木製の大きな男根2体。その奥には、無数の男根が納められています。
高さ50cmほどの石棒。案内板に書かれている「民家に安置されている石棒」に近い大きさです。
仲町交差点近くにある「きんそば」。創業100年近くの老舗です。
日焼け感のあるサンプル。
座敷とテーブル席があります。
五目そばを注文。
児玉郵便局の近く。旧配水塔が建っています。
本庄市児玉町の市街は、扇状地地形のため生活用水が潤沢ではなかったため、水道施設は永年の悲願でした。この配水塔は昭和6年に竣工しました(案内板より)。
入口から上に向かって階段室が伸びています。
入口のドア。「配水塔」と書かれています。
今回は、児玉(埼玉県本庄市)の町並みを散歩します。
児玉駅前の国道沿い。
古い木造の旅館の「田島屋旅館」があります。
今の建物ができたのは100 年位前で、2階と3階が客室で、3階には、三島由紀夫や吉田健一(総理大臣吉田茂の息子)が泊まったそうです。*1
建物の奥まで板張りの壁の続きます。奥の部分は三階建てです。
3階は特別なお客さんが泊まる部屋だったそうです。*1
P.27
【田島屋旅館】
筑紫本店の向かいには古い木造の旅館がある。田島屋…
倉賀野駅前から200m南下したところにある栄橋。橋の下は、現在は暗渠化している五貫堀川の跡です。
現在は遊歩道になっていて、栄橋の下をくぐることができます。
五貫堀川は、長野堰幹線用水路を分水した倉賀野地区の水田を潤すす用水路です。蓋をして渠化される以前、水車が設けられ、魚捕りもできました。*1
両岸は石垣で固められ、ゆるやかな弧を描いて続いています。
旧中山道の下をくぐって、さらに上流に続いています。
五貫堀
長野堰幹線用水路を倉賀野堰で分水した倉賀野地区の水田を潤すす用水…
今回は、倉賀野(群馬県高崎市)の町並みを散歩します。
旧中山道の南側。五貫堀川跡の暗渠沿いに、冠稲荷神社(別名:三光寺稲荷)があります。
冠稲荷神社は、延宝二年(1674)に勧進が行われ、江戸から官位をとって祀ったのが始まりと伝えられ、旅籠や飯盛女の信仰を集めました。*1
明治42年、倉賀野神社に合祀され、飯盛女の名が刻まれた石玉垣も移されました。*1
倉賀野神社に合祀された後、町の人の夢にお稲荷さんが現れ、「元の場所に戻りたい」と泣くということから、この場所に再建されました。
冠稲荷神社(かんむりいなりじんじゃ。別名:三光寺稲荷)
磯部温泉名物 磯部せんべいの「栄泉堂」の近く。
コンクリ製ゴミ箱が残っています。
前面の木製の扉の保存状態も良好です。
上方から。
磯部温泉の中心部。
スナックなどが5軒建ち並びます。
1972年の住宅地図によると、このあたりに「磯部温泉劇場」がありました。
建物の裏側。
磯部駅前の長屋風の建物。
「いまい食堂」は、自家製麺が自慢の店です。
ラーメン、チャーハン、そば・うどん、丼もの。
チャーシューメンを注文。
今回は磯部(群馬県安中市)の町並みを散歩します。
磯部駅前に「日本最古の温泉記号発祥の地」の碑があります。
さかさくらげのマーク。
万治4年(1661)、付近の農民の土地争いに決着を付けるため評決文「上野国碓氷郡上磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」の添付図に磯部温泉を記した温泉記号が2つ描かれていました。*1
これが日本で使われた最古のものと判明。磯部温泉は温泉記号発祥の地となりました。*1
昭和レトロな「中央ぎんざ商店街」のアーケードの入り口近く。
老舗喫茶の「コンパル」。
ビルの2階が喫茶店です。
アキスミルクティーを注文。
柳川町の旧芸妓屋街。割烹信田※1 があった場所の南側に、芸妓や街だった頃の風情の残る一画があります。
割烹前田屋。
割烹前田屋から南側の路地を入ったところ。
ここには、「ひばり」という屋号のおそらく芸妓屋がありました。*1
このあたりには、芸妓屋が密集していました。*1
柳川町のかつての旧乙種料理街は、現在は大規模なスナック街となっています。※1
高崎オリオン座(写真右側)の裏側の路地は南側から北側へ抜ける一本道の路地の両側には、バーやスナックが建ち並んでいます。
以前は、このあたりに「客引禁止看板」がありましたが、現在は無くなっています。※2
和風スナック。このまま進むと新紺屋町方面です。
電気館裏にある居酒屋「佐武」。
以前は、この建物の向かい側は、木造長屋のスナックが密集する一画でしたが※1、現在は駐車場になっています。
駐車場から見た旧「紅つる」。
2階部分の格子窓。
P.235
高崎電気館裏:「紅つる」