堀切直人浅草 江戸明治篇右文書院2005.3
浅草公園の誕生

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維新期に明治政府の中枢を占めていた大久保利通は、欧米諸国を視察して回った際、西洋の都市はどこも中心部に大きくて立派な公園が造られていることに気づいた。彼は帰国後、日本を近代化するには、西洋の都市にあるような公園が日本にも必要だと説き、新政府はそれに従って、明治6年、各府県に公園の設置を指示した。
東京府内の五カ所の公園指定地のうち、浅草寺、増上寺、寛永寺の三カ所は、いずれも徳川家の祈願寺、菩提寺であった寺院である。この徳川家とたいへん縁の深い3つのお寺を世俗的な公園用地に選ぶことによって、明治政府は、徳川幕府のいまだ名残をとどめている威光を消し去ろうとしたのである。

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明治10年代前半には、万盛橋や両国がさびれだしたのとは逆に、東京中の見世物興行が浅草の奥山に集中し、殺到した。

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東京府は、明治6年に浅草寺領を公園地に指定したが、土地柄を無視した大改造はうまくいかなかった。

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これまで浅草寺領の西側は、火除け地としてあけておかれ、「浅草田圃」と呼ばれ、農民が浅草寺から借り受けて耕作していた。東京府は、「府下公園経営のための財源地としての浅草公園拡張の施作」により、まず、この「浅草田圃」を埋め立てて、そこに新たな大池(のちの瓢箪池)を造り、その周辺に樹木を植えた。そして、この新しい造成地へ、これまで奥山一帯にひしめき合っていて防火面で危険視されていた見世物小屋や店舗を強制的に移動させた。(明治17年、公園地改造事業の予告。「奥山7月30日までに埋め立て地へ立ち退きを」)

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東京府は、また、西洋式の行政区分の方式を採り入れて、浅草公園地を6つの区に区分けした。すなわち、観音堂を第1区、仲見世を第2区、伝法院付近を第3区、大池と奥山の一部を第4区、花屋敷と残りの奥山を第5区、そして「浅草田圃」を埋め立てた土地を第6区と命名した。

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公園地公選の世話係となっていた福地桜痴は、東京府知事に文書を送り、東京府はやむなく営業制限を撤廃した。翌明治19年には、営業種目が大幅に増えたため、、六区はたくさんの店と客で賑わいだし、開園祝いが挙行された。