佐原の八坂神社の本殿の左側に、豊川稲荷を勧請した稲荷神社の石宮が祀られています。*1

その神前に手水石が奉納されています。*1

明治28年(1895)奉納の手水石。*1

この手水石は、木内支店、菊川楼、里川楼、清光楼、住吉楼、一楽亭、及川、新及川、本毛久屋といった芸者置屋、料理屋など河岸の繁栄を陰で支えていた女たちによって奉納されたものです。
かすかに、木内支店・・などの文字が判読できます。*1

佐原の八坂神社の本殿の左側に、豊川稲荷を勧請した稲荷神社の石宮が祀られています。*1
その神前に手水石が奉納されています。*1
明治28年(1895)奉納の手水石。*1
この手水石は、木内支店、菊川楼、里川楼、清光楼、住吉楼、一楽亭、及川、新及川、本毛久屋といった芸者置屋、料理屋など河岸の繁栄を陰で支えていた女たちによって奉納されたものです。
かすかに、木内支店・・などの文字が判読できます。*1
食堂「桶松」※1 のある通りの西隣の通り。
「東洋軒」は、大正15年創業の老舗洋食店です。
ビール(黒ラベル)をグラスで頂きます。
トンカツ定食を注文。
佐原の運河沿いに建つ「みやじま美容院」。
水色の窓枠とタイル張りのデザインです。
2階部分には「パーマ」の文字。
入口ドア部分には、曲線を描いた取っ手。
今回は、佐原(千葉県香取市)の町並みを散歩します。
佐原の運河沿いの町並みは、重要伝統的建物群保存地区に指定されていることもあり、観光のメインではない、商店の建物にも、古いものが残されています。
多くの看板が残る大野酒店。
明治牛乳の牛乳箱があります。保存状態は良好です。
側面には、「大野販売所」と書かれています。
牛乳の販売も手掛けていたのでしょうか。
木下駅東側の成田線の踏切近く。
正面部分に看板建築の趣きを呈している倉庫。
「山」に「七」の屋号。
木造・トタン屋根の建物です。
木下万葉公園の近く。
木下では、大衆食堂が比較的少ないので、貴重です。
ラーメン・定食などが中心です。
ラーメンとビールを注文。
木下河岸から南へ少し入った、竹袋の稲荷神社に、女人信仰の風習を物語る一基の常夜燈があります。
この常夜燈は文政9年(1826)の寄進で、竹袋村の元右エ門と新吉原の平吉、喜助が願主になっています。
江戸の新吉原の平吉、喜助が願主になっています。平吉、喜助は、木下河岸船頭小宿の召し抱え遊女の斡旋者のような立場と考えられます。*1
船頭小宿の布川屋喜助、新若松屋伊三吉や遊女の名前が刻まれています。木下河岸船頭小宿には新吉原の遊女と深川岡場所の遊女の二つの系統がありました。*1
印西市別所の地蔵寺の仁王門のそばに手水石が奉納されています。*1
瞽女が願主となって造立した石造物は現在のところ、これが唯一基で、希少価値があります。*1
享和3年(1803)、別所村の瞽女キヨと若者中が願主となり、有力者などの賛同を得て奉納されたものです。*1
瞽女(ごぜ)とは室町時代以降に現れた三味線を弾き、歌をうたって渡世する盲女のことですが、しだいに、祈祷などの宗教的な要素はなくなり、単なる遊芸人に変わっていきました。江戸時代になると、瞽女仲間を作ったりして集団化され、各地を遍歴することが定着し、昼は門付(かどづけ:日本の大道芸の一種で、門口に立ち行い金品を受け取る形式の芸能のおよびそれを行う者の総称)、夜は宿で「よせ」を行って娯楽の少ない農山村の人々を楽しませました。こうした風習も昭和の戦争期を境にぱったりと途絶えてしまいました。
東の原公園には、掩体壕をモチーフにした砂場がありますが、造谷川防災調整池の西側に本物の無蓋掩体壕の遺構が保存されています。
遺構の周囲は柵で囲まれています。
土手の部分。
後方から見た土手。
今回は、印西(千葉県印西市)の町並みを散歩します。
印西市は、北総線沿線の千葉ニュータウンの住宅開発などにより、人口が急増しています。
印西牧の原駅周辺も同様で、北側に住宅地。南側には、東の原公園があります。
この付近には、戦争中、印旛飛行場の滑走路が広がっていました。印旛飛行場があったことを示す痕跡として、掩体壕が残っています。(場所は造谷川防災調整池の西側)*1
掩体壕をモチーフにした砂場があります。*1
写真右側は無蓋掩体壕の土手の部分、砂場は掩体壕の中に格納されている飛行機を模しています。
指揮所と練習機の写真(案内板より)。