裏春日通りに面したニュー銀座街。
カラフルな看板が並びます。
内部はロの字になっています。反対側は「たき通り」※1とつながっています。
奥まったところに、風俗店へつながる階段があります。
裏春日通りに面したニュー銀座街。
カラフルな看板が並びます。
内部はロの字になっています。反対側は「たき通り」※1とつながっています。
奥まったところに、風俗店へつながる階段があります。
今回は、甲府(山梨県甲府市)の町並みを散歩します。
甲府の中心街にある浅草飲食店街。
甲府なのに浅草。
突き当りの先は、クランク状に折れ、反対側へ抜けていきます。
反対側の入口。
走水神社の近くにある「味美食堂」。
隣は、釣り船「高司丸」。
アジ(フライ、刺身)、アナゴ天ぷら(定食、丼)などが人気メニューですが、その日の入荷する魚種によっておすすめメニューが変わります。
アジフライ定食とビールを注文。
京急線馬堀海岸駅からバスで約10分。走水神社があります。
走水神社は、日本武尊と御后の弟橘媛命二柱の神を祀っています。*1
日本武尊の東征の軍は、走水の地から船出しましたが、海は荒れ狂い軍船は転覆するかの危機に、弟橘媛命が、海の神の怒りを鎮めるために、身を投じたところ、たちまちに波はしずまり、武尊一行の軍船は上総国に到着しました。*1※1※2
弟橘媛命の辞詠「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」(明治43年建)。*1
神社の境内からは、東京湾が見渡せます。
由緒
走水神社は、十二代景行天皇の皇子、日本武尊と御后の弟橘媛命二柱の神…
浦賀5丁目の路地。
木造家屋の質店。
入口。
「18才未満の方立ち入りおことわり」のホーロー看板。
浦賀は干鰯(ほしか)を始め多くの品物を全国に売りさばく町として賑わい、今でも東西の浦賀に残っている15棟前後の蔵に昔の名残を見ることができます。*1
浦賀には江戸後期に造られた漆喰塗り土蔵と幕末・明治期に造られた石蔵(房州石を使用)が混在しています。*1
同じ通りにある別の蔵。
鏝絵(こてえ)があります。
鏝絵は、左官職人が、土蔵などの壁の仕上げに鏝(こて)と漆喰(しっくい)で作り上げたレリーフです。*2
浦賀は干鰯を始め多くの品物を全国に売りさばく町として賑わい、今でも東西の浦…
左官職人が、土蔵などの壁の仕上げに鏝(こて)と漆喰(しっくい)で作り上げた…
西浦賀1丁目にある愛宕山公園は市内で一番古い公園で、太平洋横断に成功した最初の日本船である「咸臨丸出港の碑」も建てられていて、歴史を感じさせます。*1
登り口のゲートには、浦賀園と書かれたプレートが残されています。
安政七年(1860)11月浦賀から、太平洋を越えてアメリカへ向かう船がありました。咸臨丸です。品川で出航式がありましたので、浦賀は日本の最終寄港地として水や野菜などを積み込むために3日間留まりました。*2
福澤諭吉の「福翁自伝」に、「茶屋みたいない処に行って、さんざん酒を飲んで、船に帰るときに廊下の棚の上にうがい茶碗が一つあって、それを私が盗んできた。」というくだりがあります。諭吉は、その茶碗を日本まで持ち帰ったのですが、しばらくして、うがい茶碗は遊女のビデ(膣洗浄器)だったことを知り、「思えば、穢い(きたない)ようだが、航海中は調法し、唯一の宝物であったのが可笑おかしい。」と締めくくっています。*2*3
市内で一番古い公園で、ペリーの浦賀来航の際に交渉にあたった浦賀奉行所与力・…
P.49
安政七年(1860)11月浦賀から、太平洋を越えてアメリカへ向かう船があ…
咸臨丸の出帆は万延元年の正月で、品川沖を…
「大乗妙典六十六部供養」の碑(常福寺)※1、六字念仏塔(東林寺)※2、などを残している江戸屋半五郎ですが、西叶神社には「手洗い石」を残しています。
前面に隷書体で大きく「漱盤」と刻まれています。*1
前面左下に「江戸屋半五郎」。*1
寛政元(1789)年。
今回は、浦賀(神奈川県横須賀市)の町並みを散歩します。
西浦賀にある西叶神社。
みどころの一つに、遊女屋の関係者が寄進した一対の銅製の灯籠があります。
浦賀の遊女屋は、洗濯屋と呼ばれ、その歴史も古く、元禄のころには、2軒が営業していました。*1
「新地」と刻まれています。
福本太平治・江戸屋久三郎、亀屋新吉・靏屋弥(彌)七・玉泉屋佐吉等の名が刻まれており、天保4年の年号があることから、この時代が最も繁昌した頃と思われます。明治維新後は規則が変わり、往還道路においては営業ができなくなり、明治34年、荒巻(現在の浦賀5~6丁目)に移転しました。*1
昔ながらの銭湯です。
鹿島湯と書かれた煙突。
鬼瓦にも「鹿島湯」。
脱衣場の天井は、格式の高い折り上げ格天井。天井が高く、開放感があります。