旧白浜新地近くにあるハマギンザ街道。「食座・銀座」と書かれたゲートがあります。
スナック、居酒屋、商店が建ち並んでいます。
狭い路地にスナックが密集しています。
落ち着いた感じの和風スナック。
旧白浜新地近くにあるハマギンザ街道。「食座・銀座」と書かれたゲートがあります。
スナック、居酒屋、商店が建ち並んでいます。
狭い路地にスナックが密集しています。
落ち着いた感じの和風スナック。
白浜新地には、当時の料亭か遊廓だったと思われる建物が2軒残っています。
見事な木造建築です。
現在はアパートとして使われているようです。
横から見ると、内部に中庭を有する構造であることが解ります。
白浜新地は、大正13年(1924年)に検番ができたのが、始まりで、翌大正14年(1925年)には、最初の置屋兼料亭ができました。*1
電柱に「新地」と書かれたプレートがありますので、この付近が白浜新地だったようです。
元料亭と想われる建物。
現役も営業中の料理店もあります。
【参考文献】
*1 白浜町誌編さん委員会:白浜町誌.本編下巻1(白浜町,1984)P.340-P.341
Tags:白浜/和歌山県
今回は、白浜(和歌山県西牟婁郡白浜町)の町並みと風俗を散歩します。
白浜温泉は、和歌山県の南西に位置する近畿で最も有名な温泉で、海水浴場もあります。
「魚政」(写真手前)は、昭和初期から続く老舗で、当時、浜通りには、「中村屋」「魚政」「大野屋」「温泉堂」「アシベ料亭」と商店が並んでいました。*1
現在は、温泉旅館とスナックが混在する町並みになっています。
白浜館は、白浜の開発が行われた大正時代からの歴史を誇り、美しい白良浜と大量の温泉にめぐまれ温泉地でした。しかし、何もない温泉地のただ1軒の旅館ではなんのメリットもないことから、田辺新地の置屋に依頼し、客が入ったとき、巡航船で芸妓を送ってもらうようになりました。しかし、これでは長続きせず、大正13年に検番を建て、1週間交代で数名の芸妓をここに宿泊させることにしました。これが白浜検番のはじまりで、昭和に入り、白浜新地が開発されることになりました。*2
【参考文献】
*1 白浜町誌編纂委員会:町のあゆみ 白浜町誌紀要. no.4 (白浜町誌編纂委員会,1981)口絵A
*2 白浜町誌編さん委員会:白浜町誌.本編下巻1(白浜町,1984)P.340
紀伊田辺の市街を流れる会津川の中州の東側に小さな水路流れています。
母屋が密集しています。
水路に張り出すように建ち並んでいます。
表側は、ごく普通の住宅街です。
田辺新地には、現在も料亭として営業中の情緒ある建物が残っています。
「ぼんぼり」をイメージしたデザイン。
古い建物が並ぶあたり。
洋風の建物もあります。
田辺検番の芸妓・舞妓は、明治2年頃には約30名、明治末~昭和初めには120~140名で、舞踏、三味線など、田辺検番は紀州で最も優秀とされました。*1
【参考文献】
*1 田辺商工会議所:熊野検定(田辺商工会議所,2009)P.81
紀伊田辺は、古くから栄えた町だけに、昔のままの建物が多く残ります。駅周辺は地方都市らしく賑わう町ですが、奥へ踏み込むと情緒ある町並みがひろがります。
田辺新地は、大正6年、周囲に散在していた置屋や移転集合することによって出来上がりました。*1
田辺新地のゲートのところに古い建物があります。
1階はタバコ屋さんになっています。
タイル張りの壁が何ともレトロモダンです。
【参考文献】
*1 田辺商工会議所:熊野検定(田辺商工会議所,2009)P.81
今回は、紀伊田辺(和歌山県田辺市)の町並みと風俗を散歩します。
紀伊田辺は、JR和歌山駅から特急電車で約1時間の位置にある南紀地方の主要都市です。駅前に「味小路」と呼ばれる飲食街があります。
細い路地が迷路のように続きます。
小路にかかる看板。
飲食店が密集しています。
大久保駅前の病院。駅からもカラフルな看板が見えます。
細い路地にひっそりと病院があります。
看板は、大きくて目立ちます。
どこにあるかわからないほど小さく目立たない入口です。
大久保駅近くの住宅地街に、一軒の旅館があります。
風情のあるネオン管です。「旅荘」という呼び方も味わいがあります。
落ち着いた雰囲気の外観。
和風の玄関の装飾。
90年代、大久保は急増する外国人アパート需要と多発するトラブルで、外国人を受け入れるアパートは限定されていましたが、現在は外国人を歓迎する町に生まれ変わっています。町のあちこちに、「外国人OK」の看板があります。*1
不動産会社にとって、外国人はお客様です。*1
教科書会社が入っているビルの2階にある外国人OKの歯科医院。
外国人OKのワンルームマンション。
【参考文献】
*1 稲葉佳子:オオクボ都市の力(学芸出版社,2008)P.55,P.69
大久保の町にラブホテル(当時の「連れ込み宿」)が進出したのは、1960年頃からでした。背景としては、1957年に売春防止法が施行されたことがあげられます。新宿二丁目で営業していた特殊飲食街の経営者がホテル業へ転業し、歌舞伎町から職安通りを超えて大久保にまで流れ込んできました。*1
「同伴旅館(ラブホテル)をどんなとこに建てたらよくはやるか、昔からジンクスがあって、墓地か病院のそばか、さもなくば質屋の真向かいだったら繁盛間違いなし。」と言われていて、大久保にに進出したホテル経営者も真向かいが墓地の地所を選びました。*2
大久保のラブホテル街には、長光寺と金龍禅寺の2つの寺があり、いずれも細長い墓地を有しています。この墓地の近隣にラブホテルが建ち並んでいます。
写真中央部に見える森が金龍禅寺の墓地です。墓地は南側に細長く伸びていてその東側(写真左側)に、1990年頃、ラブホテルが建ち並びました。
現在は「大久保の竹下通り」と呼ばれる韓流ショップとラブホテルが混在する町並みとなっています。
【参考文献】
*1 稲葉佳子:オオクボ都市の力(学芸出版社,2008)P.163-P.164
*2 朝倉喬司:ヤクザ・風俗・都市(現代書館,2003)P.62
大久保には100円のコインロッカーがたくさんあります。ざっと見て回っただけでも10ヶ所ぐらいあります。
大規模なコインロッカー群。すべて100円コインロッカーです。
薬局とコインロッカー。
自販機とコインロッカー
彦左小路裏の通り。
レトロな旅館が2軒建ち並んでいます。
玄関のタイルの円柱。
入口には、「いらっしゃいませ」の看板。
今回は、大久保(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
彦左小路は歌舞伎町の北、職安通りを渡った線路沿いにあった二棟の長屋からなる飲み屋街でした。職安通りには、彦左小路の入口を示す看板の支柱が残されています。(写真左)*1
金網で囲われている彦左小路の跡地。場末酒場の面影はありません。
「おとめ荘」の看板が今も残されています。
このあたり一帯は、道路の拡幅工事が予定されています。
【参考文献】
*1 藤木TDC、イシワタフミアキ:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.74-P.75
JR東中野駅近くにある正見寺。
正見寺の墓地に、笠森お仙の墓があります。
笠森お仙は、江戸時代、谷中の笠森稲荷の門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘で、絶世の美人でした。*1
お仙は、幕府の御休息御庭者支配の倉地正之助の妻となったので、現在の倉地家の墓地にお仙の墓があります。
墓碑に倉地家のことが書かれています。
【参考文献】
*1 佐藤要人:江戸水茶屋風俗考(三樹書房,1993)P.160-P.172
新井薬師近く(上高田二丁目)の住宅街。
銭湯の花園湯があります。
コインランドリーとして営業中です。廃業してしまったのでしょうか。
裏側へ回ってみると、解体された煙突が見えました。
新井薬師の門前には、江戸時代から参拝客相手の料理屋が軒を連ねていましたが、関東大震災以前から料理屋と芸妓屋が盛んになり、大正14年に新井三業組合が創立されました。現在の柳通りの商店街の東側(写真の左側)が料亭街で、昭和初期に全盛期を迎えました。*1
現在、花街らしい雰囲気はほとんど残っていません。
芸妓置屋街は、柳通りの西側にありました。三業組合事務所(見番)は、現在の防災広場(写真奥)のあたりにありました。*1
住宅地図に記載されている旅館「おくみ」(現在はありません)は、料亭の名残かもしれません。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.187-P.188
中野駅の北側。早稲田通り手前に「四十五番街」という飲食街があります。この飲食街の成立は昭和20年代末で、通りに屋台やバラック店舗が並んでいた時代でした。*1
現在、小路の大半は解体され、再開発を待つ状態です。
写真右奥は、中野ブロードウェイマンションです。
朽ちかけた店舗の建物が残っています。
北側の通り。
【参考文献】
*1 藤木TDC、イシワタフミアキ:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.48-P.49
中野駅北口の繁華街「昭和新道」
「アダルトコンビニ」の看板があります。
店の入口のドアは、ランジェリーなどの写真で覆われています。
ココロに染みる名言集。
今回は、中野(東京都中野区)の町並みと風俗を散歩します。
中野新仲見世商店街に、客引き禁止看板が集中して設置されている一画があります。
通りのあちこちに看板が設置されています。看板の下部には、「新仲見世商店会」と書かれています。
狸小路と呼ばれている飲み屋街。看板の下部には、「狸小路商店会」と書かれています。
こちらは、別のデザインの看板。消火器ボックスに隠れて見えづらくなっています。
東武東上線朝霞台駅(JR北朝霞駅)近くの三原2丁目の住宅街に、銭湯の「志木浴場」があります。
銭湯では珍しい男女別々の入口。
女湯入口。
脱衣場にはテレビゲームがあって、ゆっくりくつろげます。
かつての南栄通りには、バーやキャバレーが約70軒ありました。通りの中央部に、1949年に開店した魚屋「魚太」は、南栄通りあったすべてのバー、キャバレーに氷を卸していました。*1
現在、その魚屋「魚太」はありませんが、その名残と思われる商店があります。
レトロな雰囲気の店構え。
ゲームと氷の店です。
【参考文献】
*1 中條克俊:君たちに伝えたい朝霞、そこは基地の街だった。(梨の木舎,2006)P.92-P.94
朝鮮戦争の激戦のさなか、朝霞の南栄通りは最も繁栄する時代を迎えました。基地の周辺には米兵相手の大きなキャバレーやクラブがそこかしこにできました。「キャバレー・サンフランシスコ」の跡地には、現在大きなマンションが建っています。*1
現在の朝霞第四中学校の正門前に、大きなマンションが建っていますが、「アメリカンリージョンクラブ」と呼ばれたキャバレーがありました。アメリカ独立記念日の7月4日には打ち上げ花火が上がりました。*2
現在、中華屋とコンビニになっているあたりには、「バー・タイガー」、「バー・ニイト」がありました。*1
「キャバレー・フラミンゴ」があった場所は、駐車場になっています。「キャバレー・フラミンゴ」は南栄第1号のキャバレー(ダンスホール)でした。*1
米軍基地があったおかげで、朝霞には、フランク永井、江利チエミ、雪村いずみ、ダークダックスという当時の新進気鋭の歌手が来ました。*1
【参考文献】
*1 中條克俊:君たちに伝えたい朝霞、そこは基地の街だった。(梨の木舎,2006)P.74-P.75,P.92-P.93,P.104
*2 郷土出版社:目で見る朝霞・志木・新座・和光の100年(郷土出版社,2007)P.91
今回は、朝霞(埼玉県朝霞市)の町並みと風俗を散歩します。
第二次大戦の敗戦(1945年)により、全国各地に米軍が進駐しましたが、朝霞にも米軍が進駐し、建設された米軍基地は「キャンプ・ドレイク」と呼ばれました。
その後、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、全国各地の米軍部隊が入れ替わり立ち替わり朝霞に駐留するようになり、その結果、全国から女性売春者が、米兵の後を追うようにして朝霞に集まってきました。朝霞駅南側の南栄通りは、米兵、夜の女、ポン引き、やくざ、第三国人が闊歩し、売買春は日常茶飯事の世界となっていました。当時の埼玉新聞は、朝霞を「売春の街」(1952.8.7)と報じています。*1
現在の南栄通りの交差点の角に、当時の名残の建物(「バー・コーナー」の跡)が残されています。*1
現在は、看板の文字は読み取れなくなっています。
入口付近。
【参考文献】
*1 中條克俊:君たちに伝えたい朝霞、そこは基地の街だった。(梨の木舎,2006)P.71-P.83