石和温泉(石和温泉銭湯)銭湯と食堂が合体。「ラーメン」の暖簾。

石和温泉にある「石和温泉」という名の銭湯。銭湯と食堂が合体した店舗です。

入口には「ラーメン」の暖簾。

「ラーメン」の暖簾の向こう側は、店の厨房になっています。
食堂というよりは、居酒屋に近いメニューです。

風呂上りに、ビールを頂きます。

参考文献

参考記事

石和温泉(かどや食堂)店内に大きな柱時計。ラーメンコショー。

石和温泉の中心街にある「かどや食堂」。ラーメンを中心に、丼、カレー、定食など。

店内には、大きな柱時計。

ラーメンとビールを注文。

ラーメンコショー。

参考文献

参考記事

石和温泉(ロマンの館)さくら温泉通り。石和秘宝館の文字。

「さくら温泉通り」を東へ進んだところ。

1階に飲食店やスナック店が入る建物。

壁面に、「石和秘宝館」「石和ロマンの館」の文字。

かつての秘宝館だったのでしょうか。

参考文献

参考記事

石和温泉(ニュー八田街)コの字型の飲食街の建物。湯けむり通り。

居酒屋やスナックなどが建ち並ぶ「湯けむり通り」。

「ニュー八田街」の看板。

コの字型の飲食街の建物。

八田会館。

参考文献

参考記事

石和温泉(温泉発祥の地の碑)石和源泉足湯ひろば。

今回は、石和温泉(山梨県笛吹市)の町並みを散歩します。
さくら温泉通り沿いにある「石和源泉足湯ひろば」。

足湯の奥に、石碑が建っています。

「高熱温泉発祥之地」の碑

石和の温泉は、大蔵経寺山(現在の石和温泉駅の北側)のふもとに明治時代から湧いていましたが、昭和36年、山梨交通保養所の敷地内で井戸を採掘していたところ、摂氏60度以上もある温泉が噴き出しました(案内板より)。

参考文献

参考記事

湯村(竹中英太郎記念館)挿絵原画などの展示。「銀座事件」復刻。

湯村温泉の温泉街から坂を登ったところにある「竹中英太郎記念館」。

昭和初期、探偵・怪奇小説で有名な江戸川乱歩、横溝正史、夢野久作などの挿絵画家として一世を風靡した竹中英太郎の挿絵原画などが展示されています。*1

大正六年に創刊された雑誌「主婦之友」に連載された「銀座事件」は、竹中英太郎の挿絵に導かれて物語の深みに入っていきます。

「銀座事件」の復刻版を購入。

参考文献

*1
竹中英太郎記念館湯村の杜 竹中英太郎記念館竹中英太郎記念館 リンク

甲斐の山並みを一望できる湯村山の高台に「湯村の杜 竹中英太郎記念館」があり…

*2
三上於菟吉銀座事件MM PROJECT2024
三上於菟吉という人とその魅力解説

P.344
三上於菟吉は、大正から昭和の初めにかけて、時代を駆け抜けた大衆小…

参考記事

湯村(湯村食堂)温泉街の中心部。理髪店との二毛作店。

湯村温泉街の中心部。温泉旅館やスナックなどが建ち並ぶ一角に、らーめん店の湯村食堂があります。建物の右側半分は、ヘーアサロンです。

ラーメン中心のメニュー。

チャーシューワンタンメンとビールを注文。

建物の側面。

参考文献

参考記事

湯村(鷲の湯跡)湯村八蹟。旧技芸組合練習場。

今回は、湯村(山梨県甲府市)の町並みを散歩します。
バス停の「湯村温泉通り」の近く。

ここには、「1羽の鷲が日に何度も草むらに降り立つ場所に湯気が立っているのを見つけて、掘り当てた温泉。」との伝説を持つ鷲の湯がありました。長年公衆浴場でした。*1

公衆浴場があった場所には、旧技芸組合練習場の建物が建っていました。*2

現在、この付近は再開発中です。

参考文献

*1
土橋里木甲州の伝説日本の伝説 10角川書店1976

P.43
1羽の鷲が日に何度も草むらに降り立つ場所に湯気が立っているのを見つ…

*2
甲府市広報こうふ甲府市
2012年8月号2012.08
とびだせ!市民レポーター!
湯志麻稲荷大権現

かつての湯村温泉には芸者衆が多数いて、「湯村芸妓組合」がありました。芸子さ…

参考記事

上野原(関山遊廓跡地)鷲神社附近一帯。跡地に建つ旅館の建物。

かつて、中央高速道の手前に質素な鳥居と一寸した境内もつ鷲神社(おおとりじんじゃ)がありました。かつて、この附近一帯に、遊廓が設置され、新地と言われました。*1
鷲神社はこのあたりにありました。*2

明治の中ごろ、上野原宿は一六市が開かれ、絹問屋や仲買い商人のだんな衆で賑わいましたが、夜の遊興は隣の吉野遊廓(神奈川県藤野町)に流れてしまい、上野原町の繁栄の妨げとなっていました。そのため、遊廓が建設されることになりましたが、「風紀上よくないから宿から遠ざけろ」といった声があがり、明治33年12月、関山遊廓が建設されました。翌年8月、遊廓から歩いて5分の場所に中央線上野原駅が開通し、交通の便を得た関山遊廓はその後全盛を極めました。*3


昭和21年(1946)年の公証廃止令によって遊廓は表面上消滅しましたが、その後は特殊飲食店(赤線地帯)として存続。終戦直後はもっぱら米兵の慰安所として利用され、昭和27年頃から米兵に代わり町内や周辺の人がちで少し賑わいを増しましたが、昭和33年3月に「買春防止法」の施行によって全面的に解消されました。

遊廓跡地に建つ旅館の建物。

参考文献

*1
守屋千尋上野原の歴史研究 第三篇路傍の文化守屋千尋1986.09

P.94
図16 路傍文化の探訪 新田地区
・No.8:鷲神社

P.65
大鷲神社の記載。:

*3
上野原町誌編纂委員会上野原町誌 下上野原町誌刊行委員会1975.7
娯楽施設
遊廓

関山遊廓

明治の中ごろ…

参考記事

上野原(小林テレビ店)日立チーェンストール。日立ビデオ。

甲州街道から北へ向かう、通称、赤井戸横丁沿いに、日立の名を冠した店があります。

日立チーェンストール(日立のお店)。

店の前には、日立の乾電池の自販機。

日立ビデオ「マスタックス」。VHSビデオ隆盛の頃です。

参考文献

参考記事

上野原(ラーメン専門)明日も来てね。曜日によって変わるスペース。

甲州街道から上野駅方面へ向かう通りにある3階建ての商業ビル。

明日も来てね。

1階、2階は飲食店。3階は舞踊稽古場と曜日によって変わるスペース。

ラーメン専門店。

参考文献

参考記事

上野原(天野順進堂)マンダムの看板。中身は蛍光灯。

上野原の市街地は、駅から坂を上った台地にあります。かつての現在の商店街は、かつて甲州街道の宿場町だった場所です。
古い商店の建物が多く残っています。

街道沿いにある薬局の「天野順進堂」。

マンダムの看板※1※2が残っています。

看板の中に蛍光灯が仕込まれて、点灯させることができたようです。

上野原(一福食堂)駅前の食堂。牡蠣バターラーメン。

上野原駅前。

大看板を有する大衆食堂の「一福」

店内は最近改装されたらしく、綺麗です。

牡蠣バターラーメンを注文。

参考文献

参考記事

上野原(割烹旅館)眼前に石垣が迫ります。駅の北側。」

今回は、上野原(山梨県上野原市)の町並みを散歩します。
上野原駅北口に降り立つと、眼前に石垣が迫ります。

上野原駅は、台地の市街地より離れた場所につくられたため、駅の北側は急傾斜地になっています。

割烹旅禍が連なっています。

駅舎と相模湖を見渡せます。

参考文献

参考記事

甲府(草津温泉)貢川をわたる荒川橋の近く。入口は緑色。

甲府市駅を流れる貢川(くがわ)をわたる荒川橋の近くに建つ銭湯の草津温泉。

入口は緑色です。

入口に、椅子があって、のんびりできます。

国道52号線から脇道を入ったところにあります。

参考文献

参考記事

甲府(都温泉)繁華街の南側の中央5丁目。創業は明治時代。

甲府市の繁華街の南側の中央5丁目。

銭湯の都温泉があります。かつてはここが入口だったのかもしれません。

創業は明治時代だそうです。無駄な装飾を省いたシンプルな建物です。

南側からの遠望。


参考文献

参考記事

甲府(六曜館)蔦のからまるレトロ旅館「萬集閣」の建物の1階。

純喫茶の「六曜館」。
蔦のからまるレトロ旅館「萬集閣」の建物の1階にあります。

レトロな店内。

美しいステンドグラス。

コーヒーを注文。

甲府(地球のオブジェ)オリオン通り。開店のお祝いにシチズンから貰ったもの。

紅梅通りと交差するオリオン通り。
昭和21年、映画館の「オリオンパレス」が開館した際、用地確保に関わった商店が移転され商店街となり、「オリオン通り」と呼ばれるようになりました。*1

オリオン通りから北を見ると、ビルの屋上に地球儀のようなモニェントが置かれています。

地元の方の話によると。昔この場所には地球堂という店があって、開店のお祝いにシチズンから貰ったもので、その後店は閉店となり、そのままになっているそうです。

紅梅通りから。

参考文献

*1
甲府城南商店街振興組合甲府 丸の内 オリオン・スクエア商店街甲府城南商店街振興組合 リンク
紅梅町・オリオン通りの歴史 リンク

なぜ紅梅町と言うのか?

<…

参考記事

甲府(田原屋)紅梅通り沿い。歴史を感じる重厚な木造建築。

甲府市の紅梅通り沿いにある田原屋本店。
創業明治36年、創業の時と味は変化していないそうです。*1

歴史を感じる重厚な木造建築です。

店内。

とんかつ定食とビールを注文。

参考文献

*1
甲府城南商店街振興組合甲府 丸の内 オリオン・スクエア商店街甲府城南商店街振興組合 リンク
田原屋本店 リンク

創業明治36年、すき焼き・しゃぶしゃぶ・とんかつの店。
基本的に創業の時と…

参考記事

甲府(ニュー銀座街)裏春日通り。反対側は「たき通り」。

裏春日通りに面したニュー銀座街。

カラフルな看板が並びます。

内部はロの字になっています。反対側は「たき通り」※1とつながっています。

奥まったところに、風俗店へつながる階段があります。

甲府(浅草飲食店街)甲府の中心街。甲府なのに浅草。

今回は、甲府(山梨県甲府市)の町並みを散歩します。
甲府の中心街にある浅草飲食店街。

甲府なのに浅草。

突き当りの先は、クランク状に折れ、反対側へ抜けていきます。

反対側の入口。

参考文献

参考記事

浦賀(味美食堂)おすすめメニュー。アジ、アナゴ。

走水神社の近くにある「味美食堂」。

隣は、釣り船「高司丸」。

アジ(フライ、刺身)、アナゴ天ぷら(定食、丼)などが人気メニューですが、その日の入荷する魚種によっておすすめメニューが変わります。

アジフライ定食とビールを注文。

参考文献

参考記事

浦賀(弟橘媛命の記念碑)弟橘媛命の辞詠。明治43年建立。

京急線馬堀海岸駅からバスで約10分。走水神社があります。
走水神社は、日本武尊と御后の弟橘媛命二柱の神を祀っています。*1

日本武尊の東征の軍は、走水の地から船出しましたが、海は荒れ狂い軍船は転覆するかの危機に、弟橘媛命が、海の神の怒りを鎮めるために、身を投じたところ、たちまちに波はしずまり、武尊一行の軍船は上総国に到着しました。*1※1※2

弟橘媛命の辞詠「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」(明治43年建)。*1

神社の境内からは、東京湾が見渡せます。

参考文献

*1
神奈川県神社庁 リンク
走水神社

由緒
走水神社は、十二代景行天皇の皇子、日本武尊と御后の弟橘媛命二柱の神…

参考記事

※1木更津(橘神社)周辺一帯は「恋の森」と呼ばれています。※2木更津(吾妻神社)きみさらず伝説。石塔に楼名。

浦賀(質店)「18才未満の方立ち入りおことわり」のホーロー看板。

浦賀5丁目の路地。

木造家屋の質店。

入口。

「18才未満の方立ち入りおことわり」のホーロー看板。

参考文献

参考記事

浦賀(蔵)東西の浦賀に残っている15棟前後の蔵に昔の名残。

浦賀は干鰯(ほしか)を始め多くの品物を全国に売りさばく町として賑わい、今でも東西の浦賀に残っている15棟前後の蔵に昔の名残を見ることができます。*1

浦賀には江戸後期に造られた漆喰塗り土蔵と幕末・明治期に造られた石蔵(房州石を使用)が混在しています。*1

同じ通りにある別の蔵。

鏝絵(こてえ)があります。
鏝絵は、左官職人が、土蔵などの壁の仕上げに鏝(こて)と漆喰(しっくい)で作り上げたレリーフです。*2

参考文献

*1
横須賀市横須賀市 ホームページ横須賀市 リンク
浦賀の蔵 リンク

浦賀は干鰯を始め多くの品物を全国に売りさばく町として賑わい、今でも東西の浦…

*2
横須賀市横須賀市 ホームページ横須賀市 リンク
浦賀の鏝絵(こてえ) リンク

左官職人が、土蔵などの壁の仕上げに鏝(こて)と漆喰(しっくい)で作り上げた…

参考記事

浦賀(愛宕山公園)咸臨丸出港の碑。うがい茶碗を持ち帰った福澤諭吉。

西浦賀1丁目にある愛宕山公園は市内で一番古い公園で、太平洋横断に成功した最初の日本船である「咸臨丸出港の碑」も建てられていて、歴史を感じさせます。*1

登り口のゲートには、浦賀園と書かれたプレートが残されています。

安政七年(1860)11月浦賀から、太平洋を越えてアメリカへ向かう船がありました。咸臨丸です。品川で出航式がありましたので、浦賀は日本の最終寄港地として水や野菜などを積み込むために3日間留まりました。*2


福澤諭吉の「福翁自伝」に、「茶屋みたいない処に行って、さんざん酒を飲んで、船に帰るときに廊下の棚の上にうがい茶碗が一つあって、それを私が盗んできた。」というくだりがあります。諭吉は、その茶碗を日本まで持ち帰ったのですが、しばらくして、うがい茶碗は遊女のビデ(膣洗浄器)だったことを知り、「思えば、穢い(きたない)ようだが、航海中は調法し、唯一の宝物であったのが可笑おかしい。」と締めくくっています。*2*3

参考文献

*1
横須賀市横須賀市 ホームページ横須賀市 リンク
愛宕山公園 リンク

市内で一番古い公園で、ペリーの浦賀来航の際に交渉にあたった浦賀奉行所与力・…

*2
港町から 第2号 (特集:浦賀・横須賀)港町のタウン・マガジン街から舎2009.4
福沢諭吉先生も上がった浦賀遊郭

P.49
安政七年(1860)11月浦賀から、太平洋を越えてアメリカへ向かう船があ…

*3
青空文庫青空文庫青空文庫 リンク
福澤諭吉福翁自伝 リンク
浦賀に上陸して酒を飲む

咸臨丸かんりんまるの出帆は万延元年の正月で、品川沖を…

参考記事

浦賀(叶神社の手洗い石)前面左下に江戸屋半五郎。寛政元年。

「大乗妙典六十六部供養」の碑(常福寺)※1、六字念仏塔(東林寺)※2、などを残している江戸屋半五郎ですが、西叶神社には「手洗い石」を残しています。

前面に隷書体で大きく「漱盤」と刻まれています。*1

前面左下に「江戸屋半五郎」。*1

寛政元(1789)年。

参考文献

*1
横須賀市浦賀コミュニティセンター分館浦賀文化 第19号横須賀市浦賀コミュニティセンター分館2009.7.1  リンク
法界万霊塔(六字念仏塔)

江戸屋半五郎関連の石造物

参考記事

※1浦賀(六字念仏塔)東林寺の三浦稲荷社。※2浦賀(「大乗妙典六十六部供養」の碑)江戸屋半五郎の墓。常福寺。

浦賀(西叶神社の燈籠)遊女屋の関係者が寄進した一対の銅製の灯籠。

今回は、浦賀(神奈川県横須賀市)の町並みを散歩します。
西浦賀にある西叶神社。

みどころの一つに、遊女屋の関係者が寄進した一対の銅製の灯籠があります。
浦賀の遊女屋は、洗濯屋と呼ばれ、その歴史も古く、元禄のころには、2軒が営業していました。*1

「新地」と刻まれています。

福本太平治・江戸屋久三郎、亀屋新吉・靏屋弥(彌)七・玉泉屋佐吉等の名が刻まれており、天保4年の年号があることから、この時代が最も繁昌した頃と思われます。明治維新後は規則が変わり、往還道路においては営業ができなくなり、明治34年、荒巻(現在の浦賀5~6丁目)に移転しました。*1

参考文献

*1
浦賀古文書研究会浦賀中興雑記浦賀古文書研究会1981.11

P.173
浦賀の遊女屋は、洗濯屋と呼ばれ、この港に出入りする船舶の船乗り仲…

参考記事

浦和(鹿島湯)格式の高い折り上げ格天井。昔ながらの銭湯です。

昔ながらの銭湯です。

鹿島湯と書かれた煙突。

鬼瓦にも「鹿島湯」。

脱衣場の天井は、格式の高い折り上げ格天井。天井が高く、開放感があります。

参考文献

参考記事

浦和(理容いしい)ガス灯のような形状のサインポール。

飲食店などが軒をつらねる仲町2丁目。

理容室「いしい」。

前面が黒いタイルで装飾されたレトロな外観です。

サインポールもガス灯のような形状で、お洒落です。

参考文献

参考記事

浦和(フランス屋)歩行者専用道路。ワコール、ハダギ。

浦和の中心街にある「さくら草通り」。歩行者専用道路です。

ビルの谷間に建つ「フランス屋」。

下着、靴下専門店です。

ワコール、ハダギ。

参考文献

参考記事

浦和(いこい食堂)昔ながらの定食屋。極細麺。

浦和駅西口の高砂2丁目に建つ「いこい食堂」。

昔ながらの定食屋です。

ラーメン、定食、丼ものなど、600~700円のメニューが中心です。

ラーメンとビールを注文。極細麺です。

参考文献

参考記事

浦和(足立屋)創業明治37年。「初雪氷削機」の名のある氷旗。

さいたま市役所の交差点に建つ、創業明治37年の足立屋菓子舗。
昭和3年発行の大日本明細地図にも記載があります。*1

店内でかき氷を食べることもできます。

いちごのかき氷を注文。高級感があります。

「初雪氷削機」の名のある氷旗。
氷削機は、昭和に入ってから普及し、「初雪」「白雪」「ペンギン」などのメーカーがありました ※1が、このうち、「初雪」は現在も

参考文献

*1
東京交通社大日本職業別明細図東京交通社1937
浦和町1928

「足立屋」の記載。

参考記事

※1久留里(まちなみ)かき氷店。レトロばカキ氷器。

浦和(電気店)「エバートロン」の看板。ナショナルのロゴ。

埼京線中浦和駅近くの大戸1丁目。

ナショナルの電気店があります。

2階部分には、ナショナルのロゴ。

ナショナルのカラーテレビ「エバートロン」の看板。
「エバートロン」は、1973年頃、「美しい自然色」をキャッチコピーとしたブラウン管テレビです。*1

参考文献

*1
松下電器くらしの泉(98)松下電器1973.8
美しい自然色のパナカラー エバートロン

参考記事

浦和(大戸のお聖さま)現在の御身体は江戸時代後末期のもの。

今回は浦和(埼玉県さいたま市浦和区)の町並みを散歩します。
埼京線中浦和駅近くの大戸1丁目。新六間道路沿いに、指定文化財の「大戸のお聖さま」があります。

御身体は、男性の生殖器を形どった石棒です。現在の御身体は江戸時代後末期のものです(案内板より)。

脇には、多数の木製の男根が安置されています。

周辺の地からは縄文時代の石棒、石剣、土偶などが出土しており、お聖さまが生まれた理由もこの土地がらにあります。(案内板より)

参考文献

参考記事

赤城(ベベ観音)境内入口右側に、自然石の巨大な女陰石。

渋川から国道17号線を沼田に向かって、しばらく行くと、子持村に出ます。谷間を利根川が通り抜け、少し開けた所に国道と利根川に挟まれたところに小川原部落があります。この小川原部落に、昔から「べべ観音」として有名な観音堂建立されています。*1

境内入口の門柱にあたる部分の向かって右側に、自然石の巨大な女陰石が建立されています。*1

そして左側には、同じく自然石の巨大な男根石が建立されています。

また堂のすぐ南脇に建立されている高さ2mの石造観世音の立像。

参考文献

*1
小板橋靖正榛名山麓の性神風土記あさを社1977.8
小川原のべべ観音

P.187
渋川から国道17号線を沼田に向かって、しばらく行くと、子持村に出る…

参考記事

赤城(福増寺屋)福増寺の門前。名物の焼きまんじゅう。

今回は、赤城(群馬県渋川市)の町並みを散歩します。
敷島駅近く。「福増寺庭園」が有名な福増寺の門前に、焼きまんじゅうの「福増寺屋」があります。

こじんまりとして店舗です。

店内はテーブル席が2席程度。

名物の焼きまんじゅう(2串)を注文。大きいので食べごたえがあります。

参考文献

参考記事

児玉(琺瑯看板)競進社模範蚕室の南側の通り。肥料の販売店。

競進社模範蚕室の南側の通り。

肥料の販売店。

飼料・肥料の琺瑯看板。

逆方向から。

参考文献

参考記事

児玉(競進社模範蚕室)当時の木造建築がそのまま保存されています。

児玉駅近くにある競進社模範蚕室。
競進社を創始した木村九蔵は、高山社(富岡製糸場と絹産業遺産群)を創始した高山長五郎の弟で、「一派温暖育」という蚕の飼育法を考案し、近代日本の養蚕業の進展に大きな役割を果たしました。*1

当時の木造建築がそのまま保存されています。

かいこだな。

回転蔟(かいてんまぶし)。

参考文献

*1
本庄市本庄市P.176-P.187本庄市 リンク
競進社模範蚕室 リンク

本庄市には、世界文化遺産へ登録された「富岡製糸場と絹産業遺産群」に匹敵する…

参考記事

児玉(ラブホテル)本庄駅から児玉駅方面へ向かう国道463号線の途中。

今回は、児玉(埼玉県本庄市)の町並みを散歩します。
本庄駅から児玉駅方面へ向かう国道463号線の途中。

古びたホテルがあります。

モーテルのような造りです。

裏側の入口。

参考文献

参考記事

倉賀野(歴史博物館)原始時代から近現代に至るまでの通史展示。

群馬県立歴史博物館の常設展示。
原始時代から近現代に至るまでの通史展示が行われています。

戦時下において戦況が悪化すると、物資が不足しました。
恤兵金(じゅっぺいきん)献納箱。

スバル360。

昭和の茶の間の復元。

参考文献

*1
桂木洋二てんとう虫が走った日スバル360開発物語グランプリ出版1987.12

参考記事

倉賀野(すかや岩鼻分店)のれん分けで独立し店舗を増やしました。

倉賀野駅の東。日光例幣使街道から住宅街を入ったところにある「すかや岩鼻分店」。

「すかや」は、高崎市を中心として店舗展開してきたそば店で、最盛期には28店舗を有していました。ただし、いわゆるチェーン店ではなく、のれん分けで独立し店舗を増やしました。「すかや」の創業は1830(天保元)年と伝承されています。*1

メニューは、そば類が中心ですが、丼ものも少しあります。

天ざるとビールを注文。

参考文献

*1
高崎経済大学ブックレット リンク
西野寿章高崎の商業発達史高崎中心市街地の形成と変容をふまえて リンク
高崎の老舗を訪ねて

P.18
(2)すかや
高崎市を中心として店舗展開してきたそば店である「す…

参考記事

倉賀野(倉賀野神社)文久3年、三国屋つねが寄進した常夜灯。

倉賀野神社は、江戸時代、中山道倉賀野宿と近隣七ヶ郷の総鎮守として崇敬を集めました。*1
境内の入口には飯盛女の名を刻んだ石玉垣が配置されています。*2※1

倉賀野宿と倉賀野神社の玉垣、常夜灯など石造文化財のことを説明した案内板。

本社前の常夜灯は、文久3年(1863年)三国屋つねが寄進したものです(案内板より)。

常夜灯には、文久三年と刻まれています。

参考文献

*1
倉賀野神社倉賀野神社倉賀野神社 リンク
御由緒

江戸時代は中山道倉賀野宿と近隣七ヶ郷の総鎮守として崇敬を集めた。旧社名は飯…

*2
倉賀野神社倉賀野神社倉賀野神社 リンク
飯盛女の名を刻んだ石玉垣 リンク

石の玉垣(たまがき)に「金沢屋内 りつ ひろ きん」などと女性の名が刻まれ…

参考記事

※1倉賀野(倉賀野神社)飯盛女が寄進した玉垣が残されています。

倉賀野(太鼓橋の石柱)倉賀野古商家おもてなし館に復元。

かつて倉賀野宿の仲町と下町の境に、大名行列も通過したという石造りの「太鼓橋」が架かっていました。※1
その欄干石といわれる部材が今から十年以上も前に、民家の庭から発掘され、当座の保管場所として倉賀野神社に置かれていました。*1
この石柱が「倉賀野古商家おもてなし館」の中庭に組み立てられました。*2

寳蔵橋(ほうぞうばし、太鼓橋の正式名称)と刻まれた石柱。

手前の列には、遊女たちの名が刻まれています。*3

奥の列の刻まれているのは、高崎の商家などと思われます。

参考文献

*1
倉賀野神社社報「くらがの」第63号倉賀野神社2017.10.19 リンク
太鼓橋のこと

倉賀野神社境内南側の一画に、大小二十数本の古い石柱が並べ寝かせてある。江戸…

*2
倉賀野神社社報「くらがの」第76号倉賀野神社2024.4 リンク
おもてなし館に「太鼓橋」欄干の石を移設

かつて倉賀野宿の往還の仲町と下町の境に石造りの「太鼓橋」が架かっていました…

*3
前沢辰雄上州倉賀野河岸前沢辰雄1965
宿場女

p.106
太鼓橋が当時板橋で地盤が低く、夕立雨の大きいのが来ただけでも五間…

参考記事

※1倉賀野(おもてなし館)太鼓橋の近く。倉賀野宿に関する展示もあります。※2倉賀野(太鼓橋跡)遊女屋の女郎が200両を出してつくられました。

倉賀野(おもてなし館)太鼓橋の近く。倉賀野宿に関する展示もあります。

太鼓橋の近くにある「倉賀野古商家おもてなし館」。

倉賀野町の旧17号線沿いに建つ古商家・大山邸を、高崎市が所有者から寄付を受け、中山道を散策する観光客の憩いの場「倉賀野古商家おもてなし館」として復元し、平成27年7月1日に開館しました。*1
倉賀野宿に関する展示もあります。

当時の古商家がそのまま保存されています。

階段箪笥。

参考文献

*1
高崎市高崎市(公式)高崎市 リンク
倉賀野古商家おもてなし館 リンク

倉賀野町の旧17号線沿いに建つ古商家・大山邸を、高崎市が所有者から寄付を受け…

参考記事

この記事を参照している記事

倉賀野(太鼓橋の石柱)倉賀野古商家おもてなし館に復元。

倉賀野(太鼓橋跡)遊女屋の女郎が200両を出してつくられました。

今回は倉賀野(群馬県高崎市)の町並みを散歩します。
倉賀野駅前の旧中山道(国道121号線)を倉賀野追分方面を向かう途中。道が緩やかに下っていった谷の部分は五貫堀川と交差する場所で、かつてのここには、「太鼓橋」という呼ばれた橋が架かっていました。

太鼓橋は、倉賀野宿の遊女屋の女郎が200両を出してつくられました。享保3(1718)年に大水のために橋が流出したとき、幕府の道中奉行に願い出て作ったもので、そのとき寄進した女郎の名がこの橋桁に彫られていました。*1
一方で、倉賀野の旅籠屋が、いちばん賑わう表舞台に掲げた広告塔だった、という説もあります。*2
案内板によると、そとのきの石が現在は、おもてなし館の中庭に復元されているそうです。

案内板に、「寳蔵橋」と彫られた柱が掲載されています。太鼓橋の正式名称は寳蔵橋(ほうぞうばし。寳と寶は同じ。寶は宝の旧字体)です。*2

現在の太鼓橋の下は、遊歩道となった五貫堀川跡※1※2です。

参考文献

*1
根岸省三高崎郷土花街史P.51-P.52,P.61吾妻書簡1981
倉賀野女郎衆というもの

P.76
倉賀野宿の遊女屋の女郎が倉賀野宿のあった中山道に太鼓橋を作ったこと…

*2
倉賀野神社社報「くらがの」第63号倉賀野神社2017.10.19 リンク
太鼓橋のこと

倉賀野神社境内南側の一画に、大小二十数本の古い石柱が並べ寝かせてある。江戸…

参考記事

※1倉賀野(五貫堀川)駅前から200m南下したところにある栄橋。※2倉賀野(冠稲荷大明神)旅籠や飯盛女の信仰を集めました。

この記事を参照している記事

倉賀野(太鼓橋の石柱)倉賀野古商家おもてなし館に復元。

前橋(松の湯)銭湯の脇に水量の多い川。現在は休業中。

前橋市街の国道50号線を南東へ進むと、道路沿いに銭湯の「松の湯」があります。

張り紙によると、現在は休業中とのことです。

1軒屋の銭湯。

銭湯の脇を水量の多い川が横切っています。

参考文献

参考記事

前橋(万両)銘木の香るカウンター席。同業者や取引先の名前が刻まれた額。

千代田町4丁目にある寿司の「万両」。

一枚板の銘木の香るカウンター席。高級感があります。

同業者や取引先の名前が刻まれた額。歴史を感じさせます。

万両丼(海鮮丼)を注文。

参考文献

参考記事

前橋(風雷)蔦が絡まる建物。年季の入った看板。

前橋市街の繭市場通りの四つ角に建つ中華料理の「風雷」。外壁に蔦が絡まり、風格を感じます。

年季の入った看板。

カウンター席とテーブル席。

チャーシューメンを注文。

参考文献

参考記事

前橋(オリオン通り)ダンスホール。映画館のオリオン座がありました。

前橋の中心街にあるオリオン通り。繭市場通りと交差するあたりには、映画館のオリオン座がありました。

ダンスホール。

同じビルの1階の飲食店。

「明るく楽しいオリオン通り」。

参考文献

参考記事

前橋(太陽の鐘)広瀬川沿い。岡本太郎が制作。

前橋市街を流れる広瀬川沿いに、小さな緑地帯があります。長い円柱状の棒が突き出しています。

円柱状の棒の先に物体が安置されています。

このオブジェは、岡本太郎が制作した「太陽の鐘」です。
オブジェは、鐘と鐘をつくための鐘突き棒(鐘木=しゅもく)が一体となっています。
1970年大阪万国博覧会のときに、制作された「太陽の塔」と同じデザインの顔が鐘に描かれています。

「太陽の鐘」は、静岡県の「日通伊豆富士見ランド」で1966年に制作され、1999年まで設置されていましたが、その後、前橋市が寄贈を受け、中心市街地を流れる広瀬川河畔に設置されました。設置場所は約1.5m隆起した丘の上。鐘を撞く撞木(しゅもく)は約24m。周辺は樹木や地被植物に覆われています。*1*2

参考文献

*1
前橋市前橋市前橋市 リンク
太陽の鐘とは リンク

1966年に日本通運株式会社が静岡県内に開設したレジャー施設「日通伊豆富士見ラ…

*2
SD : Space design : スペースデザイン No.21鹿島出版会1966.9
中原祐介岡本太郎の<太陽の鐘>

伊豆長岡駅で下車タクシーで10分ばかり走って、日通富士パークウエイに入る。走…

参考記事

前橋(スナック街)店の入口に、フィリピンの国旗。萱町通りから袋町通りへ向かう通り。

前橋中央駅の西側。萱町通りから袋町通りへ向かう通りの一つ。

スナックが連なる一画。

フィリピンパブもあります。

店の入口に、フィリピンの国旗。

参考文献

参考記事

前橋(酒店)三階建て。月之友酒店。高く積まれたビールケース。

中央前橋駅前の中央ビル※1 のある「上電横丁」。

アサヒビールの看板が掲げられた「月之友酒店」。

3階建ての特徴のある建物です。

高く積まれたビールケース。

前橋(中央ビル)中央前橋駅前。麻雀牌。美やこ食堂。

今回は前橋(群馬県前橋市)の町並みを散歩します。
上毛電鉄の中央前橋駅前に建つ中央ビル。

3階建ての建物の最上階の雀荘。麻雀牌が描かれています。

1階の店舗の入口。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 03-265.jpg

建物の北西側。1階に「美やこ食堂」※1。

渋川(クラブふじ)林屋食堂の裏側。ホステス募集の張り紙。

林屋食堂※1の裏側(北側)。

かつて、渋川の寄居町にあった大規模なスナック街※2※3 は、再開発により、住宅地になりましたが、クラブ「ふじ」は、その頃からあったスナックです。

クラブふじのホステス募集の張り紙。

反対側(西側)から。

渋川(林屋食堂)ラーメン450円など、とにかく安い。

渋川の寄居町の東の坂下町。商店が連なっています。

御食事処の「はやしや」。

店内は店内は庶民的な雰囲気。ラーメン450円など、とにかく安いです。

オムライスの大盛を注文。ものすごい量です。

参考文献

参考記事

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渋川(クラブふじ)林屋食堂の裏側。ホステス募集の張り紙。

渋川(平沢川沿いのスナック)こちら側は健在。1軒1軒が独立し建屋。

平沢川沿いの右岸に建つスナック街。左岸のスナック※1 は無くなってしまいましたが、こちら側は健在です。

スナック「モナミ」。

入口が奥まった場所にあるスナック。

対岸から見ると、スナック街は長屋ではなく、1軒1軒が独立し建屋であることが解ります。

渋川(白ポスト)駅の北側へ移動。屋根部分に傾斜がつけられた独特の形状。

今回は、渋川(群馬県渋川市)の町並みを散歩します。

白ポストは、以前は駅の南側に重厚感のある箱が設置されていましたが※1、駅の北側に移動となり、箱もスリムなものに変更されています。

「有害図書回収箱」という名称は以前のままです。※1

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 03-114.jpg

屋根部分に傾斜がつけられた独特の形状です。

本庄(みんみん)創業は1964年。お薦めは酢豚。

JR本庄駅から線路沿いを北西に約200mのところに、中華料理「みんみん」があります。
店のオープンは1964(昭和39)年です。*1

お薦めは酢豚。メディアで取り上げられるほどの一品です。

昭和の雰囲気を残す店内。

酢豚とビールを注文。
昔ながらの甘酸っぱい味で、ボリューム充分です。日本酒やビールのつまみにしても合うぜいたくな一品で、50年くらい前から変わらない味だそうです。*1

参考文献

*1
埼玉新聞社埼玉新聞埼玉新聞社
この一品 50年間変わらない味「中華料理みんみん」(本庄)の酢豚2010.10.3

P.11
「中華料理みんみん」のお薦めは酢豚。見習いの頃からの料理だから50年…

参考記事

本庄(普寛霊場)密教の聖地。寄進者に吉原の楼名。

本庄市中央に、密教の聖地として知られる普寛霊場があります。

本庄普賢様の玉垣には、江戸の昔から公家や大名に始まり、町火消し、日本橋、築地、神田の市場関係者、吉原遊廓の遊女に至るまで上下の別なく名前が刻まれています。*1

普寛様は、京保16年(1731)に生まれ、享和元年(1801)に本庄の地で亡くなりました。*1

新吉原の楼名が刻まれています。

参考文献

*1
商工会議所だより 第261号2012.6.1 リンク


本庄普賢様の玉垣には、江戸の昔から公家や大名に始まり、町火消し、日本橋…

参考記事

本庄(スナックの建物)ピンク色の建物。1階部分は石材で装飾されています。

稲荷横丁の十字路※1 から東へ下る緩やかな坂道。

スナックだったと思われるピンク色の建物。

1階部分は石材で装飾されています。

反対方向から。

参考文献

参考記事

本庄(クラブ東京)「稲荷横丁」の十字路。前面部分は看板建築。

銀座2丁目の通称「稲荷横丁」の十字路。

交差点の向こう側(写真右奥)には、「はじめや」食堂がありましたが※1、現在は駐車場になっています。

クラブ「東京」

奥行きのある木造母屋。前面部分は看板建築になっています。

本庄(食堂モンキー)ボリュームがあることで有名な店。

三交通りを少し進んだところにある「食堂モンキー」。

ボリュームがあることで有名な店です。

カウンター席とテーブル席があります。

とんかつ定食を注文。大きな肉が無くなってしまったとのことで、小さなかつが2段重ねです。

参考文献

参考記事

本庄(スナック天国)蕎麦屋とスナックの併設店。

本庄駅から三交通りへ入る入口。

「スナック天国」の看板。

蕎麦屋とスナックの併設店です。

蕎麦屋の右側がスナック天国の入口です。

参考文献

参考記事

本庄(三交通り呼稱記念碑)城立寺の向かい側のあたり。「三交会」のマーク。

かつての盛り場の三交通り※1。

三交通りの東寄りの城立寺の向かい側のあたりに、「三交通り呼稱(こしょう)記念碑」が建っています。

碑の裏面には、三交通りの由来について書かれています。
ーーーーーーーー碑の裏面ーーーーーーーー
現在、昼夜の別なく人車の往来繁(しげ)き此の通りも大正時代にありては沿道の店舗も疎にして、市街地としての形態未だ備(そな)はらざりし為め、大正十年三月有志相寄り至急沿道を整備を町理事者に陳情すると共に活発なる運動を展開。漸(ようや)くその目的を達成したるを以て沿道の繁栄と住民の福祉増進を目的として会を結成し会長に飯島弥平氏を推薦した。茲(ここ)に於いて氏は本町、七軒町、仲町、三ヶ町の交叉せる地点を以て会名を三交会とし通りを三交通りと呼び、橋名を三交橋と呼ぶ事に定めて町理事者の承認を得て以来四十有余年、年と共に殷賑を極め今日に至った 有志計り由来を略記して茲に三交通り呼称記念碑を建立した。
昭和三十九年四月二十二日

「三交会」のマークでしょうか。

本庄(三交通り)昔は「親不孝通り」の俗称もあった盛り場でした。

今回は、本庄(埼玉県本庄市)の町並みを散歩します。
本庄駅北口交差点から北西へ伸びる通称「三交通り」。

三交通りを西へ進むと紅葉屋通りにぶつかります。

紅葉屋通りと交差する地点に、道路面にモニュメントが埋め込まれています。

三交通りの由来が説明されています。昔は「親不孝通り」の俗称もあった盛り場でしたが、地元で結成された三交会の活動もあり、現在は、健全な飲食街となりました。

児玉(御嶽神社)ご神体は石棒。祠には無数の男根。

御岳神社は古くから子孫繁栄、夫婦和合の神様として敬われている。創立は南北朝時代と言われ、ご神体は石棒で、神社南側の民家に安置されていて、長さ57cm太さ47cm(周長)、重さは23kgあり、普通の石棒より丸みが太く石質もよく、破損もしていない貴重な品です。その型にならってか、大小さまざまな石棒が人知れず奉納され、あまりの多さに氏子が時折片付けることもある。このあたりでは秋山の大魔羅(まら)様と呼ばれ親しまれています(案内板より)。

祠いは、木製の大きな男根2体。その奥には、無数の男根が納められています。

高さ50cmほどの石棒。案内板に書かれている「民家に安置されている石棒」に近い大きさです。

参考文献

参考記事

児玉(きんそば)創業100年近くの老舗。座敷とテーブル席。

仲町交差点近くにある「きんそば」。創業100年近くの老舗です。

日焼け感のあるサンプル。

座敷とテーブル席があります。

五目そばを注文。

参考文献

参考記事

児玉(旧配水塔)児玉郵便局の近く。昭和6年に竣工。

児玉郵便局の近く。旧配水塔が建っています。

本庄市児玉町の市街は、扇状地地形のため生活用水が潤沢ではなかったため、水道施設は永年の悲願でした。この配水塔は昭和6年に竣工しました(案内板より)。

入口から上に向かって階段室が伸びています。

入口のドア。「配水塔」と書かれています。

参考文献

参考記事

児玉(田島屋旅館)古い木造の旅館。三島由紀夫などが宿泊。

今回は、児玉(埼玉県本庄市)の町並みを散歩します。
児玉駅前の国道沿い。

古い木造の旅館の「田島屋旅館」があります。

今の建物ができたのは100 年位前で、2階と3階が客室で、3階には、三島由紀夫や吉田健一(総理大臣吉田茂の息子)が泊まったそうです。*1

建物の奥まで板張りの壁の続きます。奥の部分は三階建てです。
3階は特別なお客さんが泊まる部屋だったそうです。*1

参考文献

*1
埼玉県彩の国 埼玉県埼玉県 リンク
再発見シリーズ第3弾 児玉を巡る 鎌倉街道の再発見鎌倉街道の再発見 美里町~本庄市児玉町~神川町 リンク

P.27
【田島屋旅館】
筑紫本店の向かいには古い木造の旅館がある。田島屋…

参考記事

倉賀野(五貫堀川)駅前から200m南下したところにある栄橋。

倉賀野駅前から200m南下したところにある栄橋。橋の下は、現在は暗渠化している五貫堀川の跡です。

現在は遊歩道になっていて、栄橋の下をくぐることができます。
五貫堀川は、長野堰幹線用水路を分水した倉賀野地区の水田を潤すす用水路です。蓋をして渠化される以前、水車が設けられ、魚捕りもできました。*1

両岸は石垣で固められ、ゆるやかな弧を描いて続いています。

旧中山道の下をくぐって、さらに上流に続いています。

参考文献

*1
高崎観光協会高崎観光協会高崎観光協会 リンク
改定版 倉賀野めぐり

五貫堀
長野堰幹線用水路を倉賀野堰で分水した倉賀野地区の水田を潤すす用水…

参考記事

この記事を参照している記事

倉賀野(太鼓橋跡)遊女屋の女郎が200両を出してつくられました。

倉賀野(冠稲荷大明神)旅籠や飯盛女の信仰を集めました。

今回は、倉賀野(群馬県高崎市)の町並みを散歩します。
旧中山道の南側。五貫堀川跡の暗渠沿いに、冠稲荷神社(別名:三光寺稲荷)があります。

冠稲荷神社は、延宝二年(1674)に勧進が行われ、江戸から官位をとって祀ったのが始まりと伝えられ、旅籠や飯盛女の信仰を集めました。*1

明治42年、倉賀野神社に合祀され、飯盛女の名が刻まれた石玉垣も移されました。*1

倉賀野神社に合祀された後、町の人の夢にお稲荷さんが現れ、「元の場所に戻りたい」と泣くということから、この場所に再建されました。

参考文献

*1
高崎観光協会高崎観光協会高崎観光協会 リンク
倉賀野マップわ∼きんぐぐる∼ぷ倉賀野めぐり第3号(裏面)2014.06 リンク

冠稲荷神社(かんむりいなりじんじゃ。別名:三光寺稲荷)

磯部(コンクリゴミ箱)磯部せんべい「栄泉堂」の近く。保存状態も良好。

磯部温泉名物 磯部せんべいの「栄泉堂」の近く。

コンクリ製ゴミ箱が残っています。

前面の木製の扉の保存状態も良好です。

上方から。

参考文献

参考記事

磯部(温泉劇場跡)スナックなどが5軒建ち並びます。

磯部温泉の中心部。

スナックなどが5軒建ち並びます。

1972年の住宅地図によると、このあたりに「磯部温泉劇場」がありました。

建物の裏側。

参考文献

参考記事

磯部(いまい食堂)駅前の長屋風の建物。自家製麺が自慢の店。

磯部駅前の長屋風の建物。

「いまい食堂」は、自家製麺が自慢の店です。

ラーメン、チャーハン、そば・うどん、丼もの。

チャーシューメンを注文。

参考文献

参考記事

磯部(温泉マーク発祥の地の碑)日本最古の温泉記号。江戸幕府認定の絵図。

今回は磯部(群馬県安中市)の町並みを散歩します。
磯部駅前に「日本最古の温泉記号発祥の地」の碑があります。

さかさくらげのマーク。

万治4年(1661)、付近の農民の土地争いに決着を付けるため評決文「上野国碓氷郡上磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」の添付図に磯部温泉を記した温泉記号が2つ描かれていました。*1

これが日本で使われた最古のものと判明。磯部温泉は温泉記号発祥の地となりました。*1

参考文献

*1
安中市安中市安中市 リンク
温泉記号発祥の地 リンク

万治4年(1661)、付近の農民の土地争いに決着を付けるため評決文「上野国碓氷…

参考記事

高崎(コンパル)「中央ぎんざ商店街」のアーケードの入り口近く。老舗喫茶

昭和レトロな「中央ぎんざ商店街」のアーケードの入り口近く。

老舗喫茶の「コンパル」。

ビルの2階が喫茶店です。

アキスミルクティーを注文。

参考文献

参考記事

高崎(前田屋)柳川町の旧芸妓屋街。南側の路地。

柳川町の旧芸妓屋街。割烹信田※1 があった場所の南側に、芸妓や街だった頃の風情の残る一画があります。

割烹前田屋。

割烹前田屋から南側の路地を入ったところ。
ここには、「ひばり」という屋号のおそらく芸妓屋がありました。*1

このあたりには、芸妓屋が密集していました。*1

参考文献

*1
根岸省三高崎郷土花街史P.51-P.52,P.61吾妻書簡1981
柳川町(芸妓屋街)

P158
割烹前田屋。
(芸妓屋も屋号でしるしたのもあるが、その他氏名のあ…

参考記事

高崎(スナック街)かつての旧乙種料理街。高崎オリオン座の裏側

柳川町のかつての旧乙種料理街は、現在は大規模なスナック街となっています。※1

高崎オリオン座(写真右側)の裏側の路地は南側から北側へ抜ける一本道の路地の両側には、バーやスナックが建ち並んでいます。

以前は、このあたりに「客引禁止看板」がありましたが、現在は無くなっています。※2

和風スナック。このまま進むと新紺屋町方面です。

高崎(電気館裏の木造建築)旧「紅つる」。2階部分の格子窓。

電気館裏にある居酒屋「佐武」。

以前は、この建物の向かい側は、木造長屋のスナックが密集する一画でしたが※1、現在は駐車場になっています。

駐車場から見た旧「紅つる」。

2階部分の格子窓。

高崎(松島軒)黄色いカレーライス。昭和12年創業。

高崎市若松町にある松島軒は、昭和12年創業の昔ながらの定食屋さんです。黄色いカレーライスやラーメンなどが名物のようです(看板より)。

出前サービスもあるようです。店の前に出前用のバイクがとまっています。

店内は、テーブル席が4つほどとカウンター席です。

黄色カレーライスを注文。中華スープがつきます。

参考文献

参考記事

下仁田(きよしや食堂)秘伝のタレで作るカツ丼が名物。

下仁田駅近くのきよしや食堂。

秘伝のタレで作るカツ丼が名物です。

サクッと歯触りのよいころもに、あっさりと甘いしょうゆ味のたれ、ボリュームたっぷりの肉。きよしや食堂のカツ丼は昭和12年の開店以来、この味を守ってきました。*1

下仁田でカツ丼と注文すればどの店もしょうゆ味のたれがかかって出てきます。卵をかけたのは「玉子煮カツ丼」と呼ぶそうです。*1

参考文献

*1
朝日新聞社朝日新聞群馬版朝日新聞社
しょうゆだれカツ丼40年「きよしや食堂」経営・大嶋さん2004.5.28

サクッと歯触りのよいころもに、あっさりと甘いしょうゆ味のたれ、ボリュームた…

参考記事

下仁田(風呂店)小間物、日用品、雑貨の看板。日立ホームバス。

下仁田市街の南側(鏑川(かぶらがわ)に近いあたり)。

風呂店の建物が残っています。

小間物、日用品、雑貨の看板もあります。

日立ホームバス。

参考文献

参考記事

下仁田(古い商品看板)上町通りの商店街。花柳丸。

上町通りの商店街にあるカシワヤ薬局。

大正5年発行の「下仁田町商工業名鑑案内図」*1 に「柏屋商店」の名で記載のある薬局です。

「花柳丸」と書かれた古い商品看板。

「猛悪なるばい毒淋病の良剤」との説明書きがあります。

参考文献

*1
五十嵐文吾下仁田町商工業名鑑案内地図五十嵐文吾1916.7.25

上町通り
・柏屋商店

参考記事

下仁田(森永牛乳の牛乳箱)赤丸白抜きのエンゼルマーク。

ビリヤード場跡に森永牛乳の牛乳箱が残っています。

赤丸白抜きのエンゼルマーク。森永の牛乳箱の中では希少性の高いデザインです。※1

保存状態も良好です。

側面には、「森永ヨーグルト」。

下仁田(ビリーヤード場跡)入口のガラスに「撞球場」。

駅前の中央通り※1 をさらに進むと、「〇玉ホール」と書かれたビリーヤード場(撞球場)の建物が残っています。

純日本風の木造家屋です。

入口のガラスには、撞球場(どうきゅうじょう)。

映画のロケで使われたとのことで、綺麗に整備されています。

下仁田(布屋化粧品店)中央通りの四つ角。マンダムの看板。「布屋」の文字。

下仁田駅前の中央通り。

化粧品店があります。

マンダムの看板。※1※2

四つ角に建っています。「布屋」の文字。

下仁田(常盤館)大正元年に創業。全国花街めぐりに出てくる旅館。

下仁田駅前の十字路にこんにゃく料理の「常盤」があります。

常盤館は、もともと、木材、繭やコンニャクなどの取り次ぎで、この地を往来する商人の宿として、大正元年に創業致しました。*1

「全国花街めぐり」*2 によると、下仁田には、戸数500ぐらいの土地で料理店(甲種)32軒、芸者が50名近くいて、常盤館は内芸者(うちげいしゃ)を置いていたそうです。

昭和初期、竹久夢二の旅の宿ともなりました。*1

参考文献

*1
常盤館常盤館常盤館 リンク
ご案内 リンク

常盤館は、木材、繭やコンニャクなどの取り次ぎで、この地を往来する商人の宿と…

*2
松川二郎全国花街めぐり誠文堂1929
下仁田

P.226
旅館:下仁田館、新松原、小松屋、常盤館、等。
戸数500ぐらいの土…

参考記事

下仁田(下仁田駅)上信電鉄に乗り、終着駅。

今回は、下仁田(群馬県甘楽郡(かんらぐん)下仁田町)の町並みを散歩します。
高崎駅から上信電鉄に乗り、終着駅の下仁田駅に到着です。

レトロな駅舎です。

西側から。

周囲や山に囲まれています。

参考文献

参考記事

前橋(美やこ食堂)中央前橋駅前。蕎麦は平打ちの極細。

上毛電鉄中央前橋駅前にある美やこ食堂。

手打ちのうどん、そばが名物です。他に定食、丼もの。

店舗はかなり広いです。テーブル席とカウンター席。

天ざるの大盛を注文。蕎麦は平打ちの極細です。

参考文献

参考記事

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前橋(中央ビル)中央前橋駅前。麻雀牌。美やこ食堂。

前橋(もくば館)登録有形文化財。1回10円です。大人は乗れません。

前橋市中心部に位置する前橋市中央児童遊園。

遊園地の入口近くに片流れ屋根の「もくば館」があります。内部電動木馬と一体的に残る遊園施設です。*1
登録有形文化財に指定されています。

現存最古級の5基の電動木馬。*1

1回10円です。大人は乗れません。

参考文献

*1
文化庁文化遺産オンライン文化庁 リンク
前橋市中央児童遊園(るなぱあく)もくば館 リンク

前橋市中心部に位置する前橋市中央児童遊園入口近くに建つ。間口4.5m奥行1.8m…

参考記事

前橋(臨江閣)明治43年に貴賓館として建てられました。

臨江閣は、明治43年に本市を主会場に開催された一府十四県連合共進会(博覧会)の貴賓館として建てられました。*1

明治時代の木造建築です。

大広間。

博覧会は60日間開催され、当時前橋の人口が4万5,000人だったのに対し、この共進会には94万4,000人が来場。別館は行事や大会、夜会などに利用され、当時の首相である桂太郎をはじめ、大隈重信や渋沢栄一など多くの貴賓が訪れました。*1

参考文献

*1
前橋市前橋市前橋市 リンク
電子広報 NO.16152018.11.1 リンク
歴史と文化に彩られた臨江閣つないできた歴史をこれからも2・3ページ リンク

臨江閣建設へ地元民の力
臨江閣を構成する本館、別館、茶室の3つの建物のう…

参考記事

前橋(福守さま)石製、木製の大小さまざまの男根。

三社神社の鞘堂(さやどう)※1 のうち、水分、雷電両社は、木祠でですが、左端の福守さんだけは男根です。石製、木製の大小さまざまの男根が数多く奉納されています。*1

2段目の棚の木製男根。
願主の氏名らしきものが書かれた男根もあります。(写真左側)

福守小唄。

川崎の若宮八幡宮のかなまら祭の写真も奉納されています。

参考文献

*1
小板橋靖正赤城山麓の性神風土記あさを社1985.10
田口町橘神社の福守さま

福守さまは、橘神社の境内の本殿裏、一段高いところに祀られている。一つの鞘堂…

参考記事

※1前橋(橘神社)水分神社、雷電神社、福守神社。

前橋(橘神社)水分神社、雷電神社、福守神社。

前橋市内から国道17号線を渋川方面へ向かった群馬大学の先の高台に橘神社があります。

橘神社の境内の本殿裏、一段高いところに三社神社が祀られています。

「三社神社の由来」の案内板。三社神社は、水分(みずわけ)神社、雷電神社、福守神社がいっしょになった神社です。

一つの鞘堂(さやどう)が三つに仕切られています。向かって右側が水分神社、中央が雷電神社、左端が福守神社です。*1

参考文献

*1
小板橋靖正赤城山麓の性神風土記あさを社1985.10
田口町橘神社の福守さま

福守さまは、橘神社の境内の本殿裏、一段高いところに祀られている。一つの鞘堂…

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前橋(福守さま)石製、木製の大小さまざまの男根。

前橋(敷島浄水場配水塔)八本の柱を立て水槽を支える構造。

前橋市の敷島公園近くに、敷島浄水場配水塔が保存されています。
1929年に造られ、登録有形文化財(建造物)に指定されています。*1

水槽は、かなり大型です。
外側は断熱材で巻かれ、更に銅板で覆われています。*1

給水塔は鉄骨造で、八本の柱を立て水槽を支える構造になっています。*1

水道資料館が近接して建っています。

参考文献

*1
文化庁文化遺産オンライン文化庁 リンク
前橋市浄水場配水塔 リンク

1929
鉄骨造、高さ37.4m
前橋市水道局
登録有形文化財(建造物)
水…

参考記事

前橋(大黒寿司)JR新前橋駅ロータリーにある老舗の寿司屋。

今回は、前橋の町並みを散歩します。
「大黒寿司」は、JR新前橋駅ロータリーにある老舗の寿司屋さんです。

寿司店ですが、ランチの定食、ラーメン、カレーもあります。

テーブル席の他、カウンター席もあります。

ちらし寿司を注文。

参考文献

参考記事

倉賀野(九品寺)無縁仏となったいくつかの墓。

倉賀野は中山道の宿場の一つでした。旅の疲れを休め、骨休めをする旅籠屋や飲み屋が軒を連ね、飯盛女もいました。*1

この寺の墓地の片隅に、無縁仏となったいくつかの墓があります。

「高崎の散歩道」*1に、遊女の墓として紹介されいる墓石。
墓石には、
「越後 新潟平次 娘 きく墓」
「越後 三條裏館村 こよ墓」
「越後 大宮嶌村 女 へて墓」
「越後 三條久兵衛 女 里よ墓」
と刻まれています。*2

無縁仏は、他国出身の娘で、若く死亡した仏さまの墓が多い。出身地を分類すると越後の国が多く、また、没年齢の平均は21才でした。*1
「越後国長岡中源町 権介娘 やの」と刻まれています。*2

参考文献

*1
高崎観光協会高崎の散歩道 第2集高崎観光協会1975
倉賀野、九品寺

P.93
倉賀野は中山道の宿場の一つであった。旅の疲れを休め、骨休めをする旅…

*2
高崎市市史編さん委員会新編高崎市史. 資料編 14 (社寺)高崎市2003.11



 

九品寺

⑨主な埋葬者

越後國三…

参考記事

倉賀野(倉賀野河岸)江戸時代初期より利根川の最上流河岸として繁栄。

今回は、倉賀野(群馬県高崎市)の町並みを散歩します。
JR倉賀野駅から南へ10分ほど歩くと共栄橋に行きつきます。その共栄橋の近くの河川敷に「倉賀野河岸跡」の碑があります。

倉賀野河岸の由来が書かれた碑には、「当河岸は江戸時代初期より利根川の最上流河岸として上野、信濃、越後の広大な後背地を控え江戸との中継地として繁栄を極めたり。…..」と書かれています。
倉賀野河岸は、天明3年(1783年)の浅間山噴火により川が浅くなり舟運が衰え、明治17年の高崎線の開通により、終止符を打ちました(案内板より)。

井戸八幡と八幡宮の境内の崖下(「倉賀野河岸跡」の碑の西側)から共栄橋にかけての川岸が倉賀野河岸でした。*1

近くにあった案内板には、「当時は旅籠屋71軒、茶屋9軒、商家34軒、造り酒屋2軒があり、倉賀野宿の賑やかさは大変なものであった。」と書かれています。

参考文献

*1
高崎観光協会高崎の散歩道 第2集高崎観光協会1975
倉賀野河岸

P.68
井戸八幡と八幡宮の境内の崖下から共栄橋にかけての川岸が倉賀野河岸で…

参考記事

久留里(延長寺)お堂の裏手。大型の石棒、高さ1m近く。

久留里街道(国道410号線)を南に約2Km。西側の田圃の中に、延長寺があります。

お堂の裏手に、小さな石塔が建っています。(写真左下)

石塔の中には、石棒が安置されています。

石棒はかなり大型のもので、高さは1m近くありそうです。
撫でると子宝に恵まれるという言い伝えがあるそうです(案内板より)。

参考文献

参考記事

久留里(喜楽飯店)店内。テーブル、椅子、すべてレトロです。喜楽特製メン。

駅前の建物脇の路地※1の中ほどに、喜楽飯店があります。

定食の他、ラーメンなど、メニューが豊富です。

店内。テーブル、椅子、すべてレトロです。

喜楽特製メンを注文。
たっぷりの豚肉には餡がかかっています。