東海道線菊川駅(旧堀の內駅)の南方約400m位の処に、かつて、堀の內遊廓がありました。*1

東西の伸びる道路沿いに、古い建物が残る一画があります。*2

その昔、遊廓付近は茶畑であって、遊廓に遊びに行くことを茶畑に行くと言われていました。*2

配置図*2には、上に「道路」、下に「南」と書かれており、道路側に、南海楼、落合楼。南側に、金波楼、検梅と説明されいるので、この付近の通り沿いが遊廓地だった可能性もあります。

東海道線菊川駅(旧堀の內駅)の南方約400m位の処に、かつて、堀の內遊廓がありました。*1
東西の伸びる道路沿いに、古い建物が残る一画があります。*2
その昔、遊廓付近は茶畑であって、遊廓に遊びに行くことを茶畑に行くと言われていました。*2
配置図*2には、上に「道路」、下に「南」と書かれており、道路側に、南海楼、落合楼。南側に、金波楼、検梅と説明されいるので、この付近の通り沿いが遊廓地だった可能性もあります。
堀の内遊廓は靜岡県堀の内町字堀の內にあつて東海道線堀の內駅で下車し、南方約…
昔の川崎街道は菊川市役所の西側山裾を南下していた。天理教会横はT字路で右に…
今回は、菊川(静岡県菊川市)の町並みを散歩します。
菊川駅の南側。商店街の中に「赤レンガ倉庫」が建っています。
案内板によると、この赤レンガ倉庫は、明治33年(1900年)に建てられた製茶工場の一部、とのこと。
入口。
東側から。
島田市博物館の中庭。
「いたずらがき」と題されたブロンズ像が建っています。
子供たち。
へのへのもへじ。
昔懐かしいおもちゃのコーナーに展示されていた「ママレンジ」。「ママレンジ」は、本物のホットケーキも焼くことができました。
アサヒ玩具の創業は、戦後の昭和23年。昭和44年に業界初の電源を使用し、実際に料理が出来るという「ママレンジ(3900円)」を発売。玩具の歴史に新しいページを加えました。※1
エポック社のゲーム盤。※2
人気マンガ「巨人の星」にヒントを得て、開発された“消える魔球”が搭載された野球盤。打者の手前で球が落ちて消えてしまう魔球を投げることができます。*1
1970年代
オールスター野球盤BM型 魔球装置付き
“消える魔球”登場!
…
旧東海道沿いの大井川近くにある島田市博物館。常設展では、江戸時代後期の大井川の川越しの様子や島田の文化などが紹介されています。
島田出身とも伝えられる遊女、虎御前※1 が考案したともいわれる「島田髷」。※2
日本髪の名称の説明。
「島田髷」の様々な種類が展示されています。
島田駅近くの商店街。
日立の亀の子マークが残る店舗。
「日立チーェンストール」※1 の名を冠した電気店です。
店の上部の亀の子マークの隣には、「ポンパくん」。尾っぽの緑色がわずかに残っているのみで、塗装はほとんど落ちて、真っ白です。
ポンパくんは、日立が製造していたカラーテレビの宣伝マスコットで、昭和45年10月14日から「ポンパ列車」が品川駅を発車、全国を回り主要駅で展示会を開催し、216日間で約2万キロを走行し99万人の観客を動員しました。*1
P.34
昭和45年10月14日、鉄道記念日に合わせて、「ポンパ列車」が品川駅を発…
島田市街の旧東海道沿いの商店街にあるオモチャの「こどもや」。
城郭で見られるような塔のオブジェ。
プラモデル、おもちゃ、ゲーム。
レトロなおもちゃやさんです。
今回は島田(静岡県島田市)の町並みを散歩します。
からくり時計がある「おび通り」のあたりは、旧東海道の宿場の中心で、下本陣があった場所です。
「おび通り」から西へ50m。
ホテル割烹の建物の隣が駐車場となっていますが、このあたりに昔、遊廓の三河屋がありました。*1
島田には、中心街の二丁目の橋本屋と併せ、2軒の遊廓があり、遊女が8・ 9人いました。*1
お堀端通りから小田原城方面に向かった道路沿い。
町中華の「日清亭」。
年季の入った食品サンプル。
オムライスの大盛とビールを注文。
これまで、何度も巨大オムライスにチャレンジしてきましたが※1※2※3、その中でも巨大さでは群を抜いています。
小田原市中町の住宅街。
営業を始めてから約80年になる中嶋湯があります。*1
小田原の銭湯では最後の一軒となりました。
銭湯の側面。
入口のタイル絵。
小田原生まれの小説家の川崎長太郎は、昭和28・9年頃、カフェーや花街を題材にした作品(「抹香町もの」)でブームを巻き起こしました。*1
海岸寄りの場所に文学碑が設置されています。
代表作「抹香町」からの一節(冒頭部分)。
「屋根もぐるりもトタン一式の、吹き降りの日には、寝ている顔に、雨水のかかるような物置小舎に暮らし、いまだに、ビール箱を机代わりに、読んだり書いたりしている。」*2
防潮扉の向こう側は海です。
P.81
昭和13年に小田原へ引き揚げてくると、物置小屋に住み、みかん箱を机に…
P.53
川上竹六も、既に五十歳であった。弟がひとりあるだけで、女房子供なし…
本町2丁目の宮小路の風俗店のある通り。
「飛び出し坊や」の看板が設置されています。
今から50年前の1973年、高度経済成長期にあって子どもの飛び出しによる事故も多発していた状況を心配した滋賀県旧八日市市(現・東近江市)の社会福祉協議会が、「久田工芸」の久田泰平さんに声をかけ、日本初の「飛び出し坊や」が誕生しました。*1
作者の久田泰平(ひさだやすへい)さんのサイン。
浜町2丁目のかつての旅館街※1 の近く。
緑色のトタンの塀。
懐かしい便所煙突。汲み取り式便所が主流だった時代には、よく見られた煙突です。
北側の通りから。
かつて、抹香町(まっこうちょう、現在の浜町2丁目)と呼ばれた旅館街。
現在も旅館だった建物が残っています。
こちらは、「石川屋」という屋号の旅館だったようです。*1
抹香町に自然に発生した私娼が昭和初期、移転し、これを俗に新開地といいました。※1
浜町1丁目の通り。
「十王町・抹香町」の石碑が建っています。
江戸時代、東海道に散在していた遊女屋は、明治36年、初音新地※1 に移転しましたが、今まで来やすく遊んでいた人たちの中には重苦しく感じ、遊興費も高かったので、それらの人々のために自然に発生したのが抹香町の私娼でした。昭和初期、新宿のはずれの元ゴミ捨て場であった地域に移転し、これを俗に新開地といいました。*1
川崎長太郎さんの抹香町は、この新開地のことですが、昔ながらの抹香町という名で呼ばれました。芸者などの揚げ代を線香代といいますが(線香をとぼして時間を計ったため)、抹香町とはまことにそれらしい名前です。*1
川崎長太郎さんの抹香町
江戸時代、東海道に散在していた遊女屋は、明治36年…
今回は、小田原(神奈川県小田原市)の町並みを散歩します。
小田原の遊女屋は江戸時代の飯盛女に始まるもので、明治35年まで東海道筋に散在していました。泉鏡花の「熱海の春」(明治35年1月)*1 には、「31日、小田原見物、遊女屋が軒を並べてにぎやかである。」とありますが、明治32年、遊女屋を旧古新宿(こしんしく)の海側の一角の指定地に集めるという措置がとられたばかりで、「熱海の春」が描かれた明治35年には、古新宿にすでに遊廓ができかかっていました。ところが、同9年9月28日、小田原一帯を大津波が襲い、この津波でほとんどできあがっていた遊女屋は跡たかもなく押し流されてしまい、指定地替えが行われ、新玉4丁目の一廓(初音新地)が指定されました。*2
昭和4年発行の「小田原全図」※1 によると、初音新地の北側には川が流れていました。現在は暗きょになっています。
暗きょは西側へ伸びています。写真左側(南側、現在のスポーツプラザ神奈中、旧神奈中ボウル*3)が遊廓があった側。
「初音」の電柱プレート。
P.281 現神奈中ボール、新玉交番のあたり。
三十日*2
初音新地
小田原の遊女屋は江戸時代の飯盛女に始まり、明治35年ま…
西より、金晶、宝来、東海、松本、菊本…参考記事
※1小田原(郷土文化館)小田原を紹介する資料の展示。初音新地。この記事を参照している記事
相模沼田駅近くの交差点の角にある大衆食堂の「てっぺん」。
「お食事処」と書かれた暖簾。
テーブル席が中心です。
海鮮丼を注文。ものすごいボリュームでした。
相模沼田駅の西側にある西念寺。門前に地蔵が建っています。
この地蔵像は、初音新地※1※2 の菊池楼主の次男が関東大震災で命を落としたのを悼み、七回忌に建立されたものです。*1
台座の後ろ側。
「小田原町初音新地菊池楼主」と刻まれています。
P.3
この地蔵像は、安藤政吉の次男が関東大震災で命を落としたのを悼み、父…
今回は、相模沼田(神奈川県小田原市)の町並みを散歩します。
伊豆箱根鉄道大雄山線の相模沼田駅。
駅の柵にはレールが使われています。
レールを使った支柱。
反対側の支柱は木製です。
掛川駅前の肴町にある天ぷらの「天金」。
歴史を感じる店内。
サッポロビール赤星。
天丼を注文。天ぷらの盛りが凄いです。
現在の居酒屋の喜楽(もと酒場福八)よりダイモクヤ(もと石山商店、現在は「味蔵」)のあたりには、旧遊廓の建物(二階建ての長屋(46メートル))が建っていました。明治30年代の終わり頃、今の掛川座ができるまでそこにあった遊廓の建物を移転したもので、7,8軒の店があったそうです。*1*2
反対側(北側)
現在は、飲食店が入る商業ビルです。
建物の裏側。
P.33
紺屋町
西側の喜楽(もと酒場福八)よりダイコクヤ(もと石山商店)…
P.8
ダイモクヤ~㐂楽
掛川駅前の紺屋町の通り。
ルパン掛川店。キャバレーのチェーンでしょうか。
地下街入口。
地下街は、閑散としています。
今回は、掛川(静岡県掛川市)の町並みを散歩します。
掛川駅前の大通りに立つブロンズ像。
松田裕康作「陽春」。
ブラウスを着た女性の像です。
彫刻家の松田裕康さんの作品は、掛川市内に数多く設置されています。
「陽春」松田裕康
成田山新勝寺の出世開運稲荷大明神へ向かう参道に連なる玉垣は長大です。角海老寄進の玉垣があった場所※1 から、さらに北へ進んだあたり。
亀戸の城東花柳街が寄進した玉垣。
「新きね」は、昭和47年頃に存在した料亭です。*1
亀戸、待合、幇間、とあります。
日本橋よし町の料理屋の名。
P.100
城東三業組合事務所(見番)があった建物。現在は、亀戸三丁目自治会…
新勝寺へ向かう商店街にある柳屋ラジオ店。
東芝のマスコットキャラクター「光速エスパー」(こうそくエスパー)の描かれています。
空を飛んでいるエスパー。
店の上部にある東芝のロゴ。
今回は、成田(千葉県成田市)の町並みを散歩します。
般若通りへの入口のあたりにあるお食事処の「鳥伊勢」。
一番人気は「バクダン梅割り」。
「バクダン梅割り」は、宝焼酎25度のストレートに、梅のエキスを加えたもの。まさにバクダンです。
煮魚定食を注文。
鴨宮駅北口商店街。
御食事処「丸登(まると)食堂」。
ホッピーが飲めます。
丸登チャーハンを注文。チャーハンに八宝菜のような餡が掛かっています。
鴨宮駅は、JR小田原駅の一つ隣の駅です。
駅前に新幹線発祥の地の碑が建っています。
碑の上部には、初代新幹線(0系)の先頭車両。
新幹線の発祥地(鴨宮) [ ヒカリノフルサトカモノミヤ ]という歌もあります。
小田原市街にある「だるま料理店」は、明治26(1893)年創業の日本料理店です。網元であった、金沢出身の達磨(たつま)仁三郎が創業し、だるま大師の縁起にちなみ、屋号をだるま料理店と登録しました。*1
銭湯などで見る「折り上げ格天井」。
天丼とビールを注文。
天丼は、創業から続く名物です。*1
建物は大正12(1923)年の関東大震災により、創業時の主屋は倒壊しましたが、その後再建されました。*1
天王稲荷※1 に建つレトロ電柱。
現在は何も役割を果たしていないと思われますが、電柱だけが残っています。
電柱の中ほどには、何らかのネームプレートが埋め込まれていたと思われる窪みがあります。
支柱の根元部分。穴があいている部分には、電源のスイッチがあったのだと思われます。
浜町2丁目の浜町公民館の裏にある天王稲荷神社。花柳界から信仰がありました。*1
一番手前の大きな玉垣。上部が欠けていますが、「〇音新地」と読み取れます。
松の字の上部が切れていますが、「松本楼」と読み取れます。
松本楼は、小田原案内図(大正2年)に記載があります。*2
芸者さんの名のある玉垣。*1
初音新地は、泉鏡太郎(泉鏡花)の短編小説*3 にも登場します。
この神社は北向きに立っており、地元の人も不思議がっていたが、理由は不明。花…
初音新地。
東から、いろは楼、叶楼、菊本楼、松本楼、東海楼、宝来楼、金昌…
三十日参考記事
この記事を参照している記事
小田原城址の中にある郷土文化館。小田原を紹介する資料が展示されています。
人力車。
低学年用机と椅子。
昭和4年発行の「小田原全図」。初音新地の名が確認できます。
初音新地は、明治三十六年、東海道筋から現在の場所に移転して一廓を成したもので、妓楼は伊呂波楼、加納楼、菊本楼、松本楼、宝来楼、金昌楼の六軒ありました。*1
小田原初音新地は神奈川縣小田原町初音新地にあって、熱海線小田原駅で下車すれ…
小田原城址にある屏風岩こども遊園地。子供向けの乗り物のレールが敷設されています。
江戸時代の絵図に、小田原城の本丸の裏側に「屏風岩」の記載*1 があることから「屏風岩こども遊園地」と名付けられました(案内板より)。
昭和30年頃のこども遊園地(案内板より)。
石垣の上に乗り物が走っています。
今回は、小田原(神奈川県小田原市)の町並みを散歩します。
小田原駅から小田原城址方面へ向かう道の途中にあるJRの小田原保線区。
入口に小便小僧が立っています。
小便小僧の隣には、魚をくわえた鶴。
元気よく水が出ています。
くの字型の路地※1 の近く。
ここにも、疑似三階建ての建物が建っています。
この建物の隣(写真右隣り)には、以前は商家「千笑」※2 がありました。「千笑」の建物が無くなってしまったので、こちらの建物は狭小に見えます。
トタン建築。
中央町のくの字型の路地。
飲食店や料理屋が道の両側に建ち並んでいます。
Barの建物。
こちらから見ると三階建てに見えます。
糸川の南側の中央町のスナック。
建物の角の紋章。
かつての歓楽街の名残を感じる建物です。
「つたや」という屋号を確認できます。
旅館「竜宮閣」脇の階段路地。
急な階段。
下から見ると5階以上ある高層の建物であることが解ります。
「きくや」と読めます。
熱海は坂の多い町です。
ホテルのグランビュー熱海へ下る階段。
坂を下りきったところが三差路になっていて、グランビュー熱海の看板があります。
下から階段を見上げてみます。
湾曲したビル※1 が続く商店街に、美容室の建物が両隣のビルにくっついて建っています。
パーマ。キクチ美容室。
歴史を感じる入口のドア。
ネオン管の看板。
今回は、熱海(静岡県熱海市)の町並みを散歩します。
熱海駅前から南西方向に商店街の坂を下っていきます。
道路のカーブの形状に合わせてレトロなビルが建っています。
昭和39年、東京オリンピック開催のとき、狭かったメインストリーを拡幅するために共同でビルを建てたため、このように湾曲したビルがくっついて建っています。*1
昔ながらのお土産屋さんも健在です。
昭和39年東京オリンピックが開催するにあたって、当時狭かったメインストリーを…
馬橋駅前。
美容室前に、和服を着たマネキン。
マネキンは日章旗を背負っています。
傍らに日本人形。
馬橋駅前にある山長餅菓子店。
昭和39年創業の大福や団子などの昔ながらの和菓子をはじめ、いなりずし、のり巻き、などが自慢のお店です。*1
店内で食べることもできます。
「あんだんご」と「栗まん」を注文。お茶のサービスがあります。
新松戸駅からけやき通りを西へ向かった新松戸中央公園の近く。
「そば処けやき庵」は、昭和53年創業の日本そば店です。*1
重厚な座卓でビールを頂きます。
天ぷら蕎麦を注文。。
今回は、新松戸(千葉県松戸市)の町並みを散歩します。
常磐線の新松戸駅のホームから東側を見ると、「HOTELエクセリーヌ」の看板が見えます。
休憩2600円は破格です。
現在は休業中のようです。
屋上看板。
大井川鉄道の新金谷駅。
近鉄で走っていた特急列車(16000系)が大井川鉄道で活躍中です。この車両は、1966(昭和41)年竣工。2002(平成14)年譲渡され、2004(平成16)年大井川鐵道にて営業運転が開始されました。*1
普通列車なので、特急料金はかかりません。
大代川を渡ると、もうすぐ金谷駅です。
昭和40年代生まれ。大鉄普通電車の代表。
金谷の台地には、大井海軍航空隊があり、金谷町の大井川堤防西側に4軒の遊廓が造られました。*1
大井川堤防西側の金谷東1丁目。
製材所の敷地。
遊廓(軍慰安所)があった場所。*1
金谷遊廓=軍慰安所について
今回は、金谷(静岡県島田市)の町並みを散歩します。
金谷宿は、大井川の右岸(京都側)にあった宿場町です。
文政4年の旅枕五十三次に、「此宿飯盛、島田に同じ、川留の心得もまたおなじ」とある*1 ように、増水で大井川の川越が禁止されると、江戸へ下る旅客が足止めされ、島田宿と同様、賑わいをみせ、飯盛女を置く飯盛旅籠屋もありました。
大井川近くに、「金谷宿川越し場跡」と案内板が建っています。
川越人足は、50人ずつ一番から十番まで組み分けされ、詰めていました。
輦台を担ぐ人足。肩車での川越しもありました。
かつての宿の位置を示す看板が掲げられています。
金谷も「此宿飯盛、島田に同じ、川留の心得もまたおなじ」にある通り。
アタミ・ロープウェイで山頂まで上ると、熱海秘宝館が出迎えてくれます。
熱海秘宝館の何が感動的かと言えば、ボタンを押せばちゃんと展示品が動き出すところで、他の秘宝館とは一線を画し、アミューズメント性が高いことです。*1
入口にある「妖妃マーメイド」は、かつては実際に動き、歌っていました。この歌の前には、マーメイドが「ようこそ秘宝館へ。あなたのいらっしゃるのをずっとお待ちしておりましたわ。」とささやいてくれました。*2
亀の置物。
エロティックな壁画とともに、芸能人のサイン入り色紙が掲示されています。
P.46
熱海秘宝館の何が感動的かと言えば、ボタンを押せばちゃんと展示品が動…
P.138
熱海秘宝館のテーマソングを歌う「妖妃マーメイド」が入館者を出迎え…
今回は、熱海(静岡県熱海市)の町並みを散歩します。
熱海港近くにアタミロープウェイの山麓駅があります。
駅のあちこちに、「熱海秘宝館」の名が書かれています。
レトロなゴンドラに乗って山頂を目指します。
約3分で到着です。
今回は、熱海(静岡県熱海市)の町並みを散歩します。
熱海海岸に建つ「貫一お宮の像」。
貫一とお宮の別れの場面が描かれています。
金色夜叉の碑。
尾崎紅葉は、森鴎外と並んで明治を代表する文豪です。金色夜叉が熱狂的支持を得て、その舞台となった熱海海岸は一躍全国に知れ渡りました(碑文より)。
伊豆長岡駅から東へ約1.5km。世界遺産で国指定史跡の「韮山反射炉」があります。
反射炉とは、金属を溶かし大砲などを鋳造するための溶解炉。韮山反射炉は、実際に稼働した反射炉として国内で唯一現存するものです。*1
鋳台(鋳型)を置く場所。
24ポンドカノン砲。迫力があります。
伊豆長岡の温泉街の北側にある㐂むら。
餃子専門店です。
メニューは餃子(大、中、小)のみ。
ビールと餃子(大)を注文。餃子は、おまんじゅうのような独特の形をしています。
温泉場出逢い通りの北側。
パチンコ後楽園※1 が看板が残る通りを南側へ進むと、円柱型のビルが建っています。
スナックやバーが入居しているビルです。
入口。
健康マッサージと書かれた看板。エステの文字が消されています。
県道伊豆長岡三津線の道路沿い。
スナックが点在しています。
看板建築のスナック。
奥まった場所にあるスナックらしき建物。
温泉場出逢い通りから、県道伊豆長岡三津線を西へ進むと、南へ入る路地があります。
中華「白扇」と書かれた味のある看板。
たからや遊技場。「ボットル」「シャテキ」。
美容院。
今回は、伊豆長岡(静岡県伊豆の国市)の町並みを散歩します。
古奈の西琳寺の前に建つあやめ湯。
看板に「共同湯」と書かれている通り、地元の人々が日常的に利用する公衆浴場です。
絶世の美女「あやめ御前」にちなんで、あやめ小路、あやめ湯と名付けられているのだと思います。
源泉かけ流しの温泉を楽しめます。
浴場の裏側。
今回は、伊豆長岡(静岡県伊豆の国市)の町並みを散歩します。
温泉街から源氏山公園へ向かう登り道の途中に、広場があります。
「菖蒲御前」の像。広場奥の壁面がくり抜かれた場所に安置されています。
あやめ御前の案内板。かなり摩耗しています。
絶世の美女として誉れの高かったあやめ御前は、伊豆長岡の古奈の里におよそ800年前に生まれました。
滑河駅の北口にある椎名食堂。
名物は、利根川天然うなぎの「うな重」「うな丼」です。
最近、うな重は値上げされたようですが、それでも2,500円。ラーメンは350円です。
うな重とビールを注文。
今回は、成田(千葉県成田市)の町並みを散歩します。
出世開運稲荷大明神へ向かう参道。
玉垣。
角海老の名があります。
台東区吉原京町と読めます。
富士山駅から西へ200mほどのところにある吉田うどんのふじや。
暖簾には、富士山牛玉印*1 が描かれています。
たくさんの芸能人などが訪れる名店です。
ビールと天ぷらうどんを注文。無料レンコンきんぴらは終わり次第終了です。
富士みち(本町通り)の途中。
金太郎製菓。
軒下に「菓子金太郎」の文字が見えます。
店舗の前面部分に、多数のホーロー看板が掲げられています。
富士吉田の上吉田地区は、富士山信仰の宿坊として発展し、今の御師の家が多く残っています(案内板:「上吉田御師宿坊の町並み」より)。
宿坊の入口には、このような石の門柱が建っています。
御師。
御師の家の中門。風格があります。
小室浅間神社(写真右奥の鳥居)の近く。
古い商店が建ち並びます。
レトロ電柱。
レトロ電柱は、数本並んでいます。
愛人の路地※1 を抜けて、さらに進むと目の前にコンクリートの建物が立ちはだかります。
モダンなデザイン。「フォーエバー」という名の店だったようです。
人魚の絵にSAUNAと書かれています。:
東側から。
新世界乾杯通りのゲート※1 から入り金寿司の脇を通り抜けると、「愛人」の看板。
その向こう側には迷路のような幅の狭い路地がクランク状になって続いています。
エアポート。Barセクシー。
クランク状の路地を反対方向から。
西裏通りを下っていくと、東側に「新世界乾杯通り」の入口の看板があります。
以前の「新世界通り」の看板※1 は、リニューアルされました。
入口看板を入ったすぐのところに建つ3階建ての木造建築。
伝統的な和風建築です。
金寿司。
今回は富士吉田(山梨県富士吉田市)の町並みを散歩します。
本町2丁目商店街からは富士山がよく見えます。
道路上に飛び出して撮影する人が後を絶ちません。
注意看板がたてられています。
本町2丁目交差点の北東側の角は、最も人気の高い撮影スポットになっているようです。ほとんどが外国人です。
本町7丁目の商店街にカラフルな看板建築の商店が連続する一画があります。
バイク関連の店。
店の入口に立つ警察官人形(上半身のみ)。
わずかに、唇の赤色が残っています。
島田市の本町7丁目の商店街。
黄色の事務機と白の美容室。
後ろから見ると、1階建ての看板建築であることが解ります。
駐車場の看板。
蓬莱橋から、北へ向かう通り。
雪印牛乳の牛乳箱。
「牛乳ビンも大切な資源です。お忘れなく受箱へ」
資源のことをコメントしている牛乳箱は珍しいです。
上蓋もきちんとしています。
蓬莱橋は全国有数の茶園である牧之原台地の開墾のため、明治12(1879)年に架けられた農業用の橋です。大井川にかかる蓬莱橋は全長897.4mの木造歩道橋で、「世界一長い木造歩道橋」としてギネスブックに認定されています。*1
渡橋料は100円です。
橋の中ほど。島田大橋が見えます。
島田大橋から見た蓬莱橋。
今回は、島田(静岡県島田市)の町並みを散歩します。
島田市民病院(写真左奥)の道路を挟んだ向かい側(写真右)に「髪の塚」の碑があります。
「髪の塚」の碑。案内板によると、島田髷に由来するもののようです。
島田髷は、江戸時代寛文年間に東海道島田宿の遊女たちの始めた髪型で、しめつけ島田、やつし島田、投(なげ)島田、小万、腰折、小枝(さえだ)、きりずみ、結び、とりあげ、文金、つぶし、かけおろし、いたこ、吉原など、島田の名を付した髷が、江戸時代全期を通じ行われました。*1
島田髷は、現在ではおもに婚礼の髪型としてその伝統的美しさを継承しています。また、島田市では、島田髷を最初に考案した虎御前への感謝祭髷供養をかねた「島田髷祭」が毎月9月の第三日曜日に開催されます。(案内板より)。
「髪の塚」の碑にあるお地蔵さん。
成田から成田線にのって2駅目の滑河駅前にある大橋屋食堂。
「御休」と書かれた看板。歴史を感じます。
店内は、座敷とテーブルの両方。広くてゆったりとできます。
天丼を注文。
今回は成田(千葉県成田市)の町並みを散歩します。
成田山新勝寺境内にある釈迦堂は、1858建立の国指定重要文化財です。*1
狛犬。
台座には「新吉原」の名が刻まれています。
吉原講。
三島駅の南側。三島市民文化会館の裏あたり。
建物と建物の間にゲートと屋根が設けられています。
飲食店が連なります。
南側のゲート。
三島市街の歓楽街の入口近くに「白雪プラザ」のゲートが建っています。
ゲートの上には、富士山をイメージしたと思われるオブジェがのっています。
白雪プラザの看板。
看板の裏側。
三島市街を流れる桜側沿いに、三島ゆかりの文学者たちの文学碑が並んでいます。
十返舎一九「東海道中膝栗毛」の文学碑。
三島の宿に着いたところで、客引きをする宿場女との会話が描かれています。
三島の宿へつくと、両側よりよびたつる女の声々……
女「お泊りなさいませ、お泊りなさいませ」
弥次「エエ、ひっぱるな、ここを放したら泊まるべい」
女「すんなら、サア、お泊り」
弥次「あかんべい」
正岡子規の旅行記「旅の旅の旅」より。
三島の町に入れば小川に菜を洗う女のさまもややなまめきて見ゆ。
東海道中膝栗毛
三島広小路駅近くにある中華料理の幸華。
店内には、ブルース・リーの写真とヌンチャクを持った武道家のイラスト。
チャーシューメンとビールを注文。
裏口。
三島駅在来線ホームから新幹線ホームへ向かう通路にエスカレータが設置されています。
エスカレータは、途中で平坦(動く歩道)になり、その先で再びエスカレータになっています。
動く歩道とエスカレータが一体化した日本初のエスカレータで、「ゆうロード・三島」と名付けられました。
上から見た「ゆうロード・三島」。
今回は、三島(静岡県三島市)の町並みを散歩します。
三島駅の東海道線上りホームに立ち食いそばの「桃中軒」の店舗があります。
同じ桃中軒の沼津そば店とは異なり小型券売機はなく、店員さんに直接注文します。
三島そば店の特別メニューとして、三島コロッケ(三島市のご当地グルメ。箱根西麓でとれたメークインを使用*1)をのせた「コロッケそば」が食べれます。
コロッケは、店内で揚げるので、アツアツ・ホクホクです。
「温泉駅」バス停の裏側に古い木造の建物があります。
かつてのストリップ劇場の建物。
2階建ての木造建築。
「霧島劇場」の文字が残っています。
温泉場出逢い通りの南側。
「めん亭」のビル。
「お食事処麺めん亭」の看板。隣には」スナック「ブス」の看板。
皿うどんとビールを注文。
伊豆長岡温泉の中心街「温泉場出逢い通り」。
温泉街らしいレトロな建物が建ち並んでいます。
あけぼの遊技場。
温泉街につきものの射的場でしょうか。昔ながらの雰囲気を残しています。
南山荘は、明治40年頃に開業した旅館です。現在は休業している模様です。
この旅館を南山荘と名付けたのは北原白秋で、さらに、川端康成も大正の終わりから昭和にかけてたびたび滞在しました。著作「伊豆温泉旅行記」に宿の名前が登場します。*1
南山荘は。豪奢な迷路旅館で、渡り廊下を繋いでいけば一周できる構造になっています。*1
宇平橋は赤い欄干を太鼓橋のように沿わせた渡り廊下で、橋の名は、明治40年頃に南山荘を開業した創業者の名からとったそうです。*1
伊豆長岡温泉街の「温泉場出逢い通り」の北側。
「パチンコ甲子園」の看板があります。すでに店舗は無いようです。
看板の裏側。
裏側にはネオン管などの配線がされています。
伊豆長岡温泉の温泉街東側にある源氏山。
ハイキングコースになっています。
頂上の源氏山公園からは、温泉街を見渡せます。
葛城山(かつらぎやま)方面。
今回は、伊豆長岡(静岡県伊豆の国市)の町並みを散歩します。
伊豆長岡温泉の古奈地区。あやめ小路沿いに建つモダンな建物。
バーのような佇まい。
メニュー。
奇抜なデザインです。
清澄庭園の東にある「とんかつ常陸」。
落ち着いた佇まいです。
とんかつ中心のメニュー。
かつ重とビールを注文。
三好1丁目の成等院の隣に紀伊国屋文左衛門の墓と碑が建っています。
紀伊国屋文左衛門は、江戸時代の豪商で、大老柳沢吉保や勘定奉行荻原重秀と結び、巨額の富を得たと伝えられています。正徳(1711~16)の頃には家運が衰え、深川八幡一の鳥居付近に住み、そこで死去しました。*1
正面の碑の左奥にあるのが墓です。
現在の墓石は再建されたものです。「紀州みかん」の話や「紀文大尽」と呼ばれ豪遊した逸話が多数あります。*1
碑文には、「人のため蓄財に執着せず、永代橋の架設、清澄庭園の創始、深川八幡宮の神輿の奉納など幾多の貢献をなした。」とあります。
現在、墓域に立ち入ることはできません。
永代1丁目の交差点。
紀文稲荷の鳥居が並んでいます。
紀伊国屋文左衛門の屋敷は、現在のみずほ銀行深川支店のあたりにありました。付近一帯は運河が縦横に走り、ここに文左衛門の船蔵があり、航海の安全と商売の繁盛を祈ってこの地にお稲荷様が祀られていました(案内板より)。
元の境内は現在地より30m北西にありましたが、大和永代ビルディング(写真後ろ)建設に伴い現在の地に移転しました(案内板より)。
清住庭園東側共同ビルは、南側に一棟※1、北側にもう一棟があります。
南側※1 同様、1~2階部分のファザードが共通化されています。
音楽教室。
建物が向き合う部分。左側は外壁が再塗装されていますが、ファザードは共通です。
三好1丁目のマンションにある銭湯の辰巳湯。
新春から営業中です。
マンションの後方に銭湯が隣接されている構造です。
露天風呂、サウナ。
今回は、門前仲町(東京都江東区)の町並みを散歩します。
深川不動堂 (成田山東京別院)の東に隣接する深川公園に建つ石造燈明台。
日清戦争(1894~95)の勝利を記念して建立されました。*1
外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石版が359点貼られています。歌舞伎役者、芸能界、土木事業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界。また魚河岸、船頭、吉原・洲崎の遊廓や割烹料理屋などが見られ、深川不動堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえます。*1
東側。吉原京二「河内楼」、吉原京貳「枩尾張楼」などの名が見えます。
南側の下部。市川團十郎、尾上菊五郎など歌舞伎役者の名が見えます。
日清戦争(1894~95)の勝利を記念して建立された。明治28年12月に起工。同31年…
国道356号線(利根水郷ライン)沿いにある看板建築の呉服店。
隣には蔵があります。
2階部分には、紋章風の装飾。
斜めからみたファサード部分。
今回は、安食(あじき、千葉県印旛郡栄町)の町並みを散歩します。
大鷲神社にある魂生大明神。
五穀豊穣、縁結び、子授け、安産、夫婦和合の神で、延喜年間(西暦900年)今から千年位前、庶民の素朴な性神信仰が各地におこり、男根神、女陰神に心をこめて祈願しました(案内板より)。
大小さまざまな男根が安置されています。
中央の男根は、高さ2.5m、周囲2.3mの石製で、日本一の大きさです(案内板より)。
「小さな男根」を人知れず借りて大願成就の暁には同じ男根を作り、合わせて二体の男根を感謝の意をこめて奉納したということです(案内板より)。
沼津駅からバスに乗って黒瀬町で下車。100mほど東へ歩くと香貫山登山口です。
香貫山の頂上に展望はありません。
頂上近くの展望台からは、沼津市街を見渡せます。写真右奥は、愛鷹山。
南側には、沼津アルプスが連なっています。
天ぷら専門店の魚ぶん。
創業は明治37年です。
ごそ(ハシキンメ)、でんでん(オオメハタ)、など、地魚が充実しています。
地魚の天丼を注文。本日は、ごそ、でんでん、アカメゴチ、などです。
沼津駅の南側の大手町2丁目。
奇跡的に残っている横丁があります。
L字型になった路地の両脇。
スナックなど、飲み屋が並んでいます。
高島町の味好小路※1 の反対側にある中央小路。
奥行のある建物です。
裏側に入口。
裏側の通路で味好小路の裏口などに続いています。