音戸町遊廓の南端に、開廓記念碑があります。遊廓が開設されたことを記念した碑が建っているのは、珍しいケースと言えます。
台座には、遊廓開設者の名前が刻まれています。
明治四十年開廓と彫られています。
開廓記念碑は、遊廓のメインストリートを見つめるようにして建っています。
音戸町遊廓の南端に、開廓記念碑があります。遊廓が開設されたことを記念した碑が建っているのは、珍しいケースと言えます。
台座には、遊廓開設者の名前が刻まれています。
明治四十年開廓と彫られています。
開廓記念碑は、遊廓のメインストリートを見つめるようにして建っています。
音戸町は、関西における六大港の一つだったため、遊女も昔からいましたが、音戸町遊廓ができたのでは、明治38年で、貸座敷8軒、娼妓85人の規模でした。*1
音戸町鰯浜の通りから、北側へ入ったところが遊廓への入口です。
遊廓があった通りの突当りには、芝居小屋の音戸座がありましたが、現在は跡形もありません。平成16年頃までは、写真右手前のあたりに名残のある古い民家がありましたが、現在は無くなっています。*2
逆方向から見たところ。
高台に登ると、瀬戸内の海と音戸大橋が見渡せます(写真右手前が音戸町遊廓)。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.135-P.436 「全国遊廓案内」
*2 千田武志:呉・江田島今昔写真帖(郷土出版社,2004)P.64
古い町並みが残る音戸町鰯浜。
レトロな銭湯があります。
「桜湯」と書かれた京行燈。
建物の下部は、煉瓦造りです。
今回は、倉橋島(広島県呉市)の町並みと風俗を散歩します。倉橋島は、呉市の南方の瀬戸内海に浮かぶ島で、呉とは音戸大橋でつながっています。
音戸町鰯浜には、古い町並みが残っています。(写真奥に見えるのは、音戸大橋のループ式の取付道路です)
音戸大橋西詰近くに、元アイドル歌手の城みちるさんの生家の城谷本店があります。*1
丸型の郵便ポストが映える美しい民家です。
城みちるさんは、1973年12月、「イルカに乗った少年」でデビューし、甘い歌声とマスクでいちやくスターダムにのぼり、翌年にはレコード大賞新人賞をとりました。3年後の20歳のときに、父親の家業の電器屋を継ぐために、突然、芸能界を引退しましたが、その後、芸能界への復帰を果たし、現在も歌手・タレントとして活躍されています。*1*2*3
【参考文献】
*1 週刊明星(1976.9.12)P.173-P.174 「ヤングアイドル城みちる引退の陰に秘められた伊藤咲子との交際」
*2 週刊平凡(1976.9)P.38-P.39 「城みちるが突然、歌手の座を捨て引退」
*3 週刊平凡(1986.3)P.108-P.109 「『イルカにのった少年』から12年 あの城みちるが電気店主を捨て芸能界復帰へ」
登富町商店街近くの美容室。自転車置き場の看板の脇に牛乳箱があります。
カミムラ牛乳の牛乳箱。「牛乳は美と健康のカップル」です。
岩国駅前の旧10番町バー街の近く。
通津牛乳の牛乳箱。通津は岩国市の町名です。牛乳箱には子供の顔が描かれています。
岩国のローカル新聞である「興風時報」の記事によると、岩国では登富町界隈に遊廓があって、大正末までに8軒ほどの貸座敷がありました。日中戦争が始まる頃になると、帝人や東洋紡などの大工場の操業もあって、岩国の町は景気が良く、遊廓は賑わっていました。*1
登富町商店街の奥まったあたりには、古い町並みが残されています。
氷屋さんのあるあたり。
旧町名「新地」の看板があります。
【参考文献】
*1 藤目ゆき:女性史からみた岩国米軍基地(ひろしま女性学研究所,2010)P.22
岩国の錦帯橋の近くの岩国二丁目に、登富町商店街と呼ばれるレトロな商店街があります。
商店が建ち並んでいた頃の案内板。
現在は、静かな商店街です。
反対側のアーチ。岩国市小売市場と呼ばれていたようです。
岩国の下川地区は、基地の影響を大きく受けた地域で、看板がアルファベットで書かれた商店が米軍基地の正門まで続いています。
基地正門前の通り。
洋服屋は特に、アルファベットで書かれた商店が目立ちます。
パブ・スナックが建ち並ぶ一画。
【参考文献】
*1 宮田伊津美:岩国・柳井今昔写真帖(郷土出版社,2009)P.23
駅前横丁の中ほどのあたりにあるキャバレー(タレントパブ)。
入口の脇に「岩国初!!初来日」の看板。
建物側面には、自販機が2台あります。
自販機と同じ赤色の掲示板に店内の写真が掲載されています。
駅前横丁の西側に続く通りは、岩国の歓楽街の中心です。
外国人パブなどを中心に、スナックや飲食店が建ち並びます。
中国美人の店。入口の上部には自動車のオブジェ。
アルファベットで書かれた看板で飾られたスナック店。
岩国駅前に、「10番町」と呼ばれていたバー街がありました。
かつてのバー街は、現在は長屋風の住宅地に変貌しています。
わずかにバー街の痕跡が残っています。
一つ奥の通り。スナックの看板が一つだけ残っていました。
【参考文献】
*1 J.F.モンゴメリ:夜のニッポン探検(東都書房,1967)P.208-P.213
今回は、岩国(山口県岩国市)の町並みと風俗を散歩します。
JR岩国駅前のバス停脇に、白ポストがあります。
金属製で重厚感のある箱で、際立った存在になっています。
その存在感のためか、鳩の糞の張り紙の貼り場所ともなっていいます。
箱の側面には、頑丈な鍵が取り付けられています。
糸崎港に面した遊廓跡の裏手には、古い町並みが残っています。
海辺近くの町並み。
壊れた母屋がそのままの状態で放置されていました。
医院だった建物。糸崎遊廓の検梅は、尾道遊廓の駆梅院からの出張検梅でした。*1
【参考文献】
*1 忍甲一 編:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.296-P.298,P.322-P.324
今回は、糸崎(広島県三原市)の町並みと風俗を散歩します。
糸崎は、JR山陽線の駅でいうと、新幹線が停車する三原駅の隣の駅です。駅から徒歩10分ほどの距離にある糸崎港は、古くからの良港で、港の東側の松浜には遊廓がありました。
海辺側からみた松浜遊廓跡。各遊廓は、L字型、ロの字型とさまざまな間取りがありましたが、1階は台所、炊事場、風呂などがあり、2階は娼芸妓(ベッピンさん)の部屋でした。*1
木江や御手洗と同様に糸崎にもチョロ(遊女が小船に乗って船員が寝泊まりする船に出稼ぎに行きましたが、その小船をチョロといいました。)がありました。*1
当時の雰囲気が残る古い建物が連なっています。
【参考文献】
*1 忍甲一 編:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.296-P.298,P.322-P.324
姫路駅前広場の再開発に伴い、駅の横断通路も改装中です。
商店街の通路脇に白ポストが設置されています。
水色の文字で描かれています。
紋章が描かれている白ポストは珍しいと思います。厳格な印象を受けます。
野里の商店街の南端に位置する「野里銀座商店街」。
看板には、「いつも楽しいお買い物センター」と書かれてして、楽しそうな雰囲気です。
この日は土曜日だったためか、シャッター通りと化しています。
魚屋さんが1軒だけ営業中です。
野里商店街は、梅ヶ枝町の南側に南北に連なる商店街です。
歴史ある商店街には、古い建物が残っています。
古いたばこ屋さん。
「こばた」と読んでしまいそうな看板。
今回は、姫路(兵庫県姫路市)の街並みと風俗を散歩します。
姫路市梅ヶ枝町には、かつて遊廓がありました。*1
1920年発行の「姫路市新地図」*2 の梅ケ枝町付近には、「遊廓」の文字が記されています。
貸座敷が11軒あったそうですが、現在は住宅地になっています。
古い建物も何軒かあります。
奥行のある木造の母屋。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌14(三一書房,1993)P.128 「全国遊廓案内」
*2 大淵善吉:姫路市新地図(駸々堂旅行案内部,1920)
明石駅前の商店街から路地を入ったところに、木造建築の写真館があります。
玄関部分はタイルで装飾されています。
色鮮やかなタイル。
路地はコの字方型になっていて、再び商店街に出ます。写真奥は魚の棚商店街です。
明石駅前の桜町には、高度成長期に、旅館、スタンド、スナック、バー、そしてキャバレーなどが集まって一大「社交街」を形成しました。*1
現在は、居酒屋やスナック店などが営業しています。
「花街ビル」という名前のビルもあります。
「銀座横丁」、「さくら小路」、「白雲通り」などの通りや小路が連なっています。
【参考文献】
*1 現代風俗研究会:20世紀の遺跡(河出書房新社,2002)P.34-P.38111
高層マンションが建ち並ぶなか、かつての遊廓であった建物があります。
昭和30年代に貸座敷から旅館に転用され、その後、住宅に転用されたものです。*1
歴史を感じさせる木造の建物です。
1階部分の格子には、遊廓建築の特徴が残されています。
【参考文献】
*1 現代風俗研究会:20世紀の遺跡(河出書房新社,2002)P.34-P.38
今回は、明石(兵庫県明石市)の町並みと風俗を散歩します。
JR明石駅を下車し、南側のフェリー乗り場の方へ向かって歩くと、錦江橋(きんこうばし)があります。
明石港に面した出島状の中崎には、江戸時代、お茶屋があって風光明媚な場所であったようです。
中崎には、戦前は遊廓があって14の楼が「明石貸座敷業組合」をつくっていましたが、戦後は赤線に移行しました。*1
電柱のプレートには、「シンチ」と書かれています。
1958年の売防法施行後、貸座敷の多くは旅館などに転業したほか。大規模なヘルスセンター、ボーリング場、ローラースケート場ができるなど、新たなスタートをきりましたが、現在はマンションが立地する住宅地に変貌しました。ヘルスセンターの廃墟は2000年に取り壊され、「明石海浜ヘルスセンター」の名にちなんだ「ヘルス明海」という駐車場になりました。*1
【参考文献】
*1 現代風俗研究会:20世紀の遺跡(河出書房新社,2002)P.34-P.38