海岸通の北西側に、古い町並みが残る一画があります。1970年頃の住宅地図によると、「バー・ブイ」「文楽スタンド」「幾久恵旅館」「多津美スタンド」(写真左側)、「銀波旅館」「河上旅館」(写真右側)があって、この付近は飲み屋と旅館が建ち並ぶ繁華街だったようです。
月: 2015年1月
今回は、洲本(兵庫県洲本市)の町並みを風俗を散歩します。
明治12年に免許された洲本遊廓は、洲本港の入口の漁師町と呼ばれてた場所(現在の洲本市海岸通)にあって、終戦後まで同じ場所で営業されていました。*1*2
昭和4年発行の市街図*3 には、大谷ずし(現在の大谷食品店)の北側の一画(現在の淡路第二プリンスホテルや旅館小柳があるあたり)に「遊廓」の記載があります。
「小柳旅館」脇の通り。
アルサロ「ミススモト」があった通り。*4
【参考文献】
*1 新見貫次:写真集明治大正昭和洲本(国書刊行会,1979)P.111
*2 新見貫次:兵庫史学(1963.02,通号32)P.46-P.55 「州本遊廓」
*3 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第164号「兵庫県及び徳島県」
*4 関西図書出版社:洲本市(関西図書出版社,1970)P.10
参考文献
参考記事
高台に建つ「タワーホテル新松原」。市街からも遠望できる高層ホテルです。
ホテルへの急坂を上っていくと鳥居が建っています。
思わず見上げてしまいます。
現在は休業しているようです。
参考文献
参考記事
伊東市渚町の商店街にレトロな美容院があります。
一階部分は、グレーのタイルで装飾されています。
2階部分の窓には、円型のデザイン。
玄関脇には、置物がディスプレイされています。
参考文献
参考記事
猪戸1丁目のスナック街の路地。
路地の曲がり角の母屋の前にゲートの骨格部分だけが残されています。
ゲートの下部の取り付けられた電球。
路地はコの字型になっています。
参考文献
参考記事
宵まち通りの南側の通り。スナックやパブが密集する通りです。
フィリピンパブの看板。
現在、パブとなっているこの場所は、かつての「伊東トルコ風呂」があった場所です。
すなっく「黒美人」。ビルのガラス窓に書かれています。
参考文献
参考記事
かつて花街だった猪戸界隈の通りを挟んだ南東側は「宵まち通り」と名付けられています。
現在はスナック街になっています。
ゆるやかにカーブしている通り。
ナイトパブの看板。
参考文献
参考記事
伊東駅前の湯川にある妙瀧稲荷神社。
妙瀧稲荷神社は、伊東の花柳界の人達に厚く信仰されていました。伊東駅が出来る以前は、このあたり淋しい場所でしたが、花街が発展していくと、綺麗どころの参詣が多くなりました。*1
妙瀧稲荷神社の名前があります。
稲荷神社の前は、現在は葬儀式場「シティーホール白寿」になっています。
【参考文献】
*1 伊東市立伊東図書館:続・絵はがきー伊東百景(伊東市立伊東図書館,2001)P.83,附図
参考文献
参考記事
今回は、伊東(静岡県伊東市)の町並みと風俗を散歩します。
伊東駅から南へ徒歩約5分のところに、伊東旧見番の建物があります。
伊東の花街は、明治時代に猪戸に花街が存在し、新地と呼ばれていましたが、新地の西側の地に新しい花街が発展し、伊東線開通に力を得て、発展し続けました。戦後は櫻木町方面に花街ができました。*1
建物の裏側。
現在は、観光関連の拠点になっています。
【参考文献】
*1 伊東市立伊東図書館:続・絵はがきー伊東百景(伊東市立伊東図書館,2001)P.83,附図
参考文献
参考記事
熱海市中央町の熱海街道沿いに、タクシー会社のモダンな建物があります。
建物の上部は、商店の看板建築のようなデザイン。
窓の周辺の装飾。
タクシー会社の配車センターとしての役割を果たしています。
参考文献
参考記事
熱海の糸川べりには、歓楽街の名残を感じさせるスナックなどの建物が残っています。
建物の角の部分の装飾。
側面部分。入口のドアは斜めに取り付けられています。
スナックの看板。
参考文献
参考記事
熱海市渚町は、居酒屋やスナックなどが建ち並ぶ繁華街です。
参考文献
参考記事
熱海市街の中央を南北に貫く商店街の「熱海銀座」。
商店街に面して、ストリップ劇場の「熱海銀座劇場」があります。
「StripShou(ストリップショー)」の看板。よく見ると、「Show」ではなく「Shou」です。
建物の名称は「銀座ビル」。ビル内にスナックの店舗も入居しています。
参考文献
参考記事
今回は、熱海(静岡県熱海市)の町並みと風俗を散歩します。
JR熱海駅近くの商店街に昔懐かしい雰囲気のパチンコ屋があります。
残念ながら、すでに閉店しまっているようです。
レトロ感のある店構えです。
温泉街にはつきもののスマートボールもたのしめたようです。2000年の正月のポスターが貼られていることから、閉店は2000年頃であったと推察されます。現在まで15年間、このままの状態で残されているようです。
参考文献
参考記事
藤枝市街にある飽波神社。
狛犬の台座には、「藤枝町料業理組合」の名があります。
台座の裏側には、料亭屋の名前が刻まれています。
魚金楼、魚安楼などの名があります。
魚安楼(うおやすろう)は、藤枝静男の親戚にあたり、明治期の藤枝宿を代表する料亭でした。*1
藤枝静男の小説「硝酸銀」の中で料亭「魚宗楼」として登場します。*2
藤枝静男は、「硝酸銀」その他の作品で、魚安楼一族に流れる性的乱脈、淫蕩の血をあますところなく書きました。*3
【参考URL】
*1 藤枝市郷土博物館・文学館:小川国夫の書斎イメージ再現と新収蔵品資料展 藤枝宿の料亭「魚安楼」の徳利
【参考文献】
*2 講談社:現代の文学.10 (藤枝静男,秋元松代)P.109-P.144 硝酸銀
*3 藤枝静男:或る年の冬或る年の夏(講談社,1993)P.237 川西政明「解説 藤枝静雄の死ののちに」
参考文献
参考記事
藤枝新地近くには、スナックが点在しています。
新地の南側の入口。
新地の北側の入口の通りには、カフェーが建ち並んでいました。*1
写真左側の空地には、銭湯の千歳湯、旅館ホワイト(旧保和糸料理店)がありました。*1*2
藤枝市出身の作家、藤枝静雄の小説*3に登場する遊廓の入口のカフェはこの付近であったと思われます。
カフェ・ホワイトは、洋酒とエプロン姿の女給といった新形式の社交場でした。藤枝で最初のカフェとして、昭和24年4月に遊廓の入口付近に開店しました。*4
【参考URL】
*1 有限会社 佐野石材:藤枝宿 歴史 「昭和10〜20年頃 藤枝・新地界隈覚え」藤枝文学舎を育てる会 作成
【参考文献】
*2 大畑宜吉:藤枝市明細図(東海地図出版社,1957)P.9
*3 藤枝静男:或る年の冬或る年の夏(講談社,1993)P.58,P.69
*4 八木洋行,野本寛一:写真集明治大正昭和藤枝(国書刊行会,1980)P.105
参考文献
参考記事
明治37年1月の火事で全焼した上伝馬町の遊廓に代わって、新たに「新地遊廓」が公認されました。入口には、大門があって、清水屋、千葉屋などが有名でした。*1
1958年の住宅地図*2 の広告欄に記載の割烹旅館「山泉」に新地と書かれていることから、山泉旅館があった場所が新地だったようです。
山泉旅館があった敷地の裏側。
電柱の「新地」のプレート
【参考文献】
*1 静岡郷土出版社:目で見る志太100年史(静岡郷土出版社,1990)P.62
*2 大畑宜吉:藤枝市明細図(東海地図出版社,1957)P.9,P.36
参考文献
参考記事
藤枝宿の食売旅籠は、栗田屋、鈴木屋、山城屋、みそや、なべ屋、武蔵屋、まるや、油屋、江戸屋、鍋屋、笑子(えびす)屋、村田屋、山中屋、の13軒を超えていました。*1
写真は、武蔵屋、まるや、油屋があったあたり)*2
現在の商店街の中心部。みそや、なべ屋、がありました。*2
栗田屋、鈴木屋、山城屋、があったあたり。(写真左は、新明宮。)
東大サッカー部の記録*3 によると、昭和33年の第38回全日本選手権(天皇杯)が藤枝で開催され、そのときの東大サッカー部の宿泊所に、売春防止法で商売換えをしたばかりの十九万(トクマン)というお女郎屋さんが割り当てられました。
割烹・旅館「十九万」があったあたりは、現在はマンションに建て換わっています。*4
【参考文献】
*1 江戸町名俚俗研究会:地方図特集2 東海道藤枝宿町並明細図 東海道島田宿家並明細図 東海道袋井宿略図及青楼変遷図 ほか2編(江戸町名俚俗研究会,1966)P.6
*2 野本寛一,八木洋行:ふるさと百科藤枝事典(国書刊行会,1984)P.28
*3 東京大学運動会 ア式蹴球部:闘魂(東京大学運動会 ア式蹴球部,1988)P.59-P.61 小山富士夫「農学部の合宿所」
*4 大畑宜吉:藤枝市明細図(東海地図出版社,1957)P.9
参考文献
参考記事
今回は、藤枝(静岡県藤枝市)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代の藤枝宿は、大井川の川留めが解けると川越で繁盛した宿場町で、旅籠屋には当然飯盛女もいました。*1
現在の上伝場町付近が藤枝宿の中心でした。
問屋場跡。現在は藤枝交番になっています。
ふとん店の艶っぽい看板。
【参考文献】
*1 今井金吾:今昔東海道独案内(日本交通公社出版事業局,1994)P.131-P.132
参考文献
参考記事
竹鼻町では、木製の消火器箱をあちこちで見かけます。
軒下に取り付けられた大型の木箱。
大型のホース収納庫。
竹鼻町東町のホース置き場。表面がガラス張りなので、中身のホースの様子がよく見えます。
参考文献
参考記事
竹鼻町の西岸寺近くの通り。
ローンの看板。アダルトという社名です。
男性用かつら「トウハツ」。
他にも、「白アリ」など、ディープな内容の看板ばかりです。
参考文献
参考記事
羽島市映画資料館は、めずらしい公立の映画資料館です。
この敷地には以前、竹鼻朝日館という映画館があり、昭和9年から昭和46年まで営業していました。*1
かつて、この地にあった映画館(竹鼻朝日館)の展示コーナー。
竹鼻朝日館の写真。全面のモダンなデザインは、現在の資料館の建物のデザインに継承されています。
映画ポスターの展示コーナー。
【参考文献】
*1 羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館 パンフレット
参考文献
参考記事
綿の町、竹鼻に数軒あるふとん店のうちの一つ。
店の前に、人力車が展示してあります。椅子の幅が狭いことから、女性専用の人力車と思われます。
細かな細工が施されています。
地元の方の話によると、昭和初期の竹鼻には、芸者さんを呼べるような料亭が町中に散在していたとのことです。
参考文献
参考記事
酒蔵の「千代菊」の工場を右に見ながら南下すると、十字路の角に三光稲荷があります。
鳥居には、大正12年と刻まれています。
昭和5年発行の市街図*1 に記載のある料理屋「福元(福本?)」「扇屋」の名前が確認できます。
同じく、料理屋の「久本」
【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図 第205号 岐阜県(東京交通社,1930)
参考文献
参考記事
竹鼻の中心街の北東の通り。
昭和5年発行の市街図*1 によるとこの付近には、食堂の「旭食堂」、料理屋の「一富士」「栄楽」「喜月」がありました。通りには、歓楽街の名残とも思われる雰囲気が残っています。
市街図*1 に記載のある「旭食堂」と思われる「喫茶・お食事 アサヒ」。
この界隈は「新天地」と呼ばれていたようです。
【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図 第205号 岐阜県(東京交通社,1930)
参考文献
参考記事
今回は、竹鼻(岐阜県羽島市)の町並みと風俗を散歩します。竹鼻は、新幹線岐阜羽島駅から名鉄線羽島線から3駅のところにある羽島市役所の所在です。明治時代の近代産業化により木綿産業が発達しました。現在も、その名残と思われる綿ふとん店が多く建ち並んでいます。
市街の東部を 流れる「逆川」に沿って、古い町並みが残っています。
橋の近くの安井商店(写真奥に「安」の字だけが見えます)の手前には、料理屋の「曙」がありました。*1
昭和5年発行の市街図*1 によると、真宗大谷派竹鼻別院の東側には、「竹ヶ鼻見番」があって、市街に20軒ほどの料理屋が散在していました。
写真は、逆川沿い西側の通り。近くには「二葉」「ひさご」がありました。
写真のこの通りの右手前には、「富士家」「福元」がありました。
市街の南側。道がカーブするこのあたりに、「入舟」「松嶋」「五月」がありました。
【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図 第205号 岐阜県(東京交通社,1930)