磐田(中泉歴史公園の公衆トイレ)五七五七七

中泉歴史公園にある公衆トイレ。お洒落な形状です。


清潔感のあるトイレです。


大便器の前に掲げられている標語。心静かに・手を添えて・外に零すな・松茸の露。

 

標語の上部に「急ぐとも」の落書き。つなげると、五・七・五・七・七の短歌になります。
 急ぐとも・心静かに・手を添えて・外に零すな・松茸の露。

磐田(中泉遊廓跡地)秋鹿屋敷内を借用し建設

中泉遊廓があったあたり。手前から、第三常盤楼、三浦楼、第二常盤楼、第一常盤楼と並んでいました。*1


西側の高台からの遠望。


北側から。東側(写真左側)には、磐田日活がありました。*1


中泉歴史公園の入口付近には、公園の歴史について詳しく書かれています。それによると、遊廓は、遊廓は大正8年頃に、秋鹿屋敷内を借用し建設されました。この遊廓は戦後に娼婦制度が廃止(売春防止法施行)された後、小料理店や旅館へと転向し、平成に入ってからは皆解体されました。

 

【参考文献】
*1 善隣出版社:磐田市住宅地図(善隣出版社,1969)

磐田(中泉歴史公園)公園のベンチに門柱

磐田市田町にある中泉歴史公園は、中泉の郷士(江戸時代の武士階級)であった秋鹿(あいか)家の庭園だった場所で、公園内には、扇子池があります。*1

 

公園に設置されている案内看板。
 中泉には、明治30年に遊廓が設置され、昭和の初期の貸座敷には、常盤楼、新常盤楼、三浦楼、森徹栄、などがありました。*2
 1969年の住宅地図*3 には、現在の中泉歴史公園の北側に、森幸一、第一常盤楼、第二常盤楼、三浦楼、第三常盤楼の名があります。


このうちの1軒であったと思われる建物の入口の門柱の写真が掲示されています。


門柱に使用されていた石柱は、現在は公園のベンチとして使用されています。

 

【参考文献】
*1 磐田史談会:磐田ものがたり(谷島屋書店,1988)P.34-P.35
*2 日本遊覧社:全国遊廓案内(日本遊覧社,1930)P.219(0115)
*3 善隣出版社:磐田市住宅地図(善隣出版社,1969)

浜松(夏目食堂)地元の餃子屋さん

遠州鉄道の助信駅の東側。中区新津町ある「夏目食堂」。地元の浜松餃子の店です。


老夫婦が2人でやっている小さな店です。客席は2卓しかありません。そのうちの1卓はほぼ荷物で覆われているため、実質は1卓です。


焼き餃子は、1人前300円。持ち帰り餃子(冷凍餃子)は200円です。


焼き餃子とビールを注文。ビールは缶ビールです。

■カテゴリ 浜松 食文化

浜松(門井ビル)出張配膳婦

浜松市中区田町にある門井ビルは、ステッキガール生みの親にして育ての親である門井襄三(かどいじょうぞう)氏のビルです。*1


門井氏は、”配膳会”という出張配膳婦の組織をつくた人物です。ゆくゆくは第二ステッキガール組織にする気ではないか、といったチマタの声がありました。*1


ビルの5階には、門井薬局がありましたが、開店休業のカタチでした。*1


門井ビルは、浜松市の一等地にあります。

 

【参考文献】
*1 扶桑社:週刊サンケイ(1971.8.9)P.69-P.71「おいろけ浜松にまた新名物〝出張配膳婦〟ステッキガール育ての親の薬剤師が想も新たに」

浜松(二葉園跡)裏木戸

二葉遊廓は戦災で焼けましたが、戦後いちはやく再建され、不夜城としてネオンの輝きを見せました。入口には、「二葉園」と書かれたがゲートがありました。しかし、このネオンも売春防止法によって昭和33年には灯が消えました。*1 当時の名残の旅館が現在も営業中です。


ビジネスホテルの裏木戸(東側)。


当時の屋号。


「宝来」の屋号が残る看板。

 

【参考文献】
*1 谷昌志:懐かしの浜松(羽衣出版,2012)P.107【参考記事】

浜松(二葉遊廓跡)高台に遊廓地を造成

 今回は、浜松(静岡県浜松市)の町並みと風俗を散歩します。 浜松の遊廓は、明治から大正にかけて伝馬町と旅籠町にありましたが、市街地の中心にあったため、大正11年に鴨江の高台に集団移転しました。*1
 鴨江旅館街の大看板*2 は、現在は撤去されていいますが、「鴨江旅館街平成通り」の看板は、今も残っています。


遊廓跡地の西側。高台に遊廓地を造成したためでしょうか。段差が形成されています。


現在、公園になっている遊廓地の東側とは、レンガ塀で仕切られています。


フタバと書かれたの電柱番号札。

 

【参考文献】
*1 谷昌志:懐かしの浜松(羽衣出版,2012)P.107【参考記事】*2 風俗散歩(浜松):二葉町遊廓跡(2008.6)

新居(小松楼まちづくり交流館)元芸妓置屋

今回は、新居(静岡県湖西市新居町)の町並みと風俗を散歩します。 元芸妓置屋の小松楼は、「小松楼まちづくり交流館」として一般に公開されています。


建物の内部は当時のそのままの状態で保存されていて、国登録有形文化財に登録されています。


二階からの眺め。


当時の様子を伝える貴重な資料が展示されています。

 

【参考URL】
*1 NPO法人新居まちネット:「小松楼まちづくり交流館」公式ホームページ

大鰐(若松会館)公衆浴場

大鰐温泉の入口にあたる相生橋。


橋端の湯「大鰐ホテル」があった場所は、現在は、大鰐若松会館に建て替わっています。


1階は、公衆浴場「若松会館」になっています。


大人入浴200円です。

■カテゴリ 大鰐 銭湯

大鰐(大鰐見番事務所跡地)昭和40年設立

売春防止法が施行され、置屋は全面廃止となり、芸妓たちは行き場を失いました。そこで、旅館組合の提案で、昭和35年、芸妓、お酌、民謡など約60名の会員で、大鰐温泉風俗営業連合会が設立されました。この会は、昭和40年、発展的に解消され、大鰐温泉見番組合が設立されました。*1


この付近に大鰐見番事務所がありました。


現在は駐車場になっています。


北側を流れる平川。

 

【参考文献】
*1 大鰐町:大鰐町史下巻(1)(大鰐町,1997)P.770
*2 ゼンリン:南津軽郡大鰐町(ゼンリン,1984)P.7

大鰐(大正5年の「大鰐温泉図」)加賀助旅館の跡地

 今回は、大鰐(おおわに、青森県南津軽郡)の町並みと風俗を散歩します。 大鰐温泉には、明治時代から続く古い旅館(加賀助、後藤、福津(大鰐ホテル)、山二(仙遊館))がりましたが、大正のはじめ頃、「温泉の発展には、料理屋がつきものだ」という持論を持つ外川平八が開拓を進め、大正のはじめ頃に紅灯街「外川町」が形成されました。*1

 

 加賀助旅館の跡地には、大正10年に加賀助旅館に投宿した大町桂月の碑が建てられています。

 

 大正5年の「大鰐温泉図」。翌年の大正6年の大火で相生橋から津軽味噌会社(マルシチ津軽味噌正油)までが全焼しましたが、すぐに復興し、6年後の大正12年には、料理屋は4倍の16軒に大増加しました。*2

 

 特に、福津旅館の後の三階建ての大鰐ホテルや、後藤旅館やいくつかの料亭は、弘前の料亭や旅館を購入し解体して移転し、新式に立派に復興したことが大評判となりました。*2

 「外川町」は、大鰐名物、鴈鍋(がんなべ、売春婦の異名)を抱えるあいまい料理屋の集娼地となりました。*3

 藩政から明治時代にかけて、鰺ヶ沢*4 や深浦の遊女たちは、港に船のいなくなる秋になると4人5人と連れ立って旅立ち、大鰐で稼ぎました。「大鰐のガンナベ」は、渡り鳥のような女たちをもじったものです。ある旅人が「大鰐に行ったらガンナベを食べて来い」といわれ、大鰐駅で「ガンナベはどこで売っているか」と駅員に聞いたという笑い話もあります。*2
【参考文献】
*1 陸奥新報社:わがふるさと第一編(陸奥新報社,1960)P.106-P.107
*2 大鰐町:大鰐町史下巻(1)(1997,大鰐町)表紙前の見返し図,P.758
*3 陸奥新報社:陸奥新報(1984.5.4)P.6「津軽紅灯譚252 大鰐の料理屋(上)」
【参考記事】
*4 風俗散歩(鰺ヶ沢):新地町(2017.1)

木造(旅館銀嶺)戦前のカフェー銀嶺を建て替え

木造町の中心街の有楽町(うらくまち)。


戦前に営業していたカフェー銀嶺は、戦後まもなく食堂喜楽として創業しました。カフェー当時のモダンな建物の一部を利用して営業していたのですが、昭和33年に旅館銀嶺として営業をはじめ、同58年に全面改装して現在に至っています。*1


レストランも併設されているようです。


旅館銀嶺の看板。

 

【参考文献】
*1 岩崎繁芳:五所川原・つがる・西北津軽今昔写真帖(郷土出版社,2009)P.116

木造(遊廓跡地)松原

木造の松原で馬市がさかんだったのは、明治の末期から大正にかけてで、博労たちの商いはハデなので、付近の遊廓や飲食店が賑わいました。遊廓はクラブ(三貞)大幸、高砂などがありました。*1


伊藤パンがあった場所*2 の近くには、(昭和50年頃まで)当時の遊廓の面影を残す大きな2階建ての家が残っていました。*3


昭和9年の諸統計*4 によると、木造町の遊廓として、大幸楼、岩木楼、高砂楼の記載があります。 この付近には、高砂楼(氏名:竹鼻きぬ)からの転業と思われる「竹鼻アパート」がありました。*2


反対(北西)方向から見た遊廓跡地。

 

【参考文献】
*1 山上笙介:ふるさとのあゆみ西津軽(津軽書房,1982)P.186
*2 日本住宅地図出版:西津軽郡木造町(日本住宅地図出版,1982)
*3 陸奥新報(1975.2.24)津軽の町内今昔記28
*4 中村元吉:警察史余話第一集 売春三百年史(中村元吉,1959)P.87

木造(馬市で繁栄した松原)かつての飲食店街

木造町松原は、馬市の町として知られ、明治36年、馬市の開設とともに繁栄してきました。陸奥鉄道(現在の五能線の一部)開通前は、弘前から五所川原を経て、馬の尾を手綱でつないで行列を組み、松原入りしました。これに伴い、博労(馬の売買をする人)たちが泊まるマトヤ(馬宿)がたくさんでき、西北畜産農協のそばには、(昭和50年頃まで)マトヤが残っていました。*1


西北畜産農協があったあたり*1 は、現在は更地になっています。


スナックだった建物。

昭和50年頃までは、料飲店や大きな旅館が残っていて、松原というと飲食店街というイメージが残っていました。*1

 

【参考文献】
*1 陸奥新報(1975.2.24)津軽の町内今昔記28