中泉歴史公園にある公衆トイレ。お洒落な形状です。
清潔感のあるトイレです。
大便器の前に掲げられている標語。心静かに・手を添えて・外に零すな・松茸の露。
中泉歴史公園にある公衆トイレ。お洒落な形状です。
中泉遊廓があったあたり。手前から、第三常盤楼、三浦楼、第二常盤楼、第一常盤楼と並んでいました。*1
磐田市田町にある中泉歴史公園は、中泉の郷士(江戸時代の武士階級)であった秋鹿(あいか)家の庭園だった場所で、公園内には、扇子池があります。*1
今回は、磐田(静岡県磐田市)の町並みと風俗を散歩します。 中泉の西町の通り沿いにあるクラブ。
遠州鉄道の助信駅の東側。中区新津町ある「夏目食堂」。地元の浜松餃子の店です。
浜松市中区田町のランプ横丁。
浜松の有楽街(浜松市中区田町)。
浜松市中区田町にある門井ビルは、ステッキガール生みの親にして育ての親である門井襄三(かどいじょうぞう)氏のビルです。*1
二葉遊廓は戦災で焼けましたが、戦後いちはやく再建され、不夜城としてネオンの輝きを見せました。入口には、「二葉園」と書かれたがゲートがありました。しかし、このネオンも売春防止法によって昭和33年には灯が消えました。*1 当時の名残の旅館が現在も営業中です。
新居駅北川にある「ボートレース浜名湖」。
今回は、新居(静岡県湖西市新居町)の町並みと風俗を散歩します。 元芸妓置屋の小松楼は、「小松楼まちづくり交流館」として一般に公開されています。
大鰐温泉の入口にあたる相生橋。
橋端の湯「大鰐ホテル」があった場所は、現在は、大鰐若松会館に建て替わっています。
1階は、公衆浴場「若松会館」になっています。
大人入浴200円です。
売春防止法が施行され、置屋は全面廃止となり、芸妓たちは行き場を失いました。そこで、旅館組合の提案で、昭和35年、芸妓、お酌、民謡など約60名の会員で、大鰐温泉風俗営業連合会が設立されました。この会は、昭和40年、発展的に解消され、大鰐温泉見番組合が設立されました。*1
この付近に大鰐見番事務所がありました。
現在は駐車場になっています。
北側を流れる平川。
【参考文献】
*1 大鰐町:大鰐町史下巻(1)(大鰐町,1997)P.770
*2 ゼンリン:南津軽郡大鰐町(ゼンリン,1984)P.7
今回は、大鰐(おおわに、青森県南津軽郡)の町並みと風俗を散歩します。 大鰐温泉には、明治時代から続く古い旅館(加賀助、後藤、福津(大鰐ホテル)、山二(仙遊館))がりましたが、大正のはじめ頃、「温泉の発展には、料理屋がつきものだ」という持論を持つ外川平八が開拓を進め、大正のはじめ頃に紅灯街「外川町」が形成されました。*1
加賀助旅館の跡地には、大正10年に加賀助旅館に投宿した大町桂月の碑が建てられています。
大正5年の「大鰐温泉図」。翌年の大正6年の大火で相生橋から津軽味噌会社(マルシチ津軽味噌正油)までが全焼しましたが、すぐに復興し、6年後の大正12年には、料理屋は4倍の16軒に大増加しました。*2
特に、福津旅館の後の三階建ての大鰐ホテルや、後藤旅館やいくつかの料亭は、弘前の料亭や旅館を購入し解体して移転し、新式に立派に復興したことが大評判となりました。*2 「外川町」は、大鰐名物、鴈鍋(がんなべ、売春婦の異名)を抱えるあいまい料理屋の集娼地となりました。*3
藩政から明治時代にかけて、鰺ヶ沢4 や深浦の遊女たちは、港に船のいなくなる秋になると4人5人と連れ立って旅立ち、大鰐で稼ぎました。「大鰐のガンナベ」は、渡り鳥のような女たちをもじったものです。ある旅人が「大鰐に行ったらガンナベを食べて来い」といわれ、大鰐駅で「ガンナベはどこで売っているか」と駅員に聞いたという笑い話もあります。2
*1 陸奥新報社:わがふるさと第一編(陸奥新報社,1960)P.106-P.107 *2 大鰐町:大鰐町史下巻(1)(1997,大鰐町)表紙前の見返し図,P.758 *3 陸奥新報社:陸奥新報(1984.5.4)P.6「津軽紅灯譚252 大鰐の料理屋(上)」 【参考記事】 *4 風俗散歩(鰺ヶ沢):新地町(2017.1)
木造桜川の商店。
歴史を感じさせる大きな木造建築です。
玄関脇のたばこ屋。
酒類の琺瑯看板。
「ニッポンビール」は、「サッポロビール」の前身です。
【参考URL】
*1 サッポロビール(株):公式ホームページ 歴史・沿革
木造千代町の通りにスナックの建物が連なっています。
建物が傾いています。
スナックの看板。
入口付近。
木造有楽町に残る音屋食堂の建物。
入口の丸い電灯。
趣のある木造母屋です。
音屋食堂の看板。
木造町の中心街の有楽町(うらくまち)。
戦前に営業していたカフェー銀嶺は、戦後まもなく食堂喜楽として創業しました。カフェー当時のモダンな建物の一部を利用して営業していたのですが、昭和33年に旅館銀嶺として営業をはじめ、同58年に全面改装して現在に至っています。*1
レストランも併設されているようです。
旅館銀嶺の看板。
【参考文献】
*1 岩崎繁芳:五所川原・つがる・西北津軽今昔写真帖(郷土出版社,2009)P.116
木造の松原で馬市がさかんだったのは、明治の末期から大正にかけてで、博労たちの商いはハデなので、付近の遊廓や飲食店が賑わいました。遊廓はクラブ(三貞)大幸、高砂などがありました。*1
伊藤パンがあった場所*2 の近くには、(昭和50年頃まで)当時の遊廓の面影を残す大きな2階建ての家が残っていました。*3
昭和9年の諸統計*4 によると、木造町の遊廓として、大幸楼、岩木楼、高砂楼の記載があります。 この付近には、高砂楼(氏名:竹鼻きぬ)からの転業と思われる「竹鼻アパート」がありました。*2
反対(北西)方向から見た遊廓跡地。
【参考文献】
*1 山上笙介:ふるさとのあゆみ西津軽(津軽書房,1982)P.186
*2 日本住宅地図出版:西津軽郡木造町(日本住宅地図出版,1982)
*3 陸奥新報(1975.2.24)津軽の町内今昔記28
*4 中村元吉:警察史余話第一集 売春三百年史(中村元吉,1959)P.87
木造町松原は、馬市の町として知られ、明治36年、馬市の開設とともに繁栄してきました。陸奥鉄道(現在の五能線の一部)開通前は、弘前から五所川原を経て、馬の尾を手綱でつないで行列を組み、松原入りしました。これに伴い、博労(馬の売買をする人)たちが泊まるマトヤ(馬宿)がたくさんでき、西北畜産農協のそばには、(昭和50年頃まで)マトヤが残っていました。*1
西北畜産農協があったあたり*1 は、現在は更地になっています。
スナックだった建物。
昭和50年頃までは、料飲店や大きな旅館が残っていて、松原というと飲食店街というイメージが残っていました。*1
【参考文献】
*1 陸奥新報(1975.2.24)津軽の町内今昔記28
今回は、木造(青森県つがる市)の町並みと風俗を散歩します。木造駅の駅舎の外壁には、遮光器土偶が貼り付けてあります。
駅前にある神武食堂。
森沢明夫氏の著書「津軽百年食堂」にも取り上げられた食堂で、煮干し風味の中華そばなどが人気を博しています。*1
人気メニューの担々麺を注文。ボリュームのある挽き肉が特徴です。
【参考文献】
*1 岩崎繁芳:五所川原・つがる・西北津軽今昔写真帖(郷土出版社,2009)P.111