吉清英夫: 月刊いちかわ 2008年5月号 (エピック,2008)座談会「市川の花柳界」 ···外部リンク···

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『県内にひとつとなった見番』
市川の花柳界は戦前まで、夜の社交場、文化サロンとして賑わった。その始まりは、明治の初め日本陸軍の下士官(最前線の指揮官)を養成する「教導団」が国府台の台地に設けられたこと。以来、昭和20年の終戦まで、野砲兵連隊など、陸軍屈指の部隊がこの地に駐屯する。そのため将校、兵士とその家族や、軍御用のお偉方が利用する待合・旅館、料亭がひしめき、宵闇迫るころになると、芸者衆、太鼓持ち、幇間や客を乗せた人力車が往来して、市川の街は賑わった。昭和の始め、国府台下と真間の見番(待合・料亭と芸者置屋の取次所)に登録された芸妓の数が200名近くあったといわれることからも、その殷賑ぶりが想像できる。国法が改められて、芸者遊びは「色」ではない「芸を売る遊び」となった。戦後60余年がすぎ、街の様がわりと同じように接待のあり方、とりわけ社交サロンとしての市川花柳界(料亭、芸妓)の姿も大きく変わった。
———お女将さんとお姐さんたちとの座談会———
白藤:ウチの初代は昭和5年に関西から、関東へやってきた最初の関西料理人の一人。ちょうど先代の『吉兆』さんが同じころ修業をつんだ仲間で、白藤へもきてくださいました。
里栄:市川の芸者さんは、全部芸ができましたね。半玉さんもいましたし、人力車も往来していて、花柳界の雰囲気はすごくありました。ウチ(置屋)には若い妓がいっぱい居て、二代目の私もすごくはりあいがありました。
大松:むかしよくおいで下さった、真間川沿いの旦那衆が少なくなりました。