岡山市史編集委員会岡山市史 戦災復興編岡山市1960
永井荷風の「罹災日録」について
昭和43年に亡くなった永井荷風はその遺書「罹災日録」の中に岡山に滞在していた間のことをこまごまとしるしている。荷風が戦争末期に東京を焼け出され岡山に来たのは昭和二十二年6月12日で、親類の作曲家菅原明朗の知人が岡山にいることと、岡山には軍需工場がなく、食べ物が豊富で、空襲の心配もないだろうというようなことがこの老文士の足を岡山に向けさせたわけであるが、現実には菅原明宗とその妻永井智子(声楽家)が一足先に岡山に来ており、それが何よりのたよりになったらしい。 荷風ら3人は知人のの家やホテルで数日間すごし、6月16日に弓之町の松月旅館に落ち着いた。この宿でしばらく滞在することにして、荷風は気の向くままにしないのそこここを見物してまわった。彼の罹災日録には京橋から眺めた旭川船着場や、中島遊廓の情景などが美しい文章で書いてあるが、今となっては焼ける直前の岡山の情緒を移した唯一の文献ともなったともなった。