常陸太田市史編さん委員会常陸太田市史 通史編 下常陸太田市1983.3
世相と娯楽

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大正14年(1925)から昭和10年(1935)頃までの太田町ついて次のように語っている。その頃、釜萬(東三丁)で、商店の寄合の宴会をやると一人5円かかった。芸者を上げれば玉代がもっとかかった。
東三町と西三町とをつなぐ路地が二つあって、狢(むじな)横丁と呼ばれる通りがその一つで、今は小森洋品店の横道で新柳や釜平に東町から入る道で、西町では和田一郎宅(旧千代本)横に出る所、もう一つ、狸横丁と言われたのは少し南の方、丸信洋品店の横から入った、曲がりくねった道で西町へ通じていた。待合や芸妓置屋が多い所だった。使わなくても良いお金を使っちゃうので、この通り名になった。
当時全盛だった若小磯は常に十余人、千代本(ちよもと)や本小磯、亀万(かめよろず)などに、五,六人の芸者がいた。銀猫とか銀星(シルバースター)といわれたカフェも六七軒あって、2,3人の女給が働いていた。

大正11年元日の「いはらき新聞」の広告欄に「大田町割烹店組合」が紹介されている。「釜萬楼」「万泉」「万梅」「二ツ木」「一寸亭」「若富十」「若柳」「朝日座」の名が見られる。

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なお「大田町東二商店連合」として25店、「大田町料理店組合」として24店が、それぞれなお連ねていて、当時の太田町が商業隆盛と相まって花街の繁盛した。