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第32号2007.12.23 リンク

◆続・国府台病院の歴史
『市川市国府台における砲兵隊・工作隊の記録』(武井順一著、97年1月発行)の1ページ目にこうある。
「1886年(明治18年)、東京から陸軍教導団が市川市国府台に移転し、市川の砲兵隊の幕開けとなった。歩兵大隊が移転、病院が現在の里見公園内に新設された。(略)教導団が来たので、市川~松戸間に広い道が必要となり、この頃、千葉町から囚人達をつれてきて道路建設に従事させた。これが現在、旅団坂といって和洋女子大学前へ通じる坂の道で、松戸へ抜ける新道(松戸街道)である。従来の道は巾がせまく、筑波大学付属ろう学校内を通り、市川一中をぬけ、東京医科歯科大学の裏門にで、理髪店の間のまがりくねった道が松戸にぬけていた。戦国時代、国府台の合戦で、小田原の北条軍と対戦した里見軍は、この道を通って松戸に敗走した。現在も「東桜陣」や「西桜陣」と言った地名が残っており、里見軍が陣をしいた場所である」。
また、国府台4丁目の高射砲の台座跡についても触れている(24ページ)。
「里見公園の裏門を出て約500メートル歩くと、下り坂があって江戸川ぞいの道と合流する。坂を下る手前左の台地に、台座跡が残されている。陸軍の用地を示す石柱が一本ある。高さ1メートル位で左側にあり、左をみると白い柵が輪になっている。この柵の中に高射砲がすえつけられていた。ここの高射砲は使われたことはなかった。見張り所跡かも知れない」とある。
前から気になっていたのだが、千葉県江戸川下水道事務所のところ(国府台3丁目13番地)の急な坂のところに「陸軍」と書いた石杭があって、それのことだろうか。境界の石かと思っていたのだが、江戸川や東京が一望できる場所なので、高射砲を置いたり見張りをするにはよい場所である。