北茨城市史編さん委員会北茨城市史 下巻北茨城市史編さん委員会1987.6
平潟の廓清運動と大津の築港運動

P.300
平潟には古くから遊廓があり、当時においても11軒の貸座敷が営業を続けていたが、近年風紀の紊れ(みだれ)が甚だしく、町の発展の妨げになっているからと、大正10年、平潟町の青年同志会がその移転運動に立ち上がった。同志会の訴えや新聞雑誌によると、県内の他の貸座敷が遊廓として街の一区域に画然と集められているのに、平潟の場合は、町の中心部に一般民家と混在して陸前浜街道の両側にあり、娼妓が淫らな風体で白昼堂々と往来するなど、風紀の紊乱(びんらん)は甚だしく、花柳病が蔓延し、徴兵検査の成績は県下で最も悪かった。
同志会の要求に対し、貸座敷業者が牛耳る町当局は移転に同意せず、貸座敷は移転されず同町に存続した。貸座敷の命脈が絶たれるのは、昭和5年(1930)のこと、おりからの大不況のなかだった。

写真:平潟町海徳寺に建つ「娼妓々夫供養碑」