六本木(狸穴坂)ロシア大使館の東側

六本木から飯倉交差点を過ぎ、ロシア大使館東側の狸穴坂(まみあなざか)を下ります。狸やムササビが住む穴があったと伝わることからこの名前がついています。六本木は以外と坂道が多いところです。小高い丘が多く山の手と呼ばれていることが納得できます。

明るい坂道を下ります。警備の警察官がいます。江戸時代、この付近は大名屋敷がありましたが、戦後は大使館の敷地に転用されました。

「ホテルアルファイン」と書かれた広告看板が電柱に貼られています。

昭和を感じさせる民家の佇まいがなんとも言えません。ここの電柱にも「ホテルアルファイン」の広告があります。

六本木(SM用品プロショップ) 六本木といえば、SM

六本木交差点近くのビル。1階はショットバーですが、2階はSM関係です。

ビルには、少しくたびれてはいますが、SMのオブジェがあります。

看板をみると、SMショップの店舗のようです。

入口のドアは赤いライトで照らされており、怪しげな雰囲気です。店員は女性です。

六本木(ビルの屋上)未使用のまま解体予定

六本木交差点から外苑東通りを飯倉片町方面へ進むと、目の前に東京タワーが見えてきます。六本木らしい風景です。が、しかし、手前のビルの屋上に異様な建築物が設置されているのが目に入ります。

近寄ってみると、闘牛の角のようです。

異様な建築物の正体は、ドンキホーテが店舗の屋上に建設中の絶叫マシン「ハーフパイプ」です。但し、地元の住民の反対(騒音、安全性)により、一度も使用されることがないまま解体される予定とのことです。

ドンキホーテの裏の六本木墓苑から見たところ。たしかに、この風景に絶叫マシンは似合わないような気がします。

六本木(六本木交差点)乙女の像と白ポスト

今回は六本木の風俗を散歩します。六本木の交差点に「奏でる乙女」の像があります。この像の碑文に、昔、この地の小高い丘に六株の松が生えていたことから「六本木」と呼ばれるようになったこと、時代と共に繁栄を極めたが、太平洋戦争の空襲により美しい町並や樹々が一夜のうちに灰に帰したこと、その後の人々の努力により復興を遂げたことなどが書かれています。

「乙女の像」の近くに、ピンクチラシ回収ボックスがあります。

今ではめずらしくなった白ポストです。ピンクチラシ回収用として麻布地区が設置したもののようです。森ビル寄贈と書いてあります。

交差点の4つの角のうち、3箇所に白ポストが設置されています。喫煙コーナーも2箇所設置されており、麻布地区の環境浄化に対する取り組みがうかがえます。

川崎(小町横丁)小さな横丁です。

旧東海道を葬祭場のところから右に曲がると、スナックが並ぶ一角があります。

料理屋の隣に小さな横丁の入口があります。

小町横丁という名前です。おとなのおもちゃの看板があるのがユニークです。

奥は行き止まりです。

川崎(立て看板)路上の客引きに注意

堀の内のソープランド街には立て看板が多数あります。稲毛通り沿いのソープランド街入口付近。

国道15号沿いの道路の歩道にも立て同じ立て看板があります。「暴力団追放!路上の客引きに注意」と書かれています。

こちらは別の立て看板。ソープランド街の中心部の交差点。四つ角のすべてにこの看板。が設置されています。

ソープランド街のあちこちに「客引き禁止」の看板があります。

川崎南町(政の湯)隣はソープランドです。

川崎南町にある銭湯「政の湯」。平凡なビル型銭湯ですが、ソープランド街の中にあるという点は非常に珍しいと思います。隣の隣にソープランド「京都クリスタル」があります。

四角い煙突。

このあたりは、政の湯通りと呼ばれています。銭湯の名前が通りの名前になっています。

脱衣場にタイル貼りの大きな円柱があります。

川崎南町(赤線跡)彫りぬかれた屋号

料亭だったと思われる家。

 

お茶漬け屋のある緑色の壁。

 

緑色の壁は路地の奥まで続いています。

 

赤線跡を歩く*1 に掲載されていた彫りぬかれた屋号の家紋。家紋の部分は消失しています。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.61

川崎南町(料理屋街)未舗装の砂利道

川崎南町には組事務所が集中するあたり。裏手の路地を入ると、まるで時間がとまってしまったかのような空間があります。

古びた料理屋が並びます。未舗装の砂利道です。

小料理「あわじ」。

長屋風の飲み屋。

川崎南町(スナック街)当時そのままのスナック。

当時そのままの料理屋やスナックが残っています。

交差点の角に、入口が大きく開いているスナックがあります。入口部分がレンガで作られており、古さを感じます。

こちらも交差点の角にあるスナック。

右側から見たところ。窓に女性募集の貼り紙がありました。

川崎南町(赤線跡)旅館風の建物

住宅街の中の一画。


赤線跡を歩く*1 に掲載されている「酒亭かの子」の建物。


同じ通り沿いにある旅館風の建物。


菱型の窓。


【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.61

川崎南町(赤線跡)貴重な建物

赤線跡の特徴を残す建物があります。正面の概観は、4本の円柱と洋瓦で装飾されています。

これほど大規模に残っているのは貴重存在だと思います。

横から見たところ。

1階の入口のところに、屋号の「スエヒロ」の文字が残っています。

大塚(大塚三業通り)かつて花街だったところ

大塚にはかつて花街(三業地)だったところがあります。現在でも大塚三業通りという通りが存在します。大塚駅南口前にあるバッティングセンター近くに大塚三業通りの入口があります。

曲がりくねった通りが続きます。ところどころに三業地の名残と思われる料亭があります。

かなり立派な料亭です。

マンションの1階に「大塚三業組合」の看板のある事務所があります。ちょうど三味線のような楽器を手に持った和服を着た数名の女性が事務所に入っていきました。年齢はかなり高めです。

横浜曙町(親不知通り)丸い円柱のある和風スナック

親不知通りは、現在ではヘルス等の風俗街となっていますが、かつては遊郭(青線)であったところです。

1軒だけ、当時の雰囲気を留める建物があります。現在はスナックになっています。

緑色の円柱が鮮やかです。壁に装飾があり、いい雰囲気です。

スナックの横は路地になっています。

横浜曙町(弥生3丁目)路地裏にごっそり残る赤線跡

横浜橋近くの弥生3丁目の路地に特殊飲食街の雰囲気がそのまま残っています。

それらしき建物は3軒ぐらいしか残っていませんが、路地の雰囲気がいいです。

写真左手のフェンスで囲まれた場所には、「消えた赤線放浪記」の巻頭カラー写真として掲載されている古い建物がありました。

隣のねずみ色の建物のバルコニーは圧巻です。

横浜曙町(弥生3丁目付近)アーケードの支柱

弥生三丁目付近に古い支柱があります。左隣に理容室があります。コンクリートが劣化していますが、補修されています。

支柱が立っている場所は、特殊飲食街の雰囲気が残る路地の入り口にあたります。

 

かつてこの場所に飲食街の入り口を示すアーケードがあったようです。

横浜曙町(横浜日劇)閉館しました。

今回は、横浜曙町の町並みと風俗を散歩します。黄金町からすぐのところに、映画館の日劇があります。昭和30年代から半世紀にわたって親しまれてきた映画館です。

残念ながら、2005年2月に閉館となりました。古い映画や人気のない映画を低価格で2本見れるというコンセプトだったようです。伊勢佐木町周辺の映画館は閉館が相次ぎ、全滅状態です。

シネマスコープの文字が見えます。

隣のシネマジャック&シネマベティ(旧東映名画座)も閉館と聞いていましたが、こちらは営業しているようです。「ゴシック・ロリータ」上映してました。

人形町(末廣神社)400年以上の歴史を持つ神社

人形町2丁目に末廣神社があります。

末廣神社は400年以上の歴史を持つ神社です。元吉原の総鎮守社として信仰されてきました。

神社に日本酒が奉納されています。末廣酒造という会社があるようです。

吉原移転後は、花街として繁栄したようです。

人形町(和風井戸)花街を思わせる路地にあります。

人形町駅前の通りに面した大観音寺の石段がありますが、その石段の脇に、昔の花街を思わせる古風な飲食店が並ぶ路地があります。

路地の入り口あたりに、和風の井戸があります。正面から見ると「防災井戸」と書かれています。木の桶が和風情緒を演出しています。桶の中には手押しポンプがあるものと思われます。

側面には長い取っ手が突き出ています。使いやすさを重視した実用設計です。

この井戸は防火のために準備されているようです。

人形町(元吉原)吉原の原点

今回は、人形町(東京都中央区)の町並みと風俗(跡)を散歩します。人形町は江戸時代、元吉原がありました。場所は、現在の日本橋人形町2~3丁目と日本橋富沢町付近あたりとされています。写真は地下鉄の人形町駅を出たところの交差点です。有名な玉ひでがありますが、元吉原があった時期は玉ひでの創業よりもさらに100年ほど前です。現在は元吉原の面影はまったくありません

元吉原の案内板があります。それによると、元吉原は、江戸時代の始め(元和3年(1617年)に葦(よし)が繁茂する湿地を埋め立てて造成されたことから吉原という名前がついたそうです。しかし明暦3年(1657年)の大火で焼失したことをきかっけに39年間栄えた吉原遊郭は、浅草山谷へ移転するこになりました。移転後の吉原を新吉原、移転前の吉原を元吉原と呼びます。

歌舞伎で有名な玄冶店の碑が人形町の交差点近くにあります。吉原が移転した跡にこの地において歌舞伎や人形浄瑠璃が盛んになり、人形町の地名の由来になったそうです。

現在の吉原にある大門は元吉原にあった大門という名前をそのまま引き継いだものとだそうです。現在の人形町にも大門通りがあり、当時の吉原の名残りを見ることができます。

この風景から400年前の吉原遊郭を想像するのは少し難しいようです。