港町から 第2号 (特集:浦賀・横須賀)港町のタウン・マガジン街から舎2009.4
福沢諭吉先生も上がった浦賀遊郭

P.49
安政七年(1860)11月浦賀から、太平洋を越えてアメリカへ向かう船がありました。咸臨丸です。品川で出航式がありましたので、浦賀は日本の最終寄港地として水や野菜などを積み込むために3日間留まりました。福沢自身が書いた「福翁自伝」には、「茶屋みたいない処に行って、さんざん酒を飲んで、サア船に帰る云うときに、誠に手癖の悪い話で、その茶屋の廊下の棚の上にうがい茶碗が一つあって、これは船の中で役に立ちそう物だと思って、ちょっと私がそれを盗んできた。」と記されています。「うがい茶碗」は、お仕事の終わった遊女さんが使用するビデです。

山本詔一浦賀の渡船

P.66
浦賀は入江をはさんで、東西に町が形成されている。この東西を結ぶ市道2073号線が海の上にある。もちろん、海の上を歩くことができないので、渡船がその役割をしている。お客さんが一人でもいれば、反対岸にいても迎えにきてくれる。わずか3分たらずの船旅であるが、浦賀港の名物である。交通機関としての渡船の歴史は古く、江戸時代も中期ころには始まっていたことがわかっている。

性神にして航海神・・安房口神社・御神石の不思議菅谷正明

P.39
安房口神社は性神である。もともと安産信仰の対象となっていたのは、この神石だけではなかった。明治の末までは長さ一尺五寸、径六寸の二つの陽石が現神石の前に祀られていた、というのである。そして、近郷の産婦がそれを借りて帰り、抱いて寝ると安産だったというのである。とすると、現在ある神石はもちろん陰石であり、穴のある形状は明らかにそれを示している。残念ながら陽石は今は見ることができないが、御神体は陰陽二元の神のかたわれだったわけである。
P.40
興味深いのは安房口神社の御神石と相対峙するようにもう一つの御神石が房総半島館山市の洲崎(すのさき)神社に存在することだ。三浦半島と房総半島の二つの御神石は互いに向かい合って、阿(安房口神社)吽(洲崎神社)の石だと、洲崎神社の石碑が語っている。