浦賀古文書研究会浦賀中興雑記浦賀古文書研究会1981.11

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浦賀の遊女屋は、洗濯屋と呼ばれ、この港に出入りする船舶の船乗り仲間に親しまれてきた存在で、その歴史も古く、元禄のころには、長崎屋と和泉屋という店が2軒で営業していた。浦賀の役人は、洗濯屋は町内5軒以内にするとの制限を定め、しかもその営業地域を町内の新地内だけに限ることに定めた。その後、安永6年(1777)の四月には、江戸芝の宇田川町に住む江戸屋庄五郎がこれを出願、許可されて、新たに江戸屋を加えた3軒となった。その後、天明8年(1788)になって、新たに亀屋(のち吉野家)という店も許可された。

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江戸屋の主人 江戸屋半五郎は、洗濯屋(遊廓)の主人であったが、あるとき、江戸で、一人の僧に説教され、自分の商売の罪深さを知り、すべての財産を投げ売り、これを抱えていた遊女たちに分け与え、さらに、西叶神社に漱盤、東林寺には石塔を寄進している。そして自分は仏門に入り、修行僧として全国を行脚し、この折、紀州の山中で徳本上人に出会い、子弟の関係を結び、「深本」の名をもらっている。
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文化6年(1809)、江戸屋半五郎はこの世を去った。常福寺に墓があり、「大誉果向深本法子」の法名が刻まれている。

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浦賀奉行初鹿野田伝衛門が浦賀巡視の折、江戸屋半五郎のところが、二階建てで全体に派手やかなのを見、何の商売であるのか尋ねたところ、水夫などの洗濯屋であると聞き、洗濯屋にしては物干しもなく、あまりに目立つので平屋に改築するよう命じた。この当時の洗濯屋は、鶴屋藤吉・亀屋新吉・江戸屋の3軒であった。その洗濯屋の繁栄ぶりを窺いさせるものは、現在西叶神社の境内にある一対の銅製の灯籠である。そこには、新地町、福本太平治・江戸屋久三郎、亀屋新吉・靏屋弥(彌)七・玉泉屋佐吉等の名が刻まれており、天保4年の年号があることから、この時代が最も繁昌した頃であったろう。明治維新後は規則が変わり、往還道路においては営業ができぬことになり、明治34年、荒巻に移転する。

この文献を参照している記事

浦賀(西叶神社の燈籠)遊女屋の関係者が寄進した一対の銅製の灯籠。
浦賀(六字念仏塔)東林寺の三浦稲荷社。
浦賀(「大乗妙典六十六部供養」の碑)江戸屋半五郎の墓。常福寺。