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走水神社

由緒
走水神社は、十二代景行天皇の皇子、日本武尊と御后の弟橘媛命二柱の神をお祀りしております。景行天皇即位四十年、東国の蝦夷が天皇に叛くので天皇は日本武尊にその鎮定を命じました。勅命を奉じて武尊は、伊勢神宮に参詣され戦勝祈願をなし、神宮の斎宮であった叔母の倭姫命より神宝の天叢雲之剣と火打袋とを授けられ、東国に東征の軍を起こされました。御齢30歳と云われております。途中、静岡(焼津)において賊にだまされ火攻めの難に遭遇されましたが天叢雲之剣で草を薙払い向火を放ち形勢を逆転させて賊を討伐したと云われ、これよりこの神宝を草薙之剣とも呼ばれ、以来熱田神宮の御神宝となっております。武尊一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着されました。ここに御所(御座所)を建てました。(現在、御所ガ崎と云われております。)走水の地において、軍船等の準備をし上総国に出発する時に村人等が武尊と橘媛命を非常に慕いますので、武尊は自分の冠を村人等に与えました。村人等はこの冠を石櫃納め土中に埋めその上に社をたてました。(走水神社の創建です。)

武尊は、上総国へ軍船にていっきに渡らんと船出なされましたが、海上中ばにおいて突然強い風が吹き海は荒れ狂い軍船は波にもまれ進みもならず戻りも叶わずあわや軍船は転覆するかの危機に、武尊につき添ってこられたお后の弟橘媛命が「このように海が荒れ狂うのは、海の神の荒ぶる心のなせること、私が海に入り荒ぶる神の御魂の怒りを鎮めるほどに尊様はつつがなく勅命を奉じてその任を完遂してほしい」と告げ「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」と辞詠し、海上に菅畳八重、皮畳八重、あしぎぬ畳八重を敷き、その上に身を投じたところ忽ちに波は凪ぎ風は静まり武尊一行の軍船は水の上を走るように上総国に到着なされました。(以来、水走る走水と云われております。)上総、下総、常陸、日高見の国々の蝦夷を討ち平らげて京に帰る途中、碓氷峠より遥か東方に光る走の水の海の輝きを眺め、その海に身を投じ武運を開いてくれた媛を偲び「あ~吾が妻よ」嘆き呼びかけたと云う、そしてこれをもって東国を東(吾妻)「アズマ」と呼ぶようになったと云われております。

武尊は、京へ帰路の途中伊吹山の賊と戦いの後、病にかかり伊勢国能襃野でお亡くなりになりました。御齢33歳と云われております。以上は、奈良朝時代初期に編纂された「古事記」「日本書紀」に誌るされており又、弟橘媛命が御入水してから数日して海岸に櫛が流れつきました。村人たちはその櫛を武尊と弟橘媛命が住んでおりました御所ガ崎に社を建て櫛を納め橘神社としましたが、明治18年御所ガ崎が軍用地になったため橘神社は走水神社境内(神殿の横の機雷のあるところ)に移され、明治42年に走水神社に合祀されました。

記念碑、顕彰碑、感謝の碑
一、弟橘媛命記念碑「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」 媛の辞詠 (明治43年建)
一、庖丁塚「庖丁と鳥獣魚介菜類等食物に感謝」(昭和47年建)
一、舵之碑「弟橘媛命の顕彰と海の平和安全を祈る」(昭和50年建)
一、針之碑「草枕 旅の丸寝の紐絶えば あが手とつけろ これの針持し」針と衣類等に感謝(昭和58年建)
一、顕現之碑「武尊と橘媛命の愛と御神徳を崇める。」(平成3年建) 史跡・伝承
一、御所ガ崎「武尊と橘媛命が御滞在したときの御座所のあった所」
一、旗立山「武尊が征軍の旗を立てた所」(御所ガ崎の後背)
一、御座島「武尊と橘媛命の訣別のお盃があった所」(神社前の岩礁)
一、皇島「武尊が軍船に乗船された所」(御所ガ崎の北岩礁)
一、むぐりの鼻「橘媛命の侍女等が媛に殉じた所」(御所ガ崎の最先端岩礁)
一、伊勢山崎「武尊が伊勢神宮で授けた御神符を祀った所」