成瀬恒吉小栗原誌本中山地区自治会町会連合会二〇周年記念本中山地区自治会町会連合会1985.1
町制施行の頃

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昭和の初めに中山三業組合が結成された 。料理店、飲食店、旅館の業者で組織され、大部分は小栗原地区の人であった。大正の中期から昭和の初めにかけて、カフェーが大流行した。小栗原にも下総中山駅通りに「朝日軒」、二子よりの国道沿いに「銀猫」、国道南側に「千代の家」、北側に「白浜屋」、十字路西側に「カフェー松竹」、蓮池の奥には「かおる」等があった。黒門横には検番があり、太鼓持ちもいた。料理屋では「森田屋」「金福」「正鶴」 があ り、日暮れを待つようにして半玉のたたく太鼓の音が満水の池にコダマして満開に咲く湖畔の桜、赤いリボンがゆらゆらとゆれ、誠に風流であった。

蓮池湖畔にある公会堂では毎夜芝居、浪花節、当時大流行した安来節等の興業があり、日暮れになると下足番の客寄せの呼び声、幕開けの拍子木の音がこれまた池にコダマして一層豪華さを増した。夜になると小栗原の街には矢がすりにエプロン姿の女給さんが、厚化粧であっちこっちに見られた。薄暗闇から聞こえる蓄音機の音、酔いどれ客の足どりも送る女給さんの足どりも千鳥足で、赤い灯。青い灯と共に中山の夜は更けて行くのであった。

この頃、中山に出来た日本毛織工場では、三千人の女工さんが昼夜二交代でモスリンという反物を織っていた。当時中山小栗原付近は、モスリン景気でそれは大変なものであった。工場の休日ともなると、小栗原の街中は女の人の流れ一色となり、飲食店、食堂、化粧品店といわずどの店も満員盛況であった。