流山市立博物館友の会東葛流山研究 12号流山市立博物館友の会1993.11.25
山本鉱太郎松戸平潟遊廓物物語

三池の屋号のいわれはわからないが元は九十九楼と言ったという。平潟神社に、大正14年6月に奉納された防火用水には、「奉納 九十九楼 岸部慎太郎」と刻まれている。
創業者の内田慎太郎さんは、早稲田の商学部を卒業した後、建材店をやったのちに、淀橋銀行の頭取をしたり、淀橋区長まで務めたが、ある時、人に勧められて松戸の平潟に店を持ち、長男の妻ハナさんに店を任せたのだった。通称「岸辺慎太郎」と呼ばれ、平潟神社の防火用水や神社修繕の碑にも「岸辺慎太郎」と刻まれているのは、世をはばかっての名であろうか。妻は「岸部はな」といい妻の姓をとったものと思われる。

福島茂太幻の「柏競馬場前駅」はどこに

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千葉県畜産組合連合会が大正末期、千葉市外の椿森で草競馬を行っていたが、地方競馬規則が昭和2年公布され、椿森競馬場はその位置や設備が不適当となった。そのため県畜産組合連合会では県内に競馬場の適地を探していた。
東葛飾郡田中村花野井の吉田甚左衛門は、かねがね競馬の将来を大いに有望視していたので、県畜産組合連合会に豊四季の私有山林「くぬぎ山」を提供(賃貸)しても良いと申し入れた。これによって、県畜産組合連合会では、椿森競馬場の移転先を豊四季と決め、吉田氏に、馬場及び馬場設備一切の計画を依頼した。
吉田氏は、昭和2年、地方競馬としては最大の最新式競馬場を作り上げた。

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競馬場の正面は現在の豊四季団地入口あたりで入場券売り場があり、馬券売り場は中に入った今の団地二四号館付近だったそうである。豊四季団地の反対側に厩舎が七棟並んでいた。一等観覧席は屋根があり、二等観覧席は屋根がなかった。