マタロス休息所※1 が発展して出来上がった稲佐遊廓。現在はその名残はありません。

遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1

旅館松月

逆方向(東側)から。

めいじこうき
マタロス休息所※1 が発展して出来上がった稲佐遊廓。現在はその名残はありません。
遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1
旅館松月
逆方向(東側)から。
国際親善の女傑と言われた「稲佐お栄」※1 の本宅は、旭町から稲佐山への急斜面を上ったところにある鳥岩(からすいわ)神社の近くにありました。*1
当時、日露戦争において旅順のロシア軍が降伏し、ステッセル将軍(旅順要塞地区司令官)は捕虜として長崎に到着。お栄宅に滞在しました。*1
お栄本宅跡の敷石。*1
鳥岩神社からの遠望。
幕末から日露戦争の前年(明治36年)までは船津浦・稲佐郷はロシア海軍士官の止宿地域で「ロシア村」と呼ばれていました。*1
ロシア村の案内板。
平戸小屋郷異国人休息所*1 があった場所(写真右側)。
女傑、稲佐お栄が建てたホテル「ヴェナス」跡地。
ロシア語を話せるお栄は、女実業家、社交界の花形として君臨し、ホテルル・ヴェスナを建設。幕僚たちの酒宴とダンスの歓楽の宿場となりました。*2
遊廓跡と思われる木造3階建物※1 の隣にある2階建ての木造家屋。
こちらも奥行のある建物です。
町屋風の建物。
2階部分。
華やいだ雰囲気です。
戸町一丁目の海岸一帯は昭和初期までここは遊廓地帯で、狭い道を挟んで木造三階建てを主とした大きな家が二十軒ほども競い建っていました。*1
現在もその名残と思われる木造三階建ての建物が残っています。
かつての雰囲気と名残を感じます。
奥行のある建物です。
高台の上る道路の途中から。
大宮公園の園内にある動物園・遊園地。
遊園地(児童スポーツランド)。
動物園が隣接しています。
現在の動物園から遊園地にかけての一帯は、高級料亭「萬松楼」があった場所です(案内板より)。
萬松楼は、敷地内に鉱泉を掘り当てたことから明治二十一年に開業した料亭・旅館です。明治二十四年十月には正岡子規と夏目漱石が滞在しました。*1
菊坂の樋口一葉旧居跡。このあたりは、古い木造建築が多く残っています。
樋口一葉も使ったと言われる井戸。
現在は、防火用水として使われています。
逆方向から井戸のある方向の眺め。
白山花街があった場所から南東方向へ約500m。徳田秋声の旧宅跡があります。
徳田秋声の「縮図」は、白山花街が舞台となりました。*1
案内板。
東京都の史跡に指定されています。
今回は、新宿大木戸の町並みを散歩します。
明治時代、内藤新宿と呼ばれていた頃、現在の新宿一丁目交差点から西側は、新宿遊廓があった場所で、街道の両脇には妓楼が建ち並んでいました。*1
新宿一丁目交差点南側は、新宿御苑大木戸門です。
逆方向から見たところ。ここから約100m先に、史蹟「四谷大木戸跡」があります。
地下鉄新宿御苑駅近く。
この付近にも妓楼が建ち並んでいました。*1(写真右は秋葉神社。)
かつての吉原遊廓であった吉原ソープ街の外周部分はおはぐろどぶと呼ばれた堀があった部分です。現在もその名残の段差が随所に残っています。※1
北西側の道路は、段差が顕著に残っている場所の一つです。
吉原交番の近く。おはぐろどぶ跡から道路に向かう場所が坂道になっています。
花園通り(南東側)の段差。ソープ街へ通じる細道です。
神田小川町の靖国通りから南へ入ったところにある「みますや」。創業は、明治38年、現存する東京の居酒屋では最古といわれています。看板建築の建物は、昭和3年のたてものです。*1
昭和の雰囲気が残る店内。
昼間はランチ営業です。ごはんの大盛(100円)は、ものすごいボリュームです。
夜になると、居酒屋の営業が始まります。
西仲通り商店街(もんじゃストリート*2)は、日露戦争後の人口に伴い、自然発生的にできたもので、道の真ん中に露店が出ていたのが特徴でした。*1
西仲通り商店街には、2階部分に昔ながらの屋号が残っている「看板建築」商店が残っています。*2※1
一歩路地に入ると、昔ながらの生活空間の雰囲気が残っています。
渡り廊下のある路地。
最近は、開発が進み、周辺は高層マンションが林立しています。
「土手の伊勢屋」は、明治22年、吉原遊廓の出入口「吉原大門」に創業。当時、店の前に「土手」があったことから「土手の伊勢屋」と呼ばれました。創業より、吉原を訪れるお客様、吉原に努める牛太郎(客引き)などで、吉原遊廓への出前などで、お店は繁盛しました。*1
登録有形文化財にも指定された建物は、東京大空襲で焼け残った木造建築です。*1
天丼(イ)と日本酒を注文。
柱時計。
【参考文献】
*1 土手の伊勢屋:パンフレット
とおはぐろどぶ跡(水道尻側)。
おはぐろどぶと旧遊廓域への道が交差する箇所。おはぐろどぶの方が低いので段差になっています。
北西方向へ進むと、おはぐろどぶと旧遊廓域との段差は顕著になります。
駐車場となっている場所。50cmほどの高低差があります。(写真奥はソープランド街)
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、怪談「雪女」の中で紹介している雪女伝説は、青梅が舞台であったとされ、昭和レトロ商品博物館には、「雪女」に関する展示コーナー「雪女の部屋」があります。
「雪女」のストーリーの展示。
「雪女」は、男に冷たい息を吹きかけて、男の精を吸いつくして殺してしまいます。
「雪女の部屋」への階段。階段脇には、小泉今日子さんの等身大パネル(ラフカディオ・ハーン=小泉八雲→小泉今日子という意味?)が展示されています。
「雪おんなサイダー」を購入。
gsi.go.jp/#18/35.585965/139.736657/&ba今回は、大森(東京都品川区)の町並みと風俗を散歩します。
大森海岸の芸妓屋は、明治26年5月に八幡橋際に開業した料理屋の伊勢原が隆盛し、魚栄、松浅、八幡楼等引き続き開店し、間もなく芸妓屋が開業したのが始まりでした。*1
現在八幡橋は無く、八幡橋があった場所は「八幡橋児童公園」になっています。
八幡橋の東側には、競艇場の「ボートレース平和島」が見えます。
八幡橋近くには、待合だった「梅元」の建物が現在も残っています。*2
現在は、オフィスビルが乱立するエリアになっています。
【参考文献】
*1 東京市大森区:大森区史(東京市大森区,1939)P.1138-P.1139
*2 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.220
稲佐遊廓の中でも当時からその後も一番大きくて有名な所が、遊廓の中心の十字路の西北角に存在した吉田屋でした。*1
吉田屋支店があった場所には、旧アパート(稲佐荘)の建物があります。*2
タイルで装飾された玄関。
吉田屋は、別に吉田屋本店、吉田屋支店を持ち、その三楼(写真の道路の左側に建ち並んでいました。)からの眺望は、この界隈で一番高所であるため、長崎の街が北から南まで見える絶好の見晴らし場所でした。*1
【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 善隣出版社:長崎市(北部)・浦上・城山・西北・滑石・稲佐・立神・木鉢・神島・福田・式見(善隣出版社,1970)P.124
今回は、長崎稲佐(長崎市長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
稲佐は、幕末の「安政の五か国条約」による開国でロシア国の軍艦寄港地となり、いわゆるロシア村が形成されました。ロシア村には、ロシア水兵用休息所(マタロス休息所)があり、稲佐遊廓のはじまりとなりましたが、明治37年に日露戦争が勃発すると、ロシア軍の軍艦は一隻も来なくなりました。*1*2
その後、稲佐遊廓は、明治39年に許可となり、妓楼数14軒、娼妓115名の規模となりました。*3
東側のメインの通りの南隣の路地。
古いアパートの建物。
外国人墓地(写真右側)の境界の塀。路を隔てた反対側(写真左側)には、遊喜楼、湊楼がありました。*1
遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1
【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 松竹秀雄:ながさき稲佐ロシア村(長崎文献社,2009)P.108,P.204
*3 博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.158 「全国遊廓案内」
今回は、神楽坂(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
神楽坂を登ると毘沙門天(善国寺)の斜め右側に、平安時代初期から明治の終わり頃まで続く行元寺という由緒ある寺がありました。行元寺の門前町には、岡場所があって、売女は「山猫」と呼ばれ江戸市中に知られていました。神楽坂に花柳界ができたのは、幕末に近い安政4年で、場所はこの行元寺門前町と伝えられていますが、神楽坂芸者の発祥が山猫であったかどうか詳しいことは分かりません。*1
2000年頃、行元寺跡地に超高層マンションを建設する話が持ち上がり、反対運動が起きましたが、結局マンションは計画通り完成しました。*2
この場所には、行元寺が武家地として借地していた時の路地が区道として生きていましたが、マンションの建設により、区道(路地裏)はまとめて消失し、マンション脇に新しい区道が付け替えられました。区道の付け替えで生まれたささやかな新宿区立公園を地元民たちは、行元寺にちなみ「寺内公園」と命名しました。*3
寺内公園には、その由来を記した案内板が設置されています。明治33年、寺内(じない)公園あたりに待合の「吾妻屋」が開業し、これをさかいに、寺内の貸武家地跡は置屋、料理屋、待合ができ花柳界が形成されていきました。*3
【参考文献】
*1 西村和夫:雑学神楽坂(角川学芸出版,2010)P.111-P.113
*2 松井 大輔,窪田 亜矢:日本建築学会計画系論文集(2012.10)P.2407-P.2414 「神楽坂花街における町並み景観の変容と計画的課題」
*3 渡辺功一:神楽坂がまるごとわかる本(展望社,2007)P.54-P.55,P.69,P.211-P.213
目黒競馬場は、明治40年に開設され、昭和7年に第一回日本ダービーが開催されました。昭和8年に府中に移転しましたが、現在も競馬場の外周だったゆるやかなカーブを切る道が残されています。*1
バックストレッチ部分の直線を抜けたあたりに大きな桜の木のある公園があります。
この桜の木は、競馬場があった頃から生えていた木だそうです。当時の面影をしのぶことができます。
桜の由来。
【参考文献】
*1 赤岩州五:昭和・大正・明治の地図でいく東京懐かし散歩(交通新聞社,2009)P.44-P.47
かつての吉原遊廓は「おはぐろどぶ」という掘で囲まれていましたが、現在も周辺の道路にその名残をみることができます。
おはぐろどぶがあった場所は、遊廓があった場所よりも低い位置にあったため、その高低差を埋めるための階段があちこちにあります。
階段の脇の石垣の下の石が、かつてのおはぐろどぶの名残です。*1
よく見ると、下の石は黒ずんでいます。
【参考文献】
*1 町田忍:東京ディープ散歩(アスペクト,2008)P.33
浅草の六区ブロードウエイ商店街。
現在のウィンズ浅草のあるあたりから西側は、昭和の初期までは、浅草公園があった場所で、ひょうたん池と呼ばれる大きな池があり、ブロードウエイ商店街のつきあたり(現在、パチンコ店がある場所)には、明治・大正時代、凌雲閣(りょううんかく)がありました。
最近になって、パチンコ店の前に凌雲閣の銅版の碑が設置されました。
東京タワー、東京スカイツリーと並んで、東京三大ツリーと呼ばれているそうです。
凌雲閣、またの名を(十二階建てだったので)「浅草十二階」は、高さ52mの高塔で、東京タワー(333m)のわずか6分の1以下の高さですが、明治一の高塔で、東京のランドマークでした。現在のタワーから比較すれば、低い塔である凌雲閣からの眺めは近景を見たときに人の形がはっきり分かる程度で、つまり、その展望台は、「人をみるという感覚」「人に見られるという感覚」を感じることのできる「適切な低さ」を持っていました。石川啄木の明治41年8月21日の日記には、浅草十二階から望遠鏡で下を見下ろしたとき、細い小路で男が淫売婦に捉るところが見える」という話が書かれています。1
「路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、”チョイト” ”様子の良い方” ”チョイト、チョイト、学生さん” ”寄ってらっしゃいな”」
当時、東京の私娼窟の中心は、浅草十二階下界隈でした。私娼4,000人(吉原の登録娼妓数2,409名の約1.7倍)、銘酒屋、新聞縦覧所(取締の目を逃れるため密淫売業者が編み出した業態カムフラージュの一つ)、小料理店の名目で、私娼を抱える店は700店に及んでいました。2
【参考文献】
*1 細馬宏通:浅草十二階(青土社,2001)P.8-P.11,P.236
*2 竹村民郎:廃娼運動(中央公論社,1982)P.63
今回は、新宿の町並みと風俗を散歩します。
新宿2丁目に大宗寺(だいそうじ)があります。江戸時代の内藤新宿の数少ない遺構の一つです。近くには新宿遊廓がありました。
新宿遊廓の楼名の玉垣があります。
不二川楼本店、第一港楼の名前があります。
新港楼。
今回は、白山(東京都文京区)の町並みと風俗を散歩します。
都営三田線春日駅の小石川方面口からでると白山通りがほぼ南北に走っています。しばらく北上すると右側に興陽社ビル(1階は紳士服コナカが出店)があります。
ビル前の右手に「一葉 樋口夏子碑」がたっています。 一葉の終いの住まいの跡は、この碑の後方で、ビルの敷地の奥にあたります。*1
碑の下には、「一葉のパンフレット、ご希望の方ご自由にお取りください。」と書かれた立て札があります。箱の中をあけてみると、興陽社が作成したパンフレットがあります。
同じ並びのハイツ西片の車の通路から裏の駐車場へ入ると、西片の台地がせまっていて、一葉の住まいが崖下にあったことがわかります。
【参考文献】
*1 槐一男:一葉の面影を歩く(大月書店,1995)P.84-P.88
吉原土手の通りに面して、桜鍋料理の専門店「中江」があります。
馬肉のスキヤキのことを馬鍋とかサクラ鍋といいます。馬鍋は、明治の文明開化の申し子ともいえる牛鍋に対応したものです。馬肉のことを隠語で「サクラ」ということからサクラ鍋と呼ばれるようになりました。*1
当時、遊廓があり、粋な歓楽街として栄えていた吉原には桜鍋を売る店が二十軒以上も軒を連ね、吉原名物、数少ない東京の郷土料理として、吉原遊廓行き帰りの粋客から朝・夜問わず食されました。「中江」は、その中の一店舗として明治38年に暖簾を掲げました。*2
桜鍋のロース(1700円)とザク(ネギ、しらたき、腑の盛り合わせ、560円)を注文。
【参考文献】
*1 桜肉料理「中江」パンフレット
【参考URL】
*2 桜なべ「中江」:公式ホームページ「中江百年物語」
猟師町の赤レンガの堤防付近から北側を見ると銭湯の入船湯の煙突が見えます。
羽田では海で働くため午後になると漁師たちが集まり汗を流し、銭湯は町の社交場になりました。110年前には営業していたと伝わっていますが、昔は団子湯といい、60年ほど前から入船湯になりました。*1
入口付近。
清潔感のある脱衣所。
【参考文献】
*1 大田区観光協会:大田区観光ガイド(ハーツ&マインズ,2007)P.37
横須賀にある三笠公園には、日露戦争の日本海海戦で活躍した戦艦三笠が保存展示されています。戦艦三笠の前の銅像は、日本の連合艦隊を指揮した東郷平八郎海軍大将です。
記念館三笠は、第二次世界大戦終結まで、神国日本の霊験あらたかなシンボルでした。*1
戦艦三笠の前に、軍艦マーチ(行進曲「軍艦」)の記念碑が建っています。
碑文によると、軍艦マーチは、明治30年(1897年)に軍楽師だった瀬戸口藤吉により作曲され、世界三大行進曲の一つに数えられる希有の名曲として音楽史を彩っています。
世界三大行進曲とは、
①星条旗よ永遠なれ(アメリカ、スーザ作曲)
②旧友(ドイツ、タイケ作曲)
③軍艦行進曲(日本、瀬戸口藤吉作曲)
のことですが、根拠は不明で、どちらかと言うと、国内で言われていることのようです。*2
昭和20~30年代、パチンコ店の開店時は必ず軍艦マーチが流れていました。パチンコ店で最初に軍艦マーチを流したのは、昭和26年、有楽町のガード下に開店した「メトロ」という店で、元海軍航空隊のオーナーは、店内にあふれる米兵とその腕にぶら下がって歩く街娼たちを苦々しく思い、その腹いせに軍艦マーチをかけたそうです。*1*2
軍艦マーチは、キャバレーでも使われました。*2
昭和50年代、全国組織のピンクキャバレーとして名高い「トロント」の新宿グラマー店では、6時の開店と同時にホールいっぱいに軍艦マーチが流れ、ホステスさんの呼名点呼が行われます。この間、客が店内に入ってきます。30分以上続いた点呼が終わるとふたたび軍艦マーチが流れ、サービス開始となりました。*3
【参考文献】
*1 杉山一夫:パチンコ誕生(創元社,2008)p.103-P.106
*2 谷村政次郎:行進曲『軍艦』百年の航跡(大村書店,2000)P.185-P.190
*3 和田平介:キャバレー日記(晩声社,1981)P.29-P.30
明治36年に、浅草六区に、日本最初の活動写真の常設館「電器館」が開設されました。電器館は、当初は、電気仕掛けの器具類を応用した見世物小屋でしたが、後に、フィルムの配給受け活動写真の上映を始めました。見物人は下駄ばきで腰掛もない土間に立たされましたが、入場料の安さと、日露戦争(明治37年)後は戦況を知らせる実写映画が打てるようになったことで、客足が伸びました。*1
40年代になると、見世物小屋次々と活動写真館に転身し、三友館、大勝館、富士館、帝国館、金龍館などが誕生する。六区は日本一の活動写真街となり、新着洋画も、まず浅草で封切られました。*2
凌雲閣(またの名を浅草十二階)は、明治一の高塔であり、東京のランドマークでした。設立当初は、その名を「凌雲閣」と称していましたが、明治45年を境に、「十二階」の通称に変更になりました。*1
十二階の内部デザインには第三回内国勧業博覧会(明治23年の4月から7月)のレトリックが大幅に取り入れられました。*2
凌雲閣が画期的だったのは、エッフェル塔と同じく、電動式昇降機械(エレベーター)が設置されたことでした。*3