江戸時代から300年の歴史を持つ三島町中通りの三島宿場女郎は、大正時代には、時代に減少傾向となりましたが、大正末期に各地に遊廓設置の機運が高まったことを機会に、三島遊廓の設立が検討され、町の風紀上最も影響の少ないと考えられる旧宿場の西南の地(現在の清住町)を買収して三島新地、すなわち三島遊廓を設置しました。*1
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三島遊廓があったと思われる場所。
三島遊廓設置時点で、その貸座敷業組合員は、稲妻楼、尾張楼、万寿楼、井桁楼、新喜楼の五楼に減少し、戦時中にもかかわらず最後まで営業を続けたのが新喜楼経営の村岡氏でした。
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電柱のプレートには、「新地」の名が確認できます。
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旧三島遊廓の近くにある貯水池。
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【参考文献】
*1 三島市誌編纂委員会:三島市誌 中巻(三島市,1959)P.433-P.434