駅近くにある銭湯の龍城温泉。 木造の建物で、かなりねんきの入った建物です。
残念ながら、本日はお休みでした。
2階部分。迫力満点です。
側面の煙突部分。下部は煉瓦でてきています。
駅近くにある銭湯の龍城温泉。 木造の建物で、かなりねんきの入った建物です。
残念ながら、本日はお休みでした。
2階部分。迫力満点です。
側面の煙突部分。下部は煉瓦でてきています。
伝馬町ので見かけた制服屋さんの看板。
ショウウィンドウ。
商店街の中でも目立つ存在です。
2階部分は、モダンな造りになっています。
岡崎市の東側。中町大門通りがあります。この付近に中町東遊廓がありました。
東遊廓は、大正12年に、伝馬町と板屋町の遊廓から約36軒が移転してできました。*1
大門通りを進むと、途中から道幅が広くなっている場所があります。当時の家並みを再現した地図「遊廓の店舗配置」*1 を見ると、このあたりが遊廓の入口であることがわかります。地図には、門柱と思われるマークが記されていますので、おそらく、この場所に大門があったのでしょう。
遊廓の西側を南北に貫く吾妻通り。吾妻通りの中ほど(写真中央)から右側(東側)へ延びる通りが高砂通り。*1
羽衣通りの北側(写真左側)には芸者置屋がずらっと並んでいました。*1*2
写真は、銭湯の東湯があった場所から東側を見たところですが、遊廓地の面影は残っていません。
【参考文献】
*1 岡崎地方史研究会:写真集明治大正昭和岡崎 ふるさとの想い出229(国書刊行会,1981)P.55 「遊廓店舗の配置」
*2 名古屋郷土出版社:岡崎いまむかし(名古屋郷土出版社,1989)p.74-P.75
岡崎の遊廓は、伝馬町と板屋町の2箇所にありました。*1
板屋町には、現在も古い民家の建物が残っています。
通りの両側に木造民家が建ち並んでいます。
2階部分。
通りを曲がったところにももう1軒。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.84
今回は、岡崎(愛知県岡崎市)の町並みと風俗を散歩します。
岡崎城の東側に位置する伝馬町は、江戸時代、宿場町として栄えました。
伝馬町の旅籠には、飯盛女を置く旅籠も現れ、以降、岡崎は「岡崎女郎衆」で有名な宿場となりました。*1
伝馬町は、明治22年に東海道線が開通すると宿場の機能が薄れ、かつての旅籠は遊廓などに変わっていきました。岡崎は、商人が多く人の往来が多かったので、遊廓は繫盛し、「伝馬の遊廓」として有名になりました。*1
交差点の角には、大正時代から続く映画館の「常盤館」(後に、岡崎東宝→岡崎東映→グランド劇場)がありましたが、現在はコンビニに建て変わっており、敷地には「西本陣跡」の碑が建っています。
【参考文献】
*1 名古屋郷土出版社:岡崎いまむかし(名古屋郷土出版社,1989)p.70,P.72
御殿場市の南部にある富士岡地区。近隣には、富士岡公園、富士岡中学校、陸上自衛隊駐屯地などがあります。
富士岡は、その名が示す通り、富士すそ野の丘陵地に立地することから富士岡と名づけられました。*1
富士岡公園からは、さえぎられることなく、富士山の雄姿が望めます。
富士岡中学校。昭和60年に現在の場所に移転・建築されました。
富士岡中学校は、移転前は、駒門の現在の陸上自衛隊駐屯地(かつての米軍のサウスキャンプがあった場所)にありました。
1950年の朝鮮戦争勃発に伴い、米軍はサウスキャンプを拡大。隣接する富士岡中学校の運動場などが接収され、鉄条網を隔てて中学校と米軍キャンプが接するようになりました。同時に特飲街やパンパンハウスが中学校をぐるりと囲むようになり、水道施設が未整備であったため、女性たちが校内へ水汲みに来たり、鉄棒に布団を干していったりしました。また、昼間からジャズが流れ、米兵との性行為が校舎の2階から生徒たちの目にも入ってきました。このような状況は、昭和28年(1953年)までの約6年間続きました。*2*3*4
【参考文献】
*1 「角川日本地名大辞典」編纂委員会:角川日本地名大辞典 22静岡県(角川書店,1982)P.836
*2 平井 和子:女性史学(11)(2001)「米軍基地買売春と反「売春」運動–御殿場の場合」
*3 勝間田二郎:御殿場・裾野・小山郷土誌 下巻(勝間田二郎,1997)P.764
【参考URL】
*4 第15回国会予算委員会 第13号議事録(1952.12) 岩間正男、矢嶋三義委員の現地報告
JR御殿場駅の東側、乙女峠に登る途中にある二の岡地区は、明治初期から別荘地として開け、「東海道の軽井沢」と呼ばれていました。*1
「御殿場町二ノ岡及其附近別荘略図」*2 によると、二の岡フーズ(二の岡ハム)の東側には、外国人別荘が集中する一画がありましたが、現在、その面影はありません。
二の岡公民館脇に、名前が読み取れないほど風化した碑が建っています。
この付近は、現在も地蔵堂という地名で呼ばれており、付近に地蔵堂がありました。*2
お堂の再建の碑でしょうか。当時の別荘の所有者の名*2 が刻まれています。
御殿場市街の北側に、銭湯の玉の湯があります。
町工場のような重厚な煙突です。右側は、銭湯の設備の建物です。
入口はシンプルなデザインです。
脱衣場は、畳のスペースがあって、くつろげます。
駅前のスナック街のはずれに閉店したキャバレーがあります。
店の大看板。電球の数の多さは圧巻です。
側面の階段が入口です。
隣接する墓地から遠望。
【参考記事】
*1 風俗散歩(御殿場):駅前のスナック街(2009.9)
今回は、御殿場(静岡県御殿場市)の町並みと風俗を散歩します。
御殿場は、東富士演習場など多数の防衛施設を抱える町です。戦後は、米軍の進駐により、滝ケ原(ノースキャンプ)、駒門(サウスキャンプ)、板妻(ミドルキャンプ)が設置され、これらの基地の周辺や御殿場駅周辺には、歓楽街が出現しました。*1
御殿場駅近くには、このときの歓楽街かどうかは解りませんが、御殿場駅近くに、スナックが密集する一画があります。
和風と洋風の建物が混在しています。
スナック街の奥まったあたり。
「OK横丁」と壁に手書きで書かれています。
【参考文献】
*1 平井 和子:女性学 通号5(1997)P.122-P.123 「米軍基地と「買売春」–御殿場の場合」
小樽市内には、17軒*1 の銭湯があります。
その銭湯群の中でも北側に位置する都湯。長橋十字路近くにあります。
銭湯の建物を横から見ると、独特の形をしていることがわかります。
入口は、鮮やかな水色のタイルで装飾されています。
中央に湯舟が配置されています。湯舟の深さはかなり深いです。(1m近くあったような気がします。)
【参考文献】
*1 ゆっくりじっくり小樽観光ガイドブック(小樽観光協会,2009)
飲食店やスナックが密集する花園銀座商店街。COFFEEHOUSEの建物に、ファッションキャバレーの名前があります。
ピンク色の看板。
入口の階段。天使が妖艶になる聖地。
入口の看板。
嵐山新地*1 の東側(JR函館線の高架を隔てた反対側)に稲荷小路があります。
稲荷小路のアーチ。
その名の通り。奥には稲荷神社があります。
夜の稲荷小路
小樽市花園の花街エリア。JR函館線の高架近くに、嵐山新地があります。
嵐山通りに面したところに、もう一つのゲートがあります。
ゲートの裏側には「ありがとうございました。」
夜の嵐山新地。
小樽市相生町。緩やかな下り坂です。
古い理容室の建物に緑色の牛乳箱。
「北のおいしさ開拓使」と書かれている保証牛乳の牛乳箱。
明治時代、北海道が農業(牧畜)を中心に開拓が進められてきたことを想わせるキャッチフレーズです。
緑色が鮮やかです。
小樽には、町の海側を走るもう一つの鉄道として、手宮線がありました。現在も手宮線の遺構が色内町に残されています。
飲食街跡の建物*1 の裏側。
線路沿いは保存活動が進み、綺麗に整備されています。
色内1丁目12-12には、料亭「新松島」がありましたが、残念ながら平成11年に解体され、現在はマンション(写真左奥)に建て替わっています。*2
料亭「新松島」は、映画「はるかノスタルジィ」で、少年時代の綾瀬が娼婦の母親に会いに行くときの娼家街入口の撮影で使用されました。*3。
映画「はるかノスタルジィ」では、作品の随所に小樽の美しい町並みが紹介されています。石田ひかりさんのヌードも話題になりました。
【参考記事】
*1 風俗散歩(小樽):色内町の飲食街跡(2009.9)
【参考文献】
*2 小樽再生フォーラム:小樽の建築探訪(北海道新聞社,1995)P.39
*3 小樽駅観光案内所:はるかノスタルジィin小樽ロケーション・イメージマップ(1991)
色内1丁目に、廃業した飲食店の建物が残る一画があります。
酌婦との出合いを描いた小林多喜二の作品「その出発をした出発した女」の舞台となったあたりです。*1
通りに面して、居酒屋やスナックの建物が建ち並んでいます。
飲食店街の北端のあたり。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.36-P.37
今回は、小樽(北海道小樽市)の町並みと風俗を散歩します。
別名「裕次郎ホーム」と呼ばれている小樽駅4番ホーム。
「裕次郎ホーム」には、石原裕次郎さんの等身大パネルが設置されています。
等身大パネルの脇には、「1978.5.15 石原裕次郎この場にたつ」と書かれたプレートがあります。
石原裕次郎さんは、1934年12月28日兵庫県神戸市に生まれ、幼少期を北海道小樽市で過ごしました。
釧路市街の栄町に、栄楽街と呼ばれる一画があります。十文字の路地の出入口にあたる場所には、それぞれ、北口、南口、西口、東口と書かれた看板があります。
東口付近。
路地の中心部。飲食店と風俗店が密集しています。
南北に走る路地。
今回は、釧路(北海道釧路市)の町並みと風俗を散歩します。
釧路市内には、石川啄木ゆかりの場所が数多く残されています。
石川啄木は、「釧路新聞社」に就任のため、明治41年、23歳のときに、釧路駅に着きました。初めの頃は夜な夜な桃源郷の気分で紅灯の巷に遊びました。*1*2
喜望楼は、当時釧路第一級の料理屋で、啄木が釧路に来て初めて芸妓というものを知った場所でした。現在、喜望楼があった場所は、佐野碑園となっており、園内に喜望楼跡の碑が建っています。*2
料亭鹿島屋は、当時の新聞記者がよく集まった場所で、助六、市子などの芸妓がいて、啄木の艶種記事「紅筆便り」の取材源でした。「武冨私道」と呼ばれる緩い坂道の途中にありました。*2
坂を登りきったところに、「武冨私道」と書かれた小さな石碑(写真右下)が残っています。明治40年代は小さな酒場が並んでいて、啄木は何度もこの坂を上り下りしました。*1
【参考文献】
*1 永田秀郎:路街並み今・昔(北海道新聞社,2005)p.62,P.68-P.69
*2 鳥居省三:石川啄木 第2版(釧路市,1981)P.19,P.176-P.177
砂浜草原が広がる野付半島。後方に知床連峰が見えます。
幻の歓楽街伝説を追って、野付半島を南下します。30分ほど歩くと、ここから先は車両乗入れ禁止となります。
さらに歩くこと約1時間。野付半島の南端部にたどり着きました。わずかに漁業施設が点在するのみで、周囲は一面の草原と湿地です。
さらに道を進むと、周囲に湿地が増え、歓楽街「キラク」があったとされる砂嘴(さし)からは徐々に遠ざかってしまいます。「キラク」があった方角を遠望し、この地点から引き返すこととします。
【参考文献】
*1 なるほど知図帳日本編集部:歴史の足跡をたどる日本遺構の旅(昭文社,2007)P.20-P.27
知床半島と根室半島のちょうど中間に野付半島があります。
野付半島は、鳥の羽根のような形をした砂嘴(さし=潮流で運ばれた砂が長い年月で堆積した地域)で、その大きさは全長28Kmに及び、日本最大です。大部分は、砂浜草原と湿地原で構成されています。
半島の中央部にあるネイチャーセンターに、「幻の歓楽街『キラク』」の説明があります。
「キラク」は、江戸時代末期まで、交易や漁業の拠点として栄え、40~50軒の家がありました。そこには遊廓があり、多くの女性が住んでいました。*1*2
ネイチャーセンターからは、距離16Kmの近くて遠い島である国後島(ロシア領)を望むことができます。
【参考文献】
*1 なるほど知図帳日本編集部:歴史の足跡をたどる日本遺構の旅(昭文社,2007)P.20-P.27
*2 朝日新聞北海道版(1995.1.22)P.20
標津市街の国道244号線沿いにスナックが密集しているエリアがあります。
はまなす通り。
現在は、寂れています。
元スナックと思われる建物にあった演歌師お断りのプレート。
今回は標津(北海道標津郡)の町並みと風俗を散歩します。標津(しべつ)町は、知床半島と根室半島の中間に位置し、国後島(ロシア領)が見える町として有名です。
市街を南北に貫く国道244号線は、町のメインストリートです。
「標津ひとむかし」の「明治から大正の標津市街略図」*1 によると、敬栄寺沿いの通りの龍雲寺の向かい側の四つ角に、遊女屋が1軒ありました。
龍雲寺は昭和40年に南六条西1丁目に移転し、跡地には電報電話局(当時)が設置されました。*2
現在は、NTT根室標津ビルとなっています。(写真右側)
これらの位置関係から、遊女屋は、現在のパチンコ店がある場所にあったことになります。
【参考文献】
*1 北海道標津町郷土研究会:標津ひとむかし(北海道標津町郷土研究会,1991)P.134-P.135
*2 標津町史編纂委員会:標津町史第1巻(標津町史編纂委員会,1968)P.1018-P.1019