コザ(中乃湯)全国選りすぐりの銭湯10選。

コザ十字路近くのバス停「安慶田(あげだ)」から路地を入ったところに、銭湯の中乃湯があります。中乃湯は、町田忍さんの「銭湯遺産」*1 の中で「全国選りすぐりの銭湯10選」に選ばれた名銭湯です。
入口にフロント形式の番台がありますが、その前にベッチがあって、近所の方と思われるおばさんたちが数名、ベンチに座って楽しそうに会話をしています。その前を通りすぎて入口に入ろうとすると、実はそのおばさんの一人が中乃湯のおかみさんだということが解りました。

中乃湯の創業は昭和35年頃です。沖縄の銭湯のすべてがそうであるように、脱衣場と浴室が同一空間にあるという本土にはない様式です。*1
「銭湯遺産」には、おかみさん自らが白セメントで補修したという真っ白な小判形の湯船の写真が掲載されていて、町田忍さんは、「沖縄の美しい海を表現するアート作品のよう」*1 とたたえていますが、現在はリニューアルされてタイルの湯船になっています。

カゴ類はなく、服は直接棚に入れます。*1

カランは家庭用のものを使用し、Y字形のゴムホースは、常連客の手作りです。*1

【参考文献】
*1 町田忍:銭湯遺産(戎光祥出版,2008)P.38-P.40

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コザ(旅館フロリダ)カラオケハウスの2階。

コザのゲート通りとBC通りの間には、数年前まで保健所があって、現在も保健所通りと呼ばれています。

旧保健所の近くを北西へ折れると、古いカラオケハウスがあります。

カラオケハウスの2階は旅館になっています。

2階部分。

参考文献

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コザ(ゲート通りのランジェーリショップ)1960年から続く洋品店。

ゲート通りの商店街に1960年から続く洋品店があります。

ショーウィンドウには派手なランジェリーが陳列されています。

セクシーランジェリーがディプレイされています。

ショーウィンドウの奥に鏡が置かれているので、背面のTバックの部分がよく見えます。

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コザ(ゲート通り周辺のスナック)スナック喫茶「プリンス」。

コザのゲート通りは、かつては米兵向けの歓楽街でした。現在もその名残として、英字看板の店舗が建ち並ぶ通りになっていて、バーやスナックも営業中です。

通りに面した場所にあるスナック喫茶「プリンス」の看板。

通りから路地に入ったところにあるバーの建物。

木造家屋を改装したスナック。

参考文献

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コザ(コザ琉映)成人映画上映中。銀天街の近く。

コザの銀天街の近くに映画館があります。

堂々としたコンクリート建築です。

成人映画上映中です。

ほとんど判読できませんが、おそらく「コザ琉映」と書かれていたのだと思います。

参考文献

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コザ(ホテル「ナポリ」)入口に赤瓦。古いビジネスホテル。

コザ十字路近くに、古いビジネスホテルがあります。

ホテルナポリ。

入口は赤瓦でデザインされています。

現在は、休業しているようです。

参考文献

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コザ(美越通り沿いの理容室)古い木造の建物。

コザ十字路近くの美越通り沿いに、レトロな理容室があります。

古い木造の建物です。

すぐ近くにもう1軒、理容室があります。富士山のイラストが印象的です。

年季の入った入口のドア。

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普天間(屋宜原のラブホテル)山の斜面にあります。

普天間から北へ向かってバスに乗って4つ目の停留所の屋宜原(やぎばる、中頭郡北中城村)は、周囲を山に囲まれた集落ですが、山の斜面にはラブホテルが数軒建ち並んでいます。

坂の途中にラブホテルがあります。

円形のホテル。

夜になると、綺麗です。

参考文献

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普天間(基地の町のスナック街)普天間宮の門前町

今回は、普天間(沖縄県宜野湾市)の町並みと風俗を散歩します。
普天間は、普天間宮の門前町として栄えた場所ですが、町の南側には普天間飛行場が位置し、北側には、同じく米軍のキャンプフォスターがあって、古くからの町と基地の町という2つ顔を持った町です。
町の奥まったところにスナックが密集しているエリアがあります。

木造のスナックの建物。

すすけたコンクリートの大看板。かつてはここに英文字で店名が書かれていたのだと思います。

建物正面に入口を持つスナック。

参考文献

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浦添(屋富祖大通りの理容室)アイパー。パンチパーマ。

屋富祖大通りの東側。

レトロな理容室「東京理容館」があります。

建物の側面。パンチパーマ、ニグロ、アイパー...。

建物の全景。

参考文献

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浦添(屋富祖飲食街)「豚の報い」撮影の舞台。

屋富祖大通りから路地に入ったところに、百メートル前後の飲食街があります。

1996年の芥川賞受賞作、又吉栄喜さんの「豚の報い」は、スナックに豚がちん入する奇想天外な場面から始まる奇妙な作品です。この作品は、1999年に映画化されましたが、「豚ちん入」のロケは、この横丁の入口にさくをして二、三十頭の豚を追いたてて行われました。撮影は、2日間かけて行われましたが、何回もくりかえすので豚も人もへとへとになったそうです。*1

屋富祖の飲み屋街は、一般に開店が遅く、明け方まで営業しています。*1

数年前まで、営業していた24時間営業のヤギ料理店*1 は、現在は看板が取り外されています。

【参考文献】
*1 琉球新報社:沖縄名作の舞台(琉球新報社,2003)P.94-P.97

参考文献

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浦添(屋富祖の飲み屋街)屋富祖大通り。路地はL字型。

屋富祖大通りの坂を登りきったあたりに、長屋の飲み屋街があります。

周囲は開発が進んでいますが、ここだけが時間が止まっているような雰囲気です。

小路の両側に飲み屋が並んでいます。

飲み屋街の路地は、L字型に続いています。

参考文献

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浦添(屋富祖・城間の特飲街)屋富祖大通りと城間大通りが合流するあたり。

 今回は、浦添(沖縄県浦添市)の町並みと風俗を散歩します。
浦添市の屋富祖・城間は、キャンプキンザーのメインゲートに直面していることから、屋富祖・城間の大通り周辺には、米兵相手の飲食店や雑貨店が多く建ち並びました。*1

屋富祖大通りは、一帯で最も賑やかな目抜き通りで、通りの路地にはAサインバーが集中していて、白人専用の特飲街を形成していました。*1

一方、城間大通りは、2~3軒の雑貨店、1~2軒の沖縄人相手の料亭を有する歓楽街でした。*1
(下の写真は、屋富祖大通りと城間大通りが合流するあたりです。)

通りの中心部付近に黒人相手の大規模店「バーアラスカ」があったことから、城間大通りは黒人たちが闊歩するようになりました。米兵相手の娼婦に間借りをさせている家庭もあって、米兵の部落への出入りは盛んでした。*1

屋富祖のAサインバーに黒人が飲みに来るということはなく、それどころか黒人のハーニー(愛人)が屋富祖で間借りすることが許されないほど、この一帯の白黒の区別は徹底されていました。しかし、黒人相手の「バーアラスカ」が倒産すると、黒人兵たちは城間から姿を消しました。*1
【参考文献】
*1 沖縄市:KOZA BUNKA BOX 3号(沖縄市企画部平和文化振興課,2007)P.70「コザ十字路一帯における黒の街と白の街」

参考文献

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那覇(山羊料理店「山海」)玉の刺身と血の炒め物。

那覇港に近い東町に料理店の「山海」があります。

沖縄ではもう数少ない貴重な山羊料理の専門店です。*1
ヤギは、非常に生殖欲の強い動物として知られています。このことが世の男性諸君からヤギ肉は精力剤として評価されている理由です。フィリピン、ベトナム、インドネシア、インド、韓国などの国々でも同様な評価を受けています。特にベトナムでは「ヤギ」と「スケベ」は同じ「Con de」(コンゼー)と表記・発音します。面白いことに沖縄では泡盛にハブをつけたハブ酒があるように、ベトナムではヤギの睾丸を焼酎に漬けた睾丸酒があります。*2

有名人も数多く訪れている名店で、高円宮様ご一家も訪れています。店内にご一家の写真が飾られています。

ここの名物はヤギ玉(山羊の睾丸の刺身)です。始め、1人前を注文しようとしましたが、お店のおばさんから、「1人前食べると精力つきすぎます。鼻血出ますからやめといた方がいいです。」とアドバイスされ、特別に、ヤギ刺し半人前とヤギ玉半人前の刺身盛り合わせを作ってくれました。
これと、ヤギの血を固めて短冊に切ったものとヤギのいろいろな部位の肉や内臓、野菜を具にした炒め物「チーイリチャー」と泡盛を注文しました。
血の固まりは、やわらかい厚切りハムのようで、大変美味しいです。にんにくがきいていて、精力がつきそうな感じです。ヤギ刺しは、皮付きのものとそうでないものの2種類があって、皮付きの方があっさりしている感じです。
さて、いよいよヤギ玉ですが、こちらはコリコリとした食感で、あわびをやわらかくしたような感じですが、さすがに、少しヤギ臭いです。まるで自分の睾丸が食べられているような気分になり、思わず股間をおさえました。(写真の丸い6個にスライスされたものがヤギ玉です。)

【参考文献】
*1 カベルナリア吉田:沖縄ディープインパクト食堂(アスペクト,2010)P.16-P.21
*2 平川宗隆:沖縄でなぜヤギが愛されるのか(ボーダーインク,2009)P.12-P.13

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那覇(与儀の美容室)バルコニー部分に穴あきブロック

沖縄は、コンクリート製の住宅が普及しています。

コンクリート住宅のバルコニー部分に使用されている穴あきブロック(花ブロック)は、沖縄では日常的な風景ですが、古い建物の場合は、ブロック塀の穴あきブロックと同一のものが使用されています。

穴あきブロックは、”三つ山”などシンプルなデザインのものが好まれているようです。穴あきブロックは上下反転させて3段に配置されています。

階段部分の穴あきブロック。

参考文献

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那覇(樋川のスナック)路地に密集しています。

那覇市の樋川に、スナックが密集する路地があります。周囲は閑静な住宅街ですが、この路地だけがスナックが建ち並んでいます。

色とりどりのスナックの店舗。

古い木造建築の建物です。

別の路地に残るスナックの建物。

参考文献

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那覇(小禄新辻町の特飲街跡)白人専門でした。

那覇市の小禄半島の西には、航空自衛隊の那覇基地がありますが、この近くには小禄新辻町(新町)という特飲街がありました。*1
現在の那覇市宇栄原に「新町入口」という名のバス停があります。

新辻町は、コザの八重島と同様、米兵による強姦事件や民家の不法侵入など、犯罪の多発防止を目的に1952年につくられ、最盛期には70軒余りの店がありました。コザ同様、小禄半島の特飲街にも米軍の「人種別指定制度」が導入され、新辻町は白人専門、黒人はペリー区というテリトリーがありました。*1

現在はスナック街になっています。

東側の通りには、木造の建物も残っています。

【参考文献】
*1 沖縄市:KOZA BUNKA BOX 3号(沖縄市企画部平和文化振興課,2007)P.71「コザ十字路一帯における黒の街と白の街」

参考文献

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那覇(ペリー区)現在も呼び名が残っています。

今回は、那覇(沖縄県那覇市)の町並みと風俗を散歩します。
終戦直後、米軍は那覇軍港の整備に着手し、現在の山下町一帯は港湾従事者で活気に満ちていました。ところが、この「山下」という名は太平洋戦争の緒戦で「マレーのトラ」と異名をとった山下奉文将軍と同じ名であったため、米軍の政府政治部長だったポスト大佐がこの一帯をペリーという地名に改めました。*1
ペリーは、黒船の来航(1853年)で有名なペリーのことですが、実は、浦賀に来航する前に、那覇に来航していました。そのときのペリーの狼藉ぶりは目に余るもので、通りすがり女性の乳房を触ったり、民家に侵入してトートーメー(位牌)を奪うなどやりたい放題で、その後、婦女暴行を起こした水兵が殺害される事件まで起きました。話を冒頭の山下町に戻すと、山下町は、ペリー上陸地とは離れていますがが、米軍の意向でペリーにちなみ「ペリー区」と改名されました。*2
下の写真は、国道331号線(小禄バイパス)と県道7号線が交差するあたりで、右側が那覇軍港、左側が山下町です。

ペリー区は、軍港前を中心に米兵相手のバーが次第に増え、完全な赤線地帯となっていました。コザの町には黒人街と白人街がありましたが、黒人街の始まりは、このペリー区でした。バー街ではいざこざが絶えず、1952年には、「MP射殺事件」が発生、ついに米兵立ち入り禁止の”オフリミッツ”が発令され、これを境にペリーのバーは立ち消え、住宅街になりました。かつては、ペリーという名のバス停もありました。*1
現在も山下町には、商店などにペリーの呼び名が残っています。

ぺりー美容室。

ペリーもち屋。写真の右奥に見えるのは、「沖縄セルラースタジアム那覇」です。
1957年、琉球政府法務局は、戦後使用されなくなっていた地名を戦前の地籍どおり呼ぶことを全琉に通達、この日からペリー区も再び山下町に戻りました。*1

【参考文献】
*1 琉球新報社:ことばに見る沖縄戦後史 パート1(ニライ社,1992)P.173-P.179
*2 カベルナリア吉田:日本の島で驚いた(交通新聞社,2010)P.221-P.227

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この記事を参照している記事

浦賀(ペリー歯科)提督の名を冠した店。

堺(北旅籠町東の牛乳箱)造家屋が多く残る町並み。

阪堺電軌阪堺線高須神社駅(写真左)近く。駅のすぐ北には、高須神社が鎮座しています。付近は、木造家屋が多く残る町並みです。

森永乳業の牛乳箱。

明治牛乳。

箱の側面には、明治バターと書かれています。

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堺(フェニックス横丁)50mぐらい離れたところにもう一つ。

堺市街の北西から南東にかけて、フェニックス通りと呼ばれる幅50mの大通りがあります。フェニックス通りの名称の由来は、堺大空襲からの復興の象徴として植えた、126本のフェニックスの苗木です。
このフェニックス通りから1本道路を入ったところにフェニックス横丁があります。

2つの建物の間に計画的に作られた横丁です。

50mぐらい離れたところに、もう一つのフェニックス横丁があります。

2つの建物の間に路地があるという構造や看板の取り付け方も同じです。

参考文献

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堺(神明神社)龍神遊廓寄進の玉垣。堺のお伊勢さん。

新地にある神明神社は、堺のお伊勢さんと呼ばれている神社です。

龍神遊廓の楼主が寄進した玉垣が残されています。

「艶乃家」。

「愛乃家」など、艶っぽい屋号の玉垣がたくさんあります。

参考文献

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堺(旅館ときわ)栄橋遊廓の事務所があったあたり。

新地内のこの付近には、栄橋遊廓の事務所がありました。*1

かつての栄橋遊廓の事務所があったあたりに、古い旅館があります。

周囲は近代的なビルに建て代わっている中で、この旅館は昔のままです。

艶っぽい窓です。

【参考文献】
*1 今井清治郎:堺市實測地圖 訂正3版(文岳堂編輯部,1912)

参考文献

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堺(新地内の旅館)美しい水色のタイルで装飾。現在は住宅街。

かつて遊廓があった新地は、現在は住宅街となっていてその面影はありません。

レトロな旅館があります。
このあたりには、龍神遊廓の事務所がありました。*1

玄関は、美しい水色のタイルで装飾されています。

「いずみ荘」の看板。

【参考文献】
*1 今井清治郎:堺市實測地圖 訂正3版(文岳堂編輯部,1912)

参考文献

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堺(新地)龍龍遊廓と栄橋遊廓。新地の東側には、栄橋と龍神橋。

天保年間(1830年~1843年)、戎島(現在のイトーヨーカド周辺)の南に水路を隔てて新しい埋立地ができ、ここに茶屋などが続々と集まって俗に新地と呼ばれるようになりました。

新地の東側には、栄橋と龍神橋の二つの橋がかかっています。

新地は地の利を得て次第に発展し、遂に龍龍遊廓と栄橋遊廓となりました。*1

龍龍遊廓は貸座敷108軒、芸妓395名、娼婦20名。栄橋遊廓は60軒、娼婦654名。府下でも有数の遊廓となりました。*1

【参考文献】
*1 松本壮吉:堺あれこれ(堺商工会議所,1972)P.84

参考文献

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堺(乳守遊廓跡地)山ノ口橋の袂にありました。

今回は、堺(大阪府堺市)の町並みと風俗を散歩します。
堺は、堀で囲まれた町です。戦国時代に築かれた環濠は、自治都市堺の象徴でもありました。

町の南端の堀に山ノ口橋があります。この橋の袂には、かつて、乳守遊廓がありました。

室町時代より、町の北側には高須遊廓がありましたが、これに対抗して町の南側にできたのが乳守遊廓でした。元禄8年には高須は15軒の遊女屋に97人の遊女がいましたが、乳守の方には、24軒に167人の遊女がいました。*1

乳守遊廓事務所があった付近。

【参考文献】
*1 松本壮吉:堺あれこれ(堺商工会議所,1972)P.60,P.84

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