天保年間(1830年~1843年)、戎島(現在のイトーヨーカド周辺)の南に水路を隔てて新しい埋立地ができ、ここに茶屋などが続々と集まって俗に新地と呼ばれるようになりました。
新地の東側には、栄橋と龍神橋の二つの橋がかかっています。
新地は地の利を得て次第に発展し、遂に龍龍遊廓と栄橋遊廓となりました。*1
龍龍遊廓は貸座敷108軒、芸妓395名、娼婦20名。栄橋遊廓は60軒、娼婦654名。府下でも有数の遊廓となりました。*1
【参考文献】
*1 松本壮吉:堺あれこれ(堺商工会議所,1972)P.84