東武浅草駅前に、地下街への入口があります。
昭和の匂いの残る地下街。居酒屋や占いの店などが並んでいます。
700円の理髪店。
アダルトビデオもあります。
東武浅草駅前に、地下街への入口があります。
昭和の匂いの残る地下街。居酒屋や占いの店などが並んでいます。
700円の理髪店。
アダルトビデオもあります。
千束通り商店街から東側に入ったところに銭湯の曙湯があります。
なだらかな曲線の唐破風(からはふ)屋根と懸魚(けぎょ)と呼ばれる彫刻。
銭湯の後ろ側へ回ると煙突が見えます。
美しい漆喰塗りの塀。料亭のような佇まいです。
ひさご通りの西側に、ビジネスホテルが密集する一画があります。
商店やスナックなどが建ち並んでいます。
ホテルの大看板。
ホテルの提灯。
ロック座は、昭和22年にオープンし、23年よりストリップを開始し、昭和58年に休館となりますが、その後復活しました。*1
経営母体を替えながら、今でも同じ場所場所で営業を続けているストリップ劇場です。*1
昭和20年代に次々と造られた浅草のストリップ劇場は、浅草座や美人座などストリップ専門の小屋もありましたが、ロック座は、ストリップショー1時間半に軽演劇1時間という時間割を定めて演劇に力を入れていました。ロック座の初代軽演劇部門の初代座長は伴淳三郎でした。*2
女性は、割引です。
懐かしいアイスキャンディー売りの自転車がとまっていました。
【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の浅草(武揚堂,2007)P.37,付録地図
*2 堀切直人:浅草 戦後篇(右文書院,2005)P.207
「食道街」は、浅草の中でも、飲食街が中心となった繁華街です。
スカイツリーの方角に「ホテル」と書かれた大看板があるのが気になります。
外国人用のゲストハウスのようです。
建物の屋上に設置された広告大看板。
国際通りから新仲見世通り方面へ入ったところに、大人のオモチャ屋さんがあります。
うっかりすると、通り過ぎてしまいそうですが、町並みにレトロな店舗が溶け込んでいます
「ビデオ」の看板。
ショウウィンドウ。品揃えが豊富です。
浅草の雷門通り。この日は、三社祭の日でした。
雷門通りの南側、国際通りの東側は、旧浅草田原町一、二、三丁目から、雷門通りの北側の旧浅草北田原町の一帯は、紙漉き(かみすき)を業とする人たちが住んでいたことから、紙漉町と呼ばれていました。旧町名の案内板には、このことが記述されています。
トイレットペーパーが普及する以前まで使われていたネズミ色をしたチリ紙(別名、「落とし紙」、「便所紙」)のことを「浅草紙」と呼びますが、紙漉町は、「浅草紙」の発祥の地です。
紙漉町の紙漉場の多くは、その後、山谷堀の周辺に移転しました。浅草紙の漉家にとって山谷堀は、紙漉きのための用水を供給してくれる大切な水資源でした。現在の東浅草一丁目に、”紙洗橋”の欄干が残っていますが、これは、山谷堀の漉家が堀端に水槽を設けて、紙漉きの作業の工程の一つである”冷やかし”(原料を 水につけておく作業)を行っていたことを示すものです。山谷の漉家で働く男たちは、”冷やかし”の間の二時間あまりの時間を利用して山谷堀をわたって新吉原に潜入し、偵察に出かけるのを楽しみにしていました。これが、「買わずに帰る」”冷やかし”の語源となりました。*1
雷門通りを挟んだ北側には、「旧浅草北田原町」の案内板。雷門通りをはさんで南北二町に分けられたため、南側が田原町三丁目、北側が北田原町三丁目(現在の浅草一丁目)になったと説明されています。
【参考文献】
*1 會田隆昭:浅草紙の三〇〇年–江戸=東京北郊に於ける漉返紙業の歴史地理(百万塔/紙の博物館, (113),2002.10)P.79-P.82
今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
5月22日に東京スカイツリーが開業し、浅草からの展望は大きく変わりました。
しかし、浅草のシンボルと言えば、この通称うんこビルです。
うんこの先っぽ。
上から見たうんこ。
温泉街にある千曲市総合観光会館の前にブロンズ像があります。
ブロンズ像の題は、「髪」。
温泉街らしい美人像です。
下の方から。
戸倉上山田温泉の南側のはずれに、温泉資料館があります。
温泉に関する貴重な展示品がたくさんあります。
当時の温泉の芸妓の展示コーナー
戸倉上山田温泉の芸妓の写真。
上山田温泉の西側に、大衆演劇場の「信州大勝館」があります。
この日も、昼、夜の2回、公演が行われていました。
この建物は、以前はストリップ劇場の「信州ロック座」でした。今でも看板だけが残っています。
ビルの屋上の大看板。「ヌード」と書かれた文字が見えます。
温泉街につきものの「射的」ですが、戸倉上山田温泉にも3軒ほどあります。
思い出の町通りには、2軒あります。
新世界通りの四つ角にある「射的」。
「遊技場」のプレート。
「思い出の町」は、戸倉上山田温泉の歓楽街の中心部です。
上山田温泉にカフェーができたのは昭和の初めですが、「思い出の町」は戦後にできた歓楽街です。売春婦は、戦後盛んになりましたが、現在は禁止されています。*1
売春防止法施行の影響は大きく、その翌年は客が3割減少し、約半数の赤線業者がしました。廃業した特飲店は、バーや飲食店、芸妓屋、ヌードショーホールに転業しました。*2
「喫茶スナック」のある路地。
路地を1本入ったところのスナック街。
【参考文献】
*1 乙部泉三郎,高野博夫:長野県戸倉上山田温泉のあゆみ(観光文化社,1960)P.85
*2 アサヒ芸能(1958.10.19)P.10-P.11
上山田温泉本通りの南側の一画。
古びたスナックの建物があります。
以前は、このあたりも歓楽街だったのかもしれません。
哀愁をおびたスナックの看板。
戸倉温泉の銀座通りは、千曲川寄りの戸倉温泉通りと上山田温泉本通り(温泉街のメインの通り)を結ぶ通りです。
今回は、戸倉上山田温泉(長野県)の町並みと風俗を散歩します。
戸倉駅から、バスで5分の場所に戸倉温泉はあります。
風情のある町並み。
かなり大きなゲートです。
千曲河畔通りと書かれたゲートがあります。
1955年、利賀村に「利賀少年自然の家」が完成しました。
前庭には、富山県婦人会から寄贈された「母子ブロンズ像」が飾られています。
この像は、トルコ風呂建設を阻止し、次代に生きる子供たちに健全な郷土を伝え得た県内婦人たちの記念碑とも言えるものです。*1
母子象には、「どの子にも愛の手を」という婦人会の願いをこめた言葉が刻まれています。
【参考文献】
*1 とやまの女性史
トルコ風呂は、近くの八乙女山(標高751m)にちなんだ名前がつけられる予定でした。
八乙女山周辺は、ハイキングコースになっています。
八乙女山の頂上。
八乙女山からは、日本の原風景「砺波平野の散居村」を遠望できます。
昭和50年(1975年)、富山県南砺市利賀村の栃原から下原にまたがる一帯に一大「トルコ風呂」街建設計画が持ち上がりました。しかし、この計画は、富山県や世論の反対に会い、トルコ風呂建設計画は中止となりました。
トルコ風呂の建設が予定されていた場所は、計画中止後は肉用牛牧場となりましたが、現在はその施設も無くなっています。
現在、この付近は、観光開発され、スキー場ができています。
この計画の裏には、歯止めの利かない過疎化を何とか食い止めようとした村の苦渋の選択がありました。「トルコ風呂誘致」によって一大歓楽街が生まれれば、村の過疎化を食い止めることができると考えたわけです。
利賀村は、富山県のトルコ風呂の営業が可能な区域(禁止除外区域)に指定されていて、この場所は、JR越中八尾駅からバスで片道1時間(1日2本)で、冬場には、3~4mの雪が積もる場所で、とてもトルコ風呂の営業が成り立つとは思えない山間僻地でした。
このような場所にトルコ風呂建設が計画されたとは信じられないような話です。
栃原の隣の下原にもトルコ風呂建設が計画されていました。
今回は、五箇山(富山県砺波市)の町並みと風俗を散歩します。
1995年に世界遺産に登録された五箇山地方は、合掌造り集落に代表されるように、周囲を山と川に囲まれ、独自の文化を育んできました(写真は相倉地区)。
相倉合掌造り集落から国道156号線を南西に5kmほど行ったところに、「民謡の里」と名づけられた公園のおうな場所がありますが、 ここに「お小夜塚」があります。
元禄3年(1690年)、加賀藩で藩士4人が職務を果たさず遊女と遊興にふけっていたことから、五箇山に配流(はいる)となる事件がおきました。このとき、遊女の「お小夜」も連座となり五箇山に流されました。お小夜塚の場合は、罪の軽い平流刑だったため、家を自由に出入りすることができたため、その美貌からたちまち配流の地でも憧憬の的となりました。
やがて、お小夜は吉間という男と愛し合うようになり、吉間の子を身籠ってしまいました。罪人の身で妊娠したことが藩にばれれば、吉間や村の人に迷惑がかかることから、苦悩の末、お小夜は、村の端を流れる庄川に身を投げました。
「女郎ヶ池」。二人が愛をかわした場所です。
余目駅前の商店街。
バス停の前にコンドームの自販機があります。
以前、鶴岡で見かけた自販機*1 と同型ですが、こちらの方が年数が経過しているように見えます。
販売されている商品は、「Kansai(寛斎)」です。
【参考記事】
*1 風俗散歩(鶴岡):コンドームの自販機(2008.11)
トルコ風呂論争の舞台となった常万児童公園(この写真の奥)に隣接して、皇大神社があります。
神社の境内の東側の奥まった一画に、道祖神社があります。
鳥居のすぐ後方に、石でできた男根が2つ。
血管が浮き出ていてリアルです。
国道47号線から100mぐらい入ったところに、常万児童公園があります。
トルコ風呂を排除する目的で、行政側が意図的につくった公園です。
児童公園と書かれたプレートはどこにもありませんが、遊具は設置されています。
公園から国道側を見ると、問題となったトルコ風呂の建物が見えます(写真奥)。
今回は、余目(山形県東田川郡庄内町)の町並みと風俗を散歩します。
かつて、山形県において、トルコ風呂開業阻止のため、児童公園が設置され訴訟事件となったことがありました。風俗営業法では、官公庁や学校、図書館、児童福祉施設などの敷地から半径200メートル以内でのトルコ風呂の営業することを禁止しているため、この規制を逆手にとって、行政側が意図的に公園を作ってトルコ風呂を排除しようとしたわけです。
この事件において、仙台高等裁判所は、昭和49年7月8日の判決で、「山形県知事の児童遊園地認可は、控訴会社(トルコ風呂業者)が現行法上適法になし得るトルコ風呂営業を阻止、禁止することを直接の動機、主たる目的としてなされたものであることは明らかであり、法の下における平等の理念に反するばかりでなく、憲法の保障する営業の自由を含む職業選択の自由ないしは私有財産権を侵害するものであって、行政権の著しい濫用と評価しなけらばならない。」とし、行政側が敗訴しました。さらに、昭和53年5月26日の上告審においても、最高裁判所は「行政権の著しい濫用であり、国家賠償法一条一項にいう公権力の違法な行使にあたる」と判示しました。*1
当時の住宅地図*2 には、余目町の常万に「トルコハワイ」と記された建物があります。
現在もその当時のものと思われる建物が残っています。
建物の裏側。
【参考文献】
*1 松本女性史の会:”買春”許すまじ(銀河書房,1984)P.72-P.74
*2 ゼンリン:東田川郡余目町・立川町(ゼンリン,1990)P.13
インターチェンジ沿いには、「ホテル京浜」以外にも数棟のホテルが立ち並んでいます。
複雑な形をした歩道橋の向こう側にホテルが見えます。
インターチェンジの南側。
人目をひく概観のホテル。
今回は、今井町(神奈川県横浜市保土ケ谷区)の町並みと風俗を散歩します。
戦後のモータリゼーションの進展に伴い、日本でもアメリカのモーテルを真似たホテルが道路沿いに建てられました。
日本初のモーテルは、石川県の「モテル北陸」であると言われていますが、「モテル北陸」はドライバーの休息を目的としたものであったため、本格的な日本初のモーテルは、横浜の東名高速道路のインターチェンジ近くにつくられた「モテル京浜(ニュー京浜)」でした。
ガレージ式ラブホテル。
入口を示す看板。
道路から見ると目立ちます。