鮫が橋の北の若葉にある戒行寺坂。
坂の登り口に銭湯の若葉湯があります。
コインラインドリー併設です、
銭湯裏の煙突。今は、隣が空地になっているので、煙突全体を見ることができます。
鮫が橋の北の若葉にある戒行寺坂。
坂の登り口に銭湯の若葉湯があります。
コインラインドリー併設です、
銭湯裏の煙突。今は、隣が空地になっているので、煙突全体を見ることができます。
JR四ツ谷駅から徒歩10分の場所にある新宿歴史博物館。
館内に入り、まず目を引くのが、「内藤新宿」の模型です。
新宿の赤線街を再現した展示。
文化住宅を再現した展示。大正の末から昭和の初めにかけて流行したサラリーマン住宅で、小規模な和風住宅の玄関脇に、洋風の応接間がついていました(案内板より)。
JR四ツ谷駅から大通りを迎賓館を左手に見ながら鮫洲橋坂を下り、右側の南元町公園に沿って右折すると、「せきとめ神」の祠があります。*1
鮫が橋地名発祥の地の碑
玉垣には、料理屋と思われる寄付の痕跡が確認できます。
江戸時代(宝暦以降、寛政改革で取り払いになるまで)鮫が橋は夜鷹の巣窟でした。江戸における出張売春婦としての夜鷹は、本所吉田町から出る女と、この鮫が橋の本拠を置く者に大別され、吉田町の私娼は手拭をかぶり、鮫が橋の女は手拭を用いませんでした。*1
【参考文献】
*1 花咲一男:江戸あらかると(三樹書房,1986)P.99-P.108
今回は、四ツ谷(東京都千代田区、新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
吉原遊廓の成立を書いた最古の資料「異本洞房語園」には、「慶長の頃迄、御城下定りたる遊女町なし、傾城屋所々にありし中にも、軒をならべ集り居たる場所、三四ケ所あり、麹町八丁目に十四五軒、鎌倉河岸に同断、大橋の内柳町に廿余軒...」と書かれています。麹町八丁目とは、現在の麹町四丁目付近です。*1
現在、この付近には、千代田区 町名由来板ガイドがあります。
遊廓は、元和3年に日本橋(元吉原へ)移転しました。*1
名由来板ガイドが設置されているのは、麹町4丁目と五丁目の境界付近です。
【参考文献】
*1 石崎芳男:よしわら「吉原」(早稲田出版,2003)
城山町の交差点にある銭湯の幸の湯。奥行のある立派な建物です。
ひっそりと居を構えています。
電柱のプレートに、銭湯の名があるのは珍しいです。
夜の様子。
駅前のみつわ通り商店街の奥。商店もまばらになり、事務所のビルが建ち並びます。
商店街の中ほどにあるスナック店。
テレクラ「てれ魔くん」。
18歳未満は入場おことわりです。
今回は、小山(栃木県小山市)の町並みと風俗を散歩します。
小山駅の東口と西口には3階(改札階)と1階(地上階)を結ぶエレベータが設置されています。
小山駅構内には、東西を貫通する自由通路とエレベータがあって、自転車利用の通行者が頻繁にエレベーターを利用します。エレベータの利用者を待ち構えるように、白ポストが置かれています。
どっしりとした角形の白ポスト。
エレベータ利用者に狙いを絞った白ポストの設置事例と言えそうです。
鬼脇市街には、随所に消火栓が設置されています。
赤い、台形の木箱です。
防火槽。
給水バルブも同じ目印の台形の赤い木箱です。
鬼脇にある日蓮宗妙泰寺。
かつて、境内には大正初期に建立された秋田谷稲荷明神の稲荷堂があり、鬼脇の遊廓の遊女が信仰していた時期がありました。*1
現在、妙泰寺の境内には、平成十年に新築された稲荷神社があります。
鳥居の奥に小さな稲荷堂があります。
【参考文献】
*1 工藤浄真:利尻研究(1986.05)P.11-P.25「利尻島における稲荷信仰」
利尻島の遊廓は、明治12年頃、鴛泊(おしどまり)に遊廓があり、明治32年に道庁告示により鬼脇村字ヤムナイ(清川)にも遊廓が設けられました。*1
利尻島郷土資料館の鬼脇市街略図*2 によると、橋を渡った先に遊廓がありましたが、ここからどのくらいの距離の場所にあったかは不明です。この道の先は行き止まりになっています。
清川の鬼脇中学校近く。ここから南側(この写真を撮った方向の逆方向)へ折れると鬼脇橋へ出ます。
鬼脇市街略図*2 に記載のあったヤムナイ橋「止内橋」へも行ってみました。
現在のヤムナイ橋は、鬼脇の市街から約1km離れた場所にあり、1枚目の写真の道の先に遊廓があったとは考えにくく、遊廓があった場所の詳細は不明です。
【参考文献】
*1 利尻富士町史編纂委員会:利尻富士町史(利尻富士町,1998)P.1358
【参考記事】
*2 風俗散歩(利尻):利尻島郷土資料館「明治末期 大正初期 鬼脇市街略図」
鬼脇は、利尻島のフェリーターミナルのある鴛泊(おしどまり)から、バスで約30分の場所にある町です。かつてはニシン漁で繁栄しました。
鬼脇の市街の中心部にある利尻島郷土資料館は、かつて鬼脇村役場だった歴史ある建物を利用した資料館です。
館内に地元の古老が記憶にもとづいて作成した「明治末期 大正初期 鬼脇市街略図」が展示されています。市街の中心部には、料亭が建ち並ぶ通りもあり、かつての繁栄が偲ばれます。
市街図によると、資料館(旧役場)の前の一つ南側の通りを西側へ進んで橋を渡った先に、遊廓があったようです。
遊廓手前の橋の下を流れる川を南へたどったところに、「ヤムナイ橋」の名が記されていますが、現在のヤムナイ橋は、ここから約1kmも離れた場所にある橋なので、この橋は鬼脇橋(鬼脇市街の東端に現存する橋)のことかもしれません。
今回は、利尻(北海道利尻郡)の町並みと風俗を散歩します。
利尻島へは、稚内からフェリーで110分です。
乗船してしばらくすると、前方に利尻岳の雄姿が望めます。
利尻岳の山肌が眼前に迫ってきます。
利尻島の玄関口「鴛泊(おしどまり)港」に到着。美しい「ペシ岬」が見えます。
現在の増毛港近くには、かつて入船町と呼ばわれた商船の貨物積込みの陸揚げ地点でした。
「入船町浜茶屋跡」の標柱が設置されています。
ここでは、船頭、船子を相手とした花街に類する営業が行われていました。
現在の益子港。
畠中町3~4丁目。かつての歓楽街に、スナックが散在しています。
ギャンブレル屋根のスナック。
スナックの看板を支える柱は木製です。
スナックもっちゃん。
遊廓があった畠中町4丁目。寿司屋の隣に、銭湯の増毛湯があります。
増毛湯は、昭和5年の市街図にも記載されています。
北海道らしい五角形のギャンブレル屋根の建物です。
現在は休業中のようです。
【参考文献】
*1 安田俊平:増毛市街案内図(北陽社,1930)
増毛遊廓は、格式のある花街で、客が芸者と床を一緒にすることはありませんでした。花街跡として、松島見番と思われる建物*1 が残っています。
玄関付近。
増毛楼があった場所。*2
対角の場所には、藤見楼がありました。*2
【参考文献】
*1 渡辺一史:北の無人駅から(北海道新聞社,2011)P.508-P.510
*2 安田俊平:増毛市街案内図(北陽社,1930)
畠中町4丁目。増毛の遊廓があった場所には、増毛町の史跡の標柱が設置されています。
明治15年、貸座敷料理店を開くため、裏町の町割りがされ、増毛新廓と名付けられました。
増毛市街案内図*1 によると、標柱が設定されている四つ角には、松嶋楼がありました。
遊廓や料亭、見番が建ち並んでいた通り。
【参考文献】
*1 安田俊平:増毛市街案内図(北陽社,1930)
千石蔵は、日本最北の酒蔵として知られる國稀酒造が所有する蔵で、現在は、にしん船やにしんの資料の展示室になっています。
展示室の休憩コーナーに、増毛町市街案内図(昭和5年)*1 のコピーが展示されています。南が上向きで描かれています。
当時の繁華街だった畠中町3~4丁目界隈。交差点の角に遊廓の松嶋楼、その対角に、松島見番。松島見番の向かいに銭湯の増毛湯があります。通りを東側へ進むと、共立見番、金盛楼、石川楼、藤見楼、増毛楼があります。他にも料理屋と思わえる店が建ち並んでいたことがわかります。
もう一つ展示されているが、昭和30年の「増毛町市街明細図」。こちらは、北が上向きで描かれています。銭湯の増毛湯はそのままですが、遊廓は、割烹料理屋などに変わっています。
【参考文献】
*1 安田俊平:増毛市街案内図(北陽社,1930)
今回は、増毛(北海道増毛郡増毛町)の町並みと風俗を散歩します。増毛は、JR留萌線の終着駅の町です。
増毛の駅前には、古くからの町並みが残っています。
駅前で目を引くのは、駅舎と向かい合うようにして建っている昭和8年建築の「旅館 富田屋」です。2階と3階の全面には、ガラス張りの縁側があります。*1
富田屋の隣に建つ「風待食堂」は、雑貨屋だった「多田商店」の建物で、現在は、観光案内所として利用されています。「風待食堂」は、昭和56年に公開された映画「駅 STATION」で駅前食堂として登場したときの名残です。*1
「風待食堂」のはす向かいに並ぶ「海榮館」「増毛館」も昭和初期の面影をとどめている建物です。*1
【参考文献】
*1 渡辺一史:北の無人駅から(北海道新聞社,2011)P.469-P.470,P.486-P.489
浦河に遊廓が許可されたのは、明治30年。場所は常盤町の奥、ウロコベツ川の河畔にありました。このあたりは、当時の浦河市街地から考えれば、ちょうど奥座敷に当たる場所です。*1
昭和9年の浦河港大観*2 の附図「浦河町市街浦河港俯瞰図」に、田中楼と桃花楼の位置が記されています。
「浦河町市街浦河港俯瞰図」*2 によると、田中楼と桃花楼があった場所は、森林事務所の先、ウロコベツ川の流れが道路から離れ、再び道路に近づくあたりですので、このあたりかもしれません。
田中楼の建物は、一部二階建てで、客部屋は9つほどありました。これに楼主の茶の間や寝間、台所、風呂などが続き、上からみると口の字型につながっていました。昭和5年浦河港の完成は、浦河に未曾有の繁栄をもたらしましたが、浦河遊廓もその恩恵を十分に受けました。浦河の成人男性以上の男でここに足を踏み入れぬ者はありませんでした。*1
【参考文献】
*1 グルッペ21うらかわ:浦河百話(共同文化社,1992)P.396-P.401
*2 浦河漁業組合:浦河港大観(浦河漁業組合, 1934)
銭湯のえびす湯。
浜町の中心部にあります。
昭和40年頃は、住民だけでなく船で浦河港に入る漁師たちも来て、多い日には300人もの客を迎えて芋の子をあらうような混雑ぶりでした。*1
入口には、えびす様のタイル絵。
【参考文献】
*1 小野寺信子,河村和美,髙田則雄,続浦河百話編集委員会:続浦河百話(同文化社,2013)P.401
浦河市街にある映画館の大黒座。大正7年の創業です。*1
当時、浦河の最も一般向きな娯楽機関としては、大衆館、大黒屋の2館がありました。大衆館は松竹、新興キネマの製作品を上映、大黒座は日活系に属していました。*2
魚期市中の賑わう際は、ほどんど毎夜ぶっ通しの興行で、映画の他に地方民謡・レビュー、浪花節等の出し物を配合した興業でした。*2
様々な旅芸人一座が全国を回っていた時代、会場は、大黒座のような映画館でした。*3
小規模な映画館が存続にかかわる岐路に立たされている中、大黒座はデジタル映写機器を導入し営業を継続しています。*1
【参考URL】
*1 浦河大黒座 公式サイト
【参考文献】
*2 浦河漁業組合:浦河港大観(浦河漁業組合, 1934)P.53
*3 小野寺信子,河村和美,髙田則雄,続浦河百話編集委員会:続浦河百話(同文化社,2013)P.318-P.321
今回は、浦河(北海道 浦河郡浦河町)の町並みと風俗を散歩します。
浦河の浜町には、昔、料亭があって、歌や踊り、三味線、太鼓などで客を楽しませる芸者さんをたくさん抱えていました。*1
料亭(割烹)は、「若松」「海月」「藤本」「一力」「ぎおん」、カフエーは、「クロマツ」「若松」「大洋」「キング」「坊ちゃん」「アケミ」「銀座会館」「エリモ」「ミナト」「末広」「明月」「金星」「嬢ちゃん」「一二三家」「マスミ」「酒場殿様」「思い出」などがありました。*2
料亭「海月」があったあたり。*1
浦河の花柳界の殷賑を極めた理由の一つに、「若松」と「海月」がきっこうして互いに譲らなかったことがあげられます。*2
料亭「若松」があったあたり。*2
浜町通りの中心部の交差点。この付近にカフエー「坊ちゃん」がありました。*2
*1 石田明:街並に生きた人びと 昭和初期の浦河(石田明,1992)P.185-P.187
*2 小野寺信子,河村和美,髙田則雄,続浦河百話編集委員会:続 浦河百話(浦河町,2013)P.399-P.404