大曲市街の丸子川を渡ったあたり。
古いお菓子屋さんの建物が残っています。
モダンな装飾です。
鮮やかな緑色の円柱。
大曲市街の丸子川を渡ったあたり。
古いお菓子屋さんの建物が残っています。
モダンな装飾です。
鮮やかな緑色の円柱。
大曲には、明治に入ってから八幡町に遊廓が置かれました。*1
現在は、スナック、飲食店、ビジネスホテルなどが営業しています。
花魁の看板。
逆方向から見たところ。
【参考文献】
*1 木村聡:色街百景(彩流社,2014)P.214
今回は、大曲(秋田県大仙市)の町並みと風俗を散歩します。
JR大曲駅のエスカレータ前に白ポストが設置されています。
白ポストと各種ゴミ箱。
側面は、モスグリーンに塗装されています。
エスカレターから見る白ポスト。
黒石市の保福寺の近く。
「新興街入口」の看板があります。
入口には、飲食運転追放の標語が掲げらいます。掲げられています。
「新興街」と言えば、青森の「第三新興街」*1 を思い出しますが、黒石の「新興街」も味わいのある通りです。
【参考記事】
*1 風俗散歩(青森):第三新興街
甲徳兵衛町の通りからは、横丁の建物がいくつか建ち並んでいます。
両側から建物が覆いかぶさっていている呑みや屋横丁。
建物は2階建てです。
建物の背面。
黒石の歓楽街の甲徳兵衛町。規模は小さいですが、居酒屋やスナックが密集しています。
スナックの看板が乱立します。
夜になるとタクシーが行列を作ります。
艶やかなネオン街。
中村旅館(旧遊廓)の前の通りを南側へ進むと商店が建ち並んでいる一画があります。
年代を感じる理容室の建物。
水色のタイルで統一されています。
軒下のテントは、理容室のサインポールと同じ配色。
中村旅館の玄関を入ると、目の前に赤い漆塗の階段があります。
漆がすり減った手摺はとても低く、遊女がここに並んでお客様を出迎える顔見せの場所だったともいわれています。*1
2階から階段を見下ろすと、急な階段であることを実感できます。
2階の階段部分。
【参考文献】
*1 まるごと青森:遊郭の雰囲気残る、黒石市の「中村旅館」
黒石のこみせ通りの南東方向の浦町1丁目にある中村旅館。木造の建物が印象的です。
昭和9年の諸統計*1 によると、黒石には、「松年楼」「大盛楼」「一金楼」「花月楼」の4軒の遊廓がありました。地元の方の話によると「松年楼」は誤りで「松月楼」が正しく、中村旅館の前身は、この「松月楼」でした。
歴史を感じる玄関の門。
地元の方の話によると、当時は、この通り沿いに遊廓が建ち並んでいました。
「産業の黒石(昭和13年刊)」*2 によると、裏町花街の青楼は、「松月楼」「村上楼」「相金楼」の3軒で、量より質といったかたちで十数名の酌女が競っていました。
【参考文献】
*1 中村元吉:警察史余話第一集 売春三百年史(中村元吉,1959)P.87
*2 津軽実業新報社: 産業の黒石(津軽実業新報社,1938)P.39
今回は、黒石(青森県黒石市)の町並みと風俗を散歩します。
「こみせ」と呼ばれる庇屋根(アーケード)が続く黒石の「こみせ通り」は「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。
通りの両側に庇屋根が続きます。
古い民家に牛乳箱が2つ並んでいます。
横開きの箱なので、横向きに設置されています。
弘前市街にある石場旅館は、明治12年小間物屋と旅籠を兼ねた店として開業されました。*1
地元の方の話によると、戦争中は、出征する兵士を送る家族と面会するための旅館として使われたそうです。
玄関を入ると、柱時計が出迎えてくれます。
木製の太鼓橋は圧巻です。
夜の様子。
弘前の歓楽街の中心部にあるMEJIYAゴールデン街。
ビルの中の小路は、複雑に入り組み、階段があったり、独特の雰囲気です。
この通路から、明治屋グランドビル、ニュー明治屋センター、VIVID、さらに明治屋会館につながっています。
ニュー明治屋センター。飲食店や風俗店がびっしりです。;
弘前の遊廓は、現在の北横町にありました。八稿薬舗(現在の八木橋薬局)から東側が遊廓があった場所です。*1
現在は、当時の面影はありません。
掘りが横断するあたりが遊廓の西端です。*1
北横町から東へ折れた道の左側には、高田楼、長栄楼、第二曙楼がありました。*1
【参考記事】
*1 風俗散歩(弘前):ひろさき懐かし地図
弘前市土手町の商店街にある一戸時計店(写真右側)は、「ひろさき懐かし地図」*1 にも記載されている趣のある建物です。
一戸時計店の左側に弘前中央食品市場の入口があります。
生鮮は惣菜などの食糧品が販売されています。
市場は奥まで続いています。
【参考記事】
*1 風俗散歩(弘前):ひろさき懐かし地図
今回は、弘前(青森県弘前市)の町並みと風俗を散歩します。
駅前の観光案内所で配布されている「ひろさき懐かし地図(マップ)」。昭和10年の弘前の街へタイムスリップすることができます。
昭和10年に発行された「弘前市案内圖」の復刻版です。現存する商店などの建物が色分けされて示されています。
北横町にあった遊廓の妓楼名が記載されています。
田名部川沿いに油田型の銭湯の煙突が二基見えます。
銭湯の「葦の湯」。
銭湯の設備は重厚です。
脱衣場の丸籠と体重計。
田名部川の新大橋近くにある銭湯の寿湯。温泉浴場です。
銭湯の前の畳屋の建物に、寿湯の看板があります。
銭湯脇の材木置き場。
レトロな煙突。
田名部川にかかる大橋を渡ると、徳玄寺があります。
山門をくぐった境内の中に、日本映画の異才と言われた映画監督川島雄三の碑が建っています。
横並びに彫られた井伏鱒二の訳詞が森繁久彌の揮毫で刻まれています。*1
川島雄三は、むつ市に生まれ、松竹大船撮影所に入社し、その後、日活、東京映画、宝塚映画などを渡り歩きました。*1
代表作には、「洲崎パラダイス赤信号」などがあります。芝木好子原作の「洲崎パラダイス」を映画化したもので、赤線地帯「洲崎」を描いた作品です。
【参考文献】
*1 阿部誠也:あおもり文学の旅(北方新社,2006)P.147-p.149
田名部市街を国道279線を北側へ進むと、やがてむつ市立第一田名部小学校がある小高い丘に突当ります。
昭和9年の統計 *1 によると、田名部には、「新喜楼」「大万楼」の2軒の遊廓がありました。
昭和6年の市街図では、小学校の東側の麓に「新喜楼」の記載があります。*2 (裏面に記載されている実業名では、料理屋に分類)
現在は、かつての歓楽街の名残はありません。
小学校がある丘からの遠望。
【参考文献】
*1 中村元吉:警察史余話第一集 売春三百年史(中村元吉,1959)P.89 「昭和九年公娼廃止時の諸統計」
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1931)第243號 青森県 田名部町
田名部神社の西側に位置する神社横丁は、もともとは戦後の闇市があった場所で、昭和の時代は、数軒の魚屋を中心に、餅屋、古本屋、駄菓子屋、食堂などが軒を連ねていました。*1
呑みや横丁の雰囲気は十分です。
裏側の通り。
神社横丁の北側のスナック街。
【参考文献】
*1 まるごと青森:神社横丁はしご酒
今回は、田名部(たなぶ、青森県むつ市)の町並みと風俗を散歩します。
市街の南側(横迎町1丁目)の国道沿いに、「はまなす通り」「天きん通り飲食街」の横丁の建物が建ち並んでいます。
さらに西へ進むと、「ミナト通り遊飲街」。
横丁の裏側は、雰囲気のある路地でつながっています。
田名部神社の南側にある「田名部横丁」。
明治35年、海軍基地の設置が決まると、遊廓設置の動きが活発化し、最終的には、明治38年に現在の大湊新町に小松野遊廓が開かれ、昭和33年の売春防止法が施行されるまで続きました。*1
映画「飢餓海峡」の中で、八重と犬養の二人が一夜を共にした小松野川沿いに並んでいた娼館の建物はすでになく、現在は、きれいな住宅が続いています。*2
唯一、「山港楼橋」という橋の名前に、わずかに歓楽街の名残を見つけることができます。*2*3
昭和9年の統計*4 によると、大湊には、山港楼、新盛楼、竹家楼の3軒の遊廓がありました。
山港楼は、この辺りでは一番大きな遊廓でしたが、いまは人手に渡って更地になっています。*3
山港楼の跡地の北側からの遠望。眼下に陸奥湾(写真左奥)が見渡せます。
【参考文献】
*1 むつ市史編さん委員会:むつ市史 近代編 明治・大正時代(むつ市,1986)P.583-P.585
*2 紀平重成:毎日新聞(1992.11.1 日曜くらぶ )P.1,P.4-P.5 「名作映画を歩く 飢餓海峡」
*3 斎藤作治,鳴海健太郎:はまなす 第25号(2009.11)P.13-P.21「映画『飢餓海峡』ゆかりの地を訪ねて」
*4 中村元吉:警察史余話第一集 売春三百年史(中村元吉,1959)P.89「昭和九年公娼廃止時の諸統計」
大湊新町のスナック街は、小松野川沿いから西側へ続いています。
「三善通り」のゲート。
カラフルなスナックの建物が建ち並ぶ歓楽街です。
反対側の「三善通り」のゲート。
今回は、大湊(青森県むつ市)の町並みと風俗を散歩します。
大湊の市街の中心部を小松野川が流れます。
小松野川と国道338号線が交差するあたりの三叉路付近には、スナックが密集しています。
西側の通り。スナック店の共同建築。
明治35年(1902年)に、海軍基地が設置されてから、今日に至るまで、軍隊(自衛隊)と歓楽街は、密接な関係を持っています。