坂田玉子: 福井新聞 3月22日 (福井新聞,1997.3.22)旧町名は語る大野編8-旧神明町の盛衰(下)

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大野の神明町向島で鉱山景気の内に繁栄を極めた「製錬社」が、明治32年以後操業を停止し、働いていた鉱員ら神明町の住民は栃木県の足尾銅山などへ転職していって町内はさびれ、県税納税者も激減した。だが、一度は減った県税納税者が明治39年にはまた、179軒と増加している。その上位ランクには、面影楼、開運楼、松清楼、永楽楼などの名前があり、それまで神明町を牛耳った人々と交代している。彼らの業態は「貸座敷業」である。
神明町がにぎわいを取り戻した原因は、「貸座敷業」の繁盛にあったといえる。
大野町では、二度続いた大火の後、大英断のもと、時の町長岡気一(旧藩士)と議員らが協議を重ね、六軒通り、石灯籠小路(東西の街路)を火防線に拡幅工事したが、その折、今まで悪所としてひんしゅくを受けていた町の裏通りに散在していた家々を一ヶ所に集めることを決めた。その場所として、上寺の瑞祥寺、岫慶寺、恵光寺、蓮光寺の寺の裏地とそれに神明神社(町名の由来)、日吉神社付近の畑地などが選ばれ、早速着手された。
今は百歳近い老人が、「さんのう(神明神社の俗名)へ行ってこかや」というこの短い言葉は、貸座敷での遊びの誘いの意味になっていた。この繁盛ぶりは、昭和33年4月に売春防止法が発令されてから消えていった。