古老が語るふるさとの歴史 北部編1981
皆ヶ作の銘酒屋
P.140-P.142 大正初めまで、皆ヶ作と呼ばれていた辺りは一面の田んぼでした。大正9年にここを埋め立てましたが、それを機会にそれまで船越町の中心部に点在していた銘酒屋を、この皆ヶ作という一地域にまとめたのでした。地域の住民の反響といえば、ただの田んぼばかりの町から、大勢人が集まる町になるということで、非常に評判がよく、事実、町の発展にもつながっていたのでした。 皆ヶ作の銘酒屋は、最盛期には45軒ぐらいあり、娼婦は1軒につき4人ぐらいいたようです。艦隊が入港した日や海軍工廠の給料日ともなると大変なにぎわいを見せ、不夜城という言葉がピッタリするような状況でした。駒寄の入口には「歓迎花屋敷花柳界入口」の大アーチの官が立ち、いかにも当時の繁盛ぶりを示しているようでした。当時の相場といえば、チョンの間-つまり一仕事終えること-がだいたい50銭ぐらいでした。いい娘がいると評判が立った銘酒屋の前には、1週間ぐらいたむろする人の行列ができたということです。
駒寄周辺
P.34 駒寄(船越六丁目)は、細長い谷戸です。ここは「牛谷戸」と呼ばれ、昔はたくさんの牛を飼育していた場所だと聞きました。この谷戸の一角に田んぼだけのやや広い谷戸があって、ここが有名な皆ヶ作です。何しろ、ここは田を埋めてみんなが協力しあって作った町だ、ということから「皆(みな)ヶ作」といい、それが転じて、「かいがさく」と言うようになったといいます。 ここは「入舟亭」という芝居小屋もあって、毎晩、人力舎で太鼓を打ちながら、客寄せにやってきたものです。 P.35 皆ヶ作には、花屋敷と呼ばれる場所がありました。皆ヶ作というと、古い人たちは、直ぐ色町を思い浮かべると思いますが、この花屋敷は、文字通り植物の花を扱っていた屋敷です。 P.37 船越の仲通り商店街は、戦争なかば頃までは北郷随一の賑わいをみせておりました。船越小学校の脇から東芝へ抜ける道は、今のように暗渠になっておりませんでしたので、道の半分ぐらいまでが過程の汚水やゴミが流れ込むドブ川でございました。このドブ川の傍に、芸者屋、料理屋などが密集し、兵隊同士の争いや工員たちのケンカが絶えず、よく、このドブに落とされてケガをする人がおりました。 P.41 船越の飲食店はどこも客迎えが上手かったと聞いている。主な店は飯田屋、福住、魚半、精養軒、木村屋、大正バーなどあり、昭和初期には、皆ヶ作の入口から奥へ、たくさんの居酒屋やカフェーが軒を連ねていた。どの店にもきれいな女給さんがいて、愛想よく客を呼び込んでいた。