西田素康撫養港の「みなと文化」みなと総合研究財団 リンク
P.88-22-P.88-24 遊里・料亭 廓 撫養港そばの林崎遊廓の起源は、近世末にさかのぼる。鳴門市史上巻(昭和 51 年刊) によれば、安政 2年(1855)著者不明の「鳴門夢路記」の中に、帆ざし女として次の一文 が記されている。 岡崎てふ処は四方の国々により商人船の多く出入る湊にて賑はしき処なり、すなわ ち小鳴門口より塩の満干する川にて入海なり浮女など数多ありて、件の船にもゆきか ようよし、さはあれと公よりゆるしなきまつ表は商人船なと破れたるをつづりさす業 もておのとおのも頭のかみにはり一はりなんゐけるよし。 号て帆ざし女といふとならん。 おかしき名こそありけり この〝帆ざし女〟の系統が明治大正 に入って、林崎遊廓の原点となるのである。手元に「町要算用帳」という名の大福帳面があり、大正 4年(1915)から昭和 34 年(1959) 11 月に至る 44 年間の撫養・林崎東新町丁中の妙見神社祭礼寄付帳である。 松富楼、玉川楼、改進楼、菊水楼、村上楼、金時楼、喜楽楼、丸山楼、衆景楼 大正7年(1918)に鈴木楼、寿楼、喜鶴楼、共栄楼、同8年には繁栄楼、福寿楼、福美 楼、共栄楼、常磐楼などの楼名が見えるが、これは全く新しい店が増えたわけではなく、 家の売買や改名があったと解釈すべきで、楼が増えたものではない。遊廓そのものは 10 軒前後で終始したものと理解すべきである。 撫養川岸の林崎花街(戦前) 芸妓は林崎地区と岡崎地区にそれぞれ検番の傘下にあった。また、置屋 おきや も同様で港を中 心に活況に満ちていた。写真は両地区の芸妓の総見とでもいおうか。 林崎新町 新町の花街には芝居小屋である清光座(戦後は映画演劇専門館となる)を中心にして, 料亭、旅館、各種商業店舗が棊 き 羅 ら の如く建ち並び、主として船員の客を待っていた。 ④料亭 陣幕(置屋を兼ねる) 八木亭(芝居茶屋を兼ねる)後に若竹 みよし亭( 芝居茶屋を兼ねる)国の山亭、山本席、高松席、かき船 橋本亭、いずか亭(三階建)淀亭

この文献を参照している記事

鳴門(林崎遊廓跡地)近世から続いた遊廓
鳴門(林崎花街跡)撫養町